4話『踏み出す勇気』
華美だった応接間の様子は、随分と様変わりしていた。
壁や地面は抉れて瓦礫が散乱とし、シャンデリアや長テーブル等は見るも無残に砕け散っていた。まるで嵐が過ぎ去ったかのような応接間は、先までと一転して、静寂に包まれていた。
「……でっ!?」
最初にその静寂を破ったのは、玲治の悲鳴だった。
滑るように着地した金髪の少女は、投げ捨てるように玲治の身体を乱雑に放り投げた。
地面の上を転げまわった玲治は、悲痛に顔をしかめながら、扱いの雑さに一言文句を言ってやろうと、口を開きかけた。……が、その口から苦言が飛び出ることはなかった。
「ぜ、ぜぇ……ッ!カヒュッ……!」
金髪の少女はその場に崩れ落ちると、四つん這いに蹲った。
もう満足に立っていられないのだろう。木偶人形の攻撃を躱すために酷使した四肢は激しく痙攣し、上手く呼吸が出来ないのか肩が不規則に上下している。前髪に隠れる青い双眼は大きく見開かれ、もはや焦点が合っていなかった。
「お、おい。だいじょ……っ、」
急いで駆け寄ろうとした玲治だったが、急に眩暈がして、立ち上がれずその場に膝をついてしまう。おそらくは『E.M.P』を連射して、急激に精神力を消耗した反動が来たのだろう。四肢にうまく力が入らず、船に揺られているように視界が横揺れしている。一足遅れて、内臓全てをひっくり返したかのような猛烈な不快感が襲い掛かる。
とても耐えきれず、玲治はその場に吐瀉物を撒き散らした。
満身創痍な二人に対して、桐花とミソギは余裕綽々といった表情をしていた。
その顔には汗一つ滲んでいない。初陣の玲治たちとは違い、おそらくは場慣れしているのだろう。ミソギは刀をゆっくりと鞘に納めると、汚れた袴をポンポンとはたいた。
「いやぁ、流石にさっきのはヤバかったね。僕も一瞬ヒヤッとしたもん。」
「そうね。……でも栗栖くんの状況分析と咄嗟の判断力には助けられたわ。正直、栗栖くんの呼びかけがなかったら全滅していた可能性すらあった。それに……、」
言うと、桐花は金髪の少女に向き直る。
「貴女にも驚かされたわ。まだ『パス』も通っていないというのに、あの攻撃の雨を掻い潜るだけじゃなく、接近して撹乱までしてのけるなんて。」
その目は賛美ではなく、懐疑的な色を浮かべていた。まるで未知の存在に直面したような目で、金髪の少女を見下ろしている。
対する金髪の少女は、「ハッ」と口角を上げて笑みを浮かべると、挑発的に桐花を見返した。
「あの程度でやられる、俺じゃねぇよ……ッ!」
「あら……随分と頼もしいのね。」
そう言って微笑んだ、刹那――、
“――なんで、私の邪魔をするの。”
――静まり返った応接間に、「パキャリッ」という乾いた音色と、凛とした声が響き渡った。
その場にいる全員の視線が、一斉にそちらへと向けられる。
唯一残された巨大な木偶人形――顔のないその首。そこに、縦に小さな亀裂が走っていた。亀裂は「パキャ、パキッ」と音を立てて広がってゆき、やがて観音のようにゆっくりと開いてゆく。剥がれ落ちた木片が、パラパラと地面に落ちる。
“なんで、「私」を否定するの。”
完全に開かれたソコにあったのは、無数に敷き詰められた触手であった。
縦に開かれた首を、さらに内側から押し広げるように、触手が蠢き這い出てくる。黄土色の粘液を地面にぶちまけながら無数に這い出るソレは、見るからに、木偶人形の体積を大いに越えていた。
その異質な光景に、玲治は畏怖し、戦慄した。先までの木偶人形や、最初に対峙したマリオネットの比ではない憎悪と殺意と異質感。「理解の及ばない存在」との対峙に、玲治は自身の決意が揺らくのを感じていた。
粘質な水音を響かせながら、とめどなく零れ続ける紺色の触手。その中心――細い触手に守られるように覆われているそれは、人の形を成していた。
――それは、三枝由香本人だった。
粘質な音を立てて表出した上半身には一切の衣類を纏っておらず、その腕や下半身は、蠢く触手に取り込まれ同化してしまっている。彼女の瞼は閉じられており、おそらくは気絶しているのだろう。
それを見た桐花とミソギは、ゆるやかに身構えた。金髪の少女も立ち上がろうとするが、まだ回復していないのか、がくんとその場に膝をついてしまう。
緊迫した表情を浮かべるミソギの頬筋に、初めて汗が伝う。
「ようやく『御本命』のご登場だね。」
「えぇ。でも想定よりずっと浸食が進んでいる。「核」である三枝さんを、早急に引き摺り出さないと。このままだと彼女は――、」
桐花が言い終えるよりも先に、玲治が動いた。
「……三枝ッ!」
ふらつきながらも、一心不乱に三枝の元へ駆け出す。
我ながら、この行動は迂闊で愚策だと思った。しかし考えるよりも先に、脚が、身体が、勝手に動いていたのだ。足取りこそおぼつかないが、しかし彼の双眼は、幼馴染の姿を一点に見据えていた。
――その身体に、無数の触手が襲い掛かろうとも知らずに。
誰でもわかる。アレをまともに直撃を受ければ絶命、よくて重傷を負うことになるだろう。
「あんの馬鹿野郎……ッ!」
金髪の少女は震える身体に活を入れて立ち上がると、一気に駆け出した。
彼女は玲治の背後に回り込むと、迫り来るその一撃を間一髪、身を挺して防いだ。触手に弾き飛ばされ、何度も地面に叩きつけられる少女。転がりながらも両手を地面に押し付け、腰を捻って姿勢を正した少女は、地面を蹴って駆け出す。
桐花とミソギも、彼女の後に続くように動き出した。
玲治に追いついた二人は、手にしていた刀を素早く走らせると、迫り来る触手を次々に断ち斬って肉塊へと変えてゆく。だが切断された触手は、断面から肉が盛