5話『一歩、前へ。』
あれから、どれだけの時間が経過したのだろう。
ずっしりと、脳天が鈍く重い。瞼をゆっくり開くと、そこには、知らない天井が広がっていた。
「(……今、『知らない天井だ……』とか呟いたら面白くなりそうだな。)」
なんて呑気なことを思いながら、眼球だけを動かして周囲を見渡す。自分が横たわっている純白のベッド。青いカーテンで周囲を仕切られており、仄かにアルコールの香りが鼻につく。……そして傍らには、凛々しい目鼻立ちをした少女、華炸桐花が座っていた。
桐花は覚醒した玲治に気付くと、ニコリと微笑んだ。
「あら、目覚めたのね。気分はどうかしら。」
「……まぁまぁ、かな。」
玲治は上体を起こそうとするも、しかし一瞬眩暈がして、力なく枕に沈んだ。全身が、酷く怠かった。まるで四肢に鉛でも付けられているように、ぴくりとも身体が動いてくれない。
疲労で揺らぐ視線だけを向けて、玲治は問いかけた。
「……えと、ここは?なんで俺、こんな所に?」
「ここは病室よ。私たちが合流した途端、貴方、そのまま気を失ったのよ。現実に戻っても目覚めないから、ここまで搬送するのに中々手間取ったわ。」
そう言われ、おぼろげながら、玲治は次第に思い出してきた。
ツムグと別れたあの後、俺は辛うじて意識をギリギリ保ちながら、ずっと拳銃を握って身構えていた。もしこの瞬間に『イドの怪物』が現れても、すぐに三枝を抱えて逃げられるように、と。まぁ結局のところ、それは玲治の杞憂に終わったわけだが。三人と合流を果たした俺は、急に視界がグルンと回転し、地面が迫り――そこから先の記憶は、ぽっかりと抜け落ちていた。
……そうだ、三枝。彼女はどうなった?
玲治がそう問いかけると、桐花は答えた。
「彼女なら別室で眠っているわ。『イド』の暴走は完全に抑えたから、じきに目を覚ますと思うわよ。」
「……そっか。」
ならよかった、と。天井を見つめ、深く深呼吸した。
目覚めた後の三枝は、どうなるのだろう。これまで通りに『理想とされる自分』を演じて暮らしてゆくのか。はたまた『ありのままの自分』を受け入れて、これからの日常を過ごしてゆくのか。それはまだ分からないが、しかし彼女がどちらを選択しても、俺はそれを尊重するし、受け止めるのだろう。
……と、そういえば。ふと脳裏に、三枝の精神に干渉した際の、自分の言い放った台詞を思い出した。普段の俺ならまず言わないであろう、歯が浮くような台詞を。
「……あら。栗栖くん、顔が赤いわよ?」
「誰か、誰か殺してくれ……。」
紅潮する顔を隠したい衝動に駆られるが、しかし今の玲治は、両腕が動かない満身創痍の身。故に、みるみる赤面してゆく玲治をひたすら眺める桐花という、奇妙な空間が出来上がっていた。
「……そういえば私、貴方に聞きたいことがあったのよ。」
悶絶の時間が終わった頃、桐花がそんなことを言った。そういえば三枝由香の部屋で、そんな事を言っていた気がする。
が、彼女は首を横に振ると、椅子から立ち上がった。
「まぁ、今は休息が最優先ね。時間はいくらでもあるもの。後日改めて、じっくり聞くとするわ。」
「それじゃあね。」と言い残すと、桐花はカーテンの向こう側へ姿を消した。
玲治は「ふむ……」と息を吐くと、天井を見つめた。
と、まるで頃合いを見計らったかのように、脳裏に“声”が響いた。
“お、目覚めたか。相棒。”
「うげ……お前、こっちでも話せるのかよ。」
“うげってなんだよ、うげって。……まぁ、俺は玲治の心に住んでっからな。好きなようにこうやって、お前に話せるわけよ。“
「なるほどなぁ……。なぁ。お前って、俺の『イド』から生まれたんだよな?」
“まぁ、そうなるな?具体的には、テメェの願望や欲望が元となって生まれたって感じだな。”
「……あの時、どうして急に目覚めたんだ?」
“さぁな、その辺は俺にもさっぱりでよ。気付いたら『ソコ』に在ったというか、そんな感じだな?”
