第2話「便利すぎた時代に生きてたんやな、俺」
学校初日というのは、どの時代も憂鬱なものらしい。
制服に袖を通しながら、俺は昨夜確認した情報を頭の中で整理した。山田蓮、高校一年生、四月から地元の公立高校に通う。家族構成は両親と妹一人。父親は会社員、母親は専業主婦。ごく普通の昭和の家庭だ。
問題は、俺の中身が2024年生まれの霧島蓮だということだった。
「蓮、忘れ物ない?」
「ない」
玄関を出て、通学路を歩き始めた。最初に気づいたのは静けさだった。
(…静か。)
街が静かだった。いや、正確には音がないわけじゃない。車の音も、鳥の声も、商店街の喧騒もある。ただ、ない音がある。
イヤホンをしている人間が、一人もいない。
当たり前だ。ウォークマンはあっても、スマホはない。みんな、ただ歩いている。景色を見ながら、ぼんやりしながら、誰かと喋りながら。
(こんな感じやったんか、外って。)
なんか新鮮だった。
教室に入ると、クラスメートたちがざわついていた。俺は適当な席に座って周りを観察した。
まず気になったのは、黒板だった。でかい。そして、それだけだった。黒板と、チョークと、出席簿。それだけで授業が成立する世界。
(プロジェクターもタブレットもない。)
当たり前だけど、改めて見るとすごかった。
担任が入ってきて、ホームルームが始まった。連絡事項を黒板に書いていく。チョークの音が教室に響く。
(これ、全部手で写さなあかんのか。)
現代なら写真一枚で済む話だった。俺はため息をこらえながら、ノートを開いた。
休み時間になると、隣の席の男子が話しかけてきた。丸顔で人懐っこそうな顔をしている。
「お前、山田?俺、佐々木。よろしくな」
「あ、よろしく」
「なあ、昨日のナイター見た?延長までいったやん」
(ナイター。野球か。)
「見てない」
「え、野球興味ない系?じゃあ何聴いてんの?音楽とか?」
「ロックとか」
「ロック!渋いな。どこの?」
俺は一瞬考えた。この時代にまだ存在してないバンドを言ったら意味不明だ。
「…洋楽とか色々」
「あー洋楽か。俺はもっぱら歌謡曲やわ」
佐々木は笑いながらそう言った。悪い奴じゃなさそうだった。
三時間目は社会の授業だった。
教科書を開いて、先生の話を聞いていた。特に問題はなかった。現代でも習った内容だ。ノートを取りながら、なんとなく窓の外を眺めていた。
「山田」
名前を呼ばれて、俺は顔を上げた。
先生が教壇から俺を見ていた。五十代くらいの、白髪混じりのおじさん先生だった。
「今の千円札の肖像、誰か言えるか」
(千円札の肖像。)
俺は少し考えた。千円札といえば野口英世だ。いや待って、今は1982年だ。野口英世になったのはいつだっけ。夏目漱石の前か後か。
(あれ、1982年って誰やったっけ。)
頭の中が真っ白になった。
「山田、わかるか」
「え、と…」
(誰やったっけ。野口英世?夏目漱石?違う、もっと前の人や。)
「…福沢諭吉、ですか」
教室がざわついた。
先生は眉をひそめた。
「福沢諭吉は一万円札やろ。千円札も知らんのか」
「あ、すみません」
「伊藤博文や。初代総理大臣の」
(伊藤博文!そうやった!)
「お前、昨日財布使わんかったんか」
「使いました」
「使っといて顔も知らんのか」
先生は呆れた顔で首を振った。クラスがくすくすと笑っていた。佐々木が俺の肩を叩いて「大丈夫か」と小声で言った。
(大丈夫じゃない。)
顔が熱かった。
昼休み、購買でパンを買いながら、俺は財布から千円札を取り出した。改めてじっくり眺めた。ひげを生やした、厳めしい顔の男。
(伊藤博文。初代総理大臣。)
覚えた。二度と忘れない。
お釣りをもらった。いつもの見慣れない500円玉が手のひらに落ちてきた。
(この500円玉も、なんか微妙に違うんよな。)
うまく言えないけど、現代の500円玉と微妙にデザインが違う気がする。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃない気もする。
(本物の1982年やな、ここ。)
放課後、帰り道に商店街を通った。レコード屋の前で足が止まった。ショーウィンドウにズラリと並んだレコードのジャケット。
(あ、そうかCDってまだないんか。今年の秋に出るやつや。)
知識としては知っていた。でも実際に目の前にレコードしか並んでいない景色を見ると、じわじわと実感が湧いてくる。
その中に一枚、見覚えのある名前があった。まだ無名のはずの、あのバンドだった。
(あ。)
心臓がどくんと跳ねた。
俺はレコード屋のドアを押した。




