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【短編小説】蕎麦屋

掲載日:2025/12/16

 真っ黒いつゆに沈んだ蕎麦を箸で引き上げると、湯気が立ち上り視界が白く濁った。

 蕎麦を葱といっしょに手繰る。

 鼻に七味唐辛子の香りが突き抜けた。

 油を吸って臭みが出はじめている竹輪天の中には紅生姜が詰まっており、噛むとその油臭さを程よく緩和してくれる。

 七味の効いたそれらを一気に口の中へ放り込み、続けてどんぶりを持ち上げて黒いつゆを飲み干した。

 喉を流れ落ちて腑に落ちた蕎麦を感じながら一息いれる。

「うむ」

 駅前の鄙びた蕎麦屋に求めている全てがそこにあった。

 がらりと引き戸を開けて入ってきた客は常連なのか、カウンターにつく前に「天玉そば」と注文をした。

 


 蕎麦湯を注いだつゆを飲み干して

「うまかった、ごちそうさん」

 とん、と小さな音を立ててどんぶりをカウンターに返した瞬間だった。

 隣で天抜きとビールを煽っていた老人が鼻を鳴らして「ふん、これがご馳走なもんかよ」と言った。

 返したどんぶりから手を放すのが一瞬遅れた。

 厨房に立っていた女将と目が合う。

 あ、と思った瞬間だった。



「なんだと」

 ねじり鉢巻きをした大将がこちらを向いた。正確には俺の隣の老人を睨んだ。

「もういっぺん言ってみろ」

 

「何度でも言ってやるよ、これがご馳走なもんかってんだ」

 赤い顔をした老人は鼻で息をしながらコップのビールを飲み干すと俺を一瞥した。

「お前さんも貧相な食生活を送りやがって、普段はどんなもん食ってんだ」

 こんな蕎麦屋の蕎麦がご馳走だと?そう言って老人は瓶に残ったビールを覗くと、そのまま舐めた。

 誰もが老人の吐く次の言葉を待っていた。

 それは蕎麦屋の大将の暴力を待つと言うことでもあった。


 老人はたっぷりと時間を使って俺たちを焦らしてから

「だいたい使い古した油で揚げた臭ぇ天ぷらなんざ食わせやがって、ビールもしょんべんみてぇな薄さだぞ。水で割ってんのか、全く冗談じゃあない」

 老人が指で弾いた瓶はぐらぐらと揺れてから姿勢をただすように止まった。


 大将は何も言わなかった。

 何か緊張の間が抜けた気がした。

 俺はゆっくりとどんぶりから手を放して財布から小銭を取り出そうとすると老人は手を伸ばして止めた。

「待ちなよあんちゃん、金なんざ払う事はないぜ。料金以下の不味い飯に出す金なんざありゃしねぇだろう」


 そこまで黙って聞いていた大将は老人から目を離して俺を見ると

「あんちゃん、さっき旨いと言ったよな」

 低い声で訊いた。

「はい、旨いと言いました」

「ごちそうさんと言ったよな」

 大将の声にドスが混じり始めている。

「はい、言いました」

 俺は声が裏返らないように下っ腹に力を入れた。

 大将は俺の目を見たままニヤリと笑うと再び老人を見て吐き捨てるように

「おう、聞いたかいじいさん。この若ぇのはあんたより人間が出来てらぁ」

 そう言って鼻を擦った。


 なんとなく大将にムカついた俺はいま食ったばかりの蕎麦の感想を述べた。

「でも竹輪天は油を吸いきって少し臭かったです」

 その瞬間に大将は俺を見た。

「なんだと」

 瞳孔が開いている。

 大将は眉を吊り上げて俺を睨んだ。

 俺は再び下っ腹に力を入れた。

「でもまぁ旨かったっすよ、久しぶりの揚げ物だったし」

 俺は蕎麦と竹輪天の代金をカウンターに乗せた。

「ただまぁ温玉も注文したのに出てこなかったんで、これで」

 そういうと、老人は皿に残っていた海老天の尻尾を勢いよく噴き出して笑った。

 海老天の尻尾が女将の眉間に刺さる。

 女将は片頬だけあげて笑うと「ふん」と気合を入れた。

 女将の眉間に刺さった海老天の尻尾は木っ端微塵になって消えた。


 店内には大釜に煮立った熱湯の泡が弾けて奏でる破裂音だけが響く。

 大将の手の中にあるテボにはまだ蕎麦が収まっており、その蕎麦は完全に伸びきっているだろうなと言う事だけは想像がついた。


「じゃ、そんな感じで」

 俺は引き戸を開けて暖簾をくぐり、ぴしゃりと音を立てて閉めた。

 その瞬間に中からどっと笑い声が聞こえてきたが、その中には伸びきった蕎麦を喰うであろう男の声は無かった。


 振り向くとそこには見上げるほど巨大な狸の信楽焼が立っており、動かぬはずの目をぐるりと下げて

「人類みな麺類」

 と言って消えた。

 俺はそこが涅槃であると気づいたのはそれから何日か経ってからだった。

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