「なんだそれ。よく分かんないって事か……。」
玲治の脳裏には、『イド』で垣間見た走馬灯――自身の『原点』についてが思い出されていた。
『人と人を繋ぎ、絆を紡ぐ』事と、その在り方に憧れた自分。それを再認識したところで、今の在り方は、そう簡単に変えられない。栗栖玲治という人間は、きっと今後も『人の役に立ちたい。だが深く関わりたくない』という矛盾を抱えて生き続けてゆくのだろう。
“それは大丈夫じゃねぇの?”
やや悲観的になっている玲治の思考を読んで、ツムグは告げる。
“お前はあの時、その一歩を踏み出した。自分自身と向き合って、他人と深く関わっていく決意をした。……だからきっと、俺が生まれたんじゃねぇのか?お前の願望が形になった、この俺が。”
「……だと、いいけどな。」
あの時に見た走馬灯。それに関連して、玲治はある日のことを思い出していた。
その日はクリスマスの翌日だった。「サンタさんに会う!」と夜更かししていたのに、いつの間に寝落ちていたのか、目覚めたら布団の上だった。枕元には赤い包み。慌ててそれを破ると、それは「超絶勇気キズナマン」の変身ベルトだった。
興奮冷めやらぬままに、母さんを叩き起こして見せびらかす俺と、眠そうに目を擦る母。
早速変身ベルトを装着すると、意気揚々と変身ポーズをとったのだ。
そして、俺は確か、母さんにこう言ったのだ。
『ねぇねぇ、これで僕もキズナマンみたい、困ってる人を助けられるヒーローになれるかな!?』
……そんな一幕を、思い出していた。
玲治は右手を動かす。まだ鉛のように重いが、それでも彼は、天井に触れるように、手を伸ばす。
いまからでも、間に合うだろうか。あの日憧れたヒーローみたいに、困っている人にすかさず手を差し伸べられるような、そんな人間になれるだろうか。
玲治は宙を撫でると、ギュッと掌を優しく握りしめた。
後日。
栗栖玲治の日常は、また訪れる。
登校した玲治は、自分の席に着席すると、鞄から教材を取り出してゆく。ふと、鞄の奥でくしゃくしゃになった一枚の紙が目にとまる。広げると、それは進路希望調査の用紙だった。まだ何も記入されていないそれを見て、玲治は顔をしかめた。
「やべ、忘れてた……。」
これもいい加減、提出しなければいけない。皺だらけの用紙を伸ばすと、筆箱からシャープペンシルを取り出す。さて、何を書いたものかと思い悩む。
“なーにを悩むことあんだよ。書くことなんて、もう決まってるようなもんじゃねぇか。”
「(うるせ、そのまま書くのは恥ずかしいんだよ。……あと外では話しかけないでくれ。)」
“へーへー。”
シャープペンをくるくると回していると、ふと、誰かから背中を「トントン」と叩かれた。
振り向くと、そこにいたのは三枝由香だった。……だが、いつもの丸眼鏡はをしておらず、指先には目立たない程度のネイルをしていた。
その様子に一瞬呆気にとられ、思わずシャープペンシルを落としてしまう。
「や、やほ。玲治くん。おはよ。」
「おはよう。……三枝お前、眼鏡は?それに、そのネイル……。」
「や、やっぱり変かな!?急にあれこれ変えるのは抵抗感あったから、まずは無理のない範囲からって思ったんだけど……。」
「……いや、いいんじゃねえの。そっちの方が、ずっと「らしい」よ。」
言いながら、玲治は微笑んだ。どうやら彼女は、彼女なりの歩幅で、自分を受け入れるようにしたようだ。
……なら、俺も腹を括らなければいけない。
三枝は玲治の机を覗き込むと、まだ何も記入されていない進路希望調査を見て「あー……」と苦笑した。
「どうするの、これ。提出期限、確か今日だった気がするけど。」
「いんや大丈夫。書くことは、もう決めてんだ。」
言うと、玲治は筆を走らせた。
直接これを書くのは、正直恥ずかしい。子供っぽいと笑われるかもしれない。
だが、それでもいい。
そこに記されたのは『困っている人を助けるヒーロー』。
栗栖玲治が自分と向き合った、自分なりの答えだった。