女騎士、少年王、暴虐の将
薄暗い謁見の間に、病弱な少年王は玉座に身を預けていた。その傍らに立つ女騎士は、重い扉が開く音に剣の柄へ手を走らせる。入ってきたのは暴虐の将。噂に聞く男の威圧感は、まるで嵐の前の静寂のようだった。
「将軍」
少年王は穏やかに微笑んだ。
「よくぞ反乱を鎮めてくれました。貴方の瞳には嵐のような時代に立ち向かう意志がある。しかし、嵐が止む時を想像したことがありますか?」
将は王の問いかけに、低い声で答えた。
「王よ。残念ながらこの国に安息が訪れることは百年はないでしょう」
「ならば、死だけが安息か?」
将は無言で一礼すると、女騎士をちらりと横目で見た。その視線に女騎士の心がざわついた。何か不吉な胸の高鳴りを感じたのだ。重い扉が閉まる音が響き渡る。
少年王が急に目眩を起こし、女騎士は咄嗟に彼を抱き止めた。
「以前の僕は、君に剣で勝てたのにな」
少年王は皮肉な様子で微笑んだ。
「今では立ち上がるのにも君が必要だ」
「生涯を通してあなたをお守りします。絶対にお側を離れません」
女騎士は微笑みながら答えた。
「昔の君は僕より背が低かった。負けん気が強くて、何度も挑んできたね。あの頃の君が懐かしいよ」
「お戯れを。もうお互い立場がある身の上なのです。姉弟のように育つことができた人生だけで私は十分です」
女騎士の言葉に、少年王は哀しく微笑むだけだった。
*****
結局、将は反乱に内通していた。計画的な謀反は瞬く間に国中に広がった。そして将の軍勢の雄叫びが王城を震わせた。城は城壁を破られ、いよいよ王の間に反乱が迫る。その前の広間に、女騎士はただ一人で立ちはだかる。
「道を開けろ!」
兵士たちが怒鳴る。
「王の御前なり! 騎士の誇りにかけて、ここは通さぬ」
激しい剣戟が始まった。女騎士は次々と兵士を切り伏せていく。血飛沫の中、凛として剣を振るう姿は、まさに戦場に咲く一輪の花のようだった。十人、二十人、三十人。倒しても倒しても、新たな兵が押し寄せてくる。
数十人を倒し、息を切らしながらも静かに構える女騎士。その佇まいは血に塗れてなお気品を失わない。だが、息も切れ、剣も刃こぼれだらけ。自分のもおか返り血なのかもわからないぬめった血糊で目も霞む。
「くくく、殺せ! 殺せええ!!」
女騎士は修羅となって叫んでいた。脳裏に浮かぶのは、王の間で自分と少年王が共に倒れ伏す光景。それこそが人生の完成、最も美しい終幕。それは今や目前に。
そこへ将と親衛隊が到着した。重装備の騎士たちが女騎士を囲む。
「一対一の決闘を申し込む!」
親衛隊の老いた騎士が前に出た。激闘の末、女騎士は利き腕を骨折しながらも騎士を討ち取った。だが、もはや立つことすらままならない。乱れる荒い息を抑えることもできず膝をつく女騎士の前で、将が口を開いた。
「余と親衛隊の絆は特別だ。冬に遠征したおり、遭難しかけて地面に穴を掘ってみんなで裸になって飛び込み、敵の死体で蓋をして寒さを凌いだなあ」
「ひでえ臭いでしたぜ、閣下」
傷だらけの顔の騎士が懐かしむように言った。
「おいおい、それはお前の下痢便の臭いだろう?」
若い騎士が皮肉を飛ばす。
「ギャハハハハ!」
親衛隊の笑い声が響く。
将の声が静かになった。
「ハハハ……そういう方法で暖を取るのを教えてくれたのは……今し方霊魂となった我が師だったな。俺が幼い頃から色々教えてくれた。歳の離れた兄のような存在だった」
笑い声が凍りついた。親衛隊全員の視線が一斉に女騎士に向く。濃密な殺意が立ち込める。女騎士は初めて、本物の恐怖を感じた。飢えた狼の群れに囲まれたような、原始的な恐怖だった。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
低い呪詛のような声が重なり始める。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「黙れ!!!」
将の雷鳴のような一喝で、すべての動きが止まった。
「この女は俺の兵を大勢殺し、教師がわりだった者すら殺した憎い仇だが、しかし勇者である。この尊く強い騎士を讃えよ!」
「うおおおおおおおお!!」
親衛隊の歓声に、女騎士はすっかり気圧されてしまった。将は女騎士を見下ろした。
「腕が折れて戦えぬものを殺すわけにはいかんな」
そして王の間へと歩を進める。振り返ることなく、将は言った。
「だが、あの王は……生かしてはおけない。このままならあの少年は戦うことも無しに病床で死んだだろう。そうしたらお前はきっと、ずっと墓を守るだけだったに違いない。俺が解放してやる」
静謐な王の間。少年王は玉座に座したまま、入ってくる将を穏やかに迎えた。
「やはり貴方でしたか。嵐のない安息は……私たちには訪れないようですね。残念ですが、あの人が生き残るのであれば……」
「覚悟はできているか」
「ええ。ただ一つ、お願いがあります」
少年王の声は静かだった。
「彼女に……絶対に殺されないでください。それだけが彼女を生かす方法なのです」
将は無言で剣を抜いた。
少年王は目を閉じる。脳裏に浮かんだのは、幼き日の記憶。女騎士と野原を駆けた日々。明るい陽光、響き渡る笑い声、風に揺れる草花。まだ彼女の方が背が低くて、負けん気だけは人一倍強くて、何度も何度も剣の稽古を挑んできた、あの頃。
剣が振り下ろされた。
玉座に、紅い花が咲いた。
女騎士は傷ついた体で壁に寄りかかっていた。王の間から漏れる音。少年王の首が石畳を転がる、あの特有の音を、彼女の耳は確かに捉えた。
将と親衛隊が王の間から出てきた。将の剣は血に濡れている。
「お前を追放する。決してこの国に戻ってこれない場所に」
女騎士は静かに問うた。
「王は、なんと?」
「必ずかたきをうってくれと」
嘘だ、と女騎士は直感した。だが、それでよかった。女騎士の瞳に宿るのは、もはや騎士の誇りではない。純粋な殺意と復讐の炎だけが、静かに燃えている。
*****
やがて、傷の治療と腕に添え木を施され、いくばくかの路銀を持たされると、女騎士は河を下る船に乗せられた。国を出て、はるか遠くの修道院にでも送られるのだろう。
「義理も、忠義も、友愛も、恋慕も、責任も……そしてそれらが死のおかげで完成した人生も、すべてあの男が奪い去った。今、私とこの世界を繋ぐのは、憎しみだけ……」
頭上に広がる曇天を見上げ、女騎士は思う。王の間での美しい死は、人生の完成は、もう手に入らない。少年王と共に倒れる詩的な最期は、永遠に失われた。残されたのは、味気のない現実だけ。
「さあ、これからいろんなことを考えなければ。仲間も集めなければならないだろう。あの男を殺すにはな」
かつて騎士の誇りを胸に戦った女は、今や復讐者として生きることを強いられた。それが少年王の願いであることも、将が仕組んだ残酷な「解放」であることもうすうす気づきながら。
二人分の墓で安息に終わるだった人生は、憎しみという鎖に繋がれた、終わりなき苦行へと変わった。
雲の切れ間から差し込む光は、もはや彼女を照らすことはない。だがどんよりとした世界に、もはや壁はなく、どこまでも大きな灰色の砂漠のように広がっていた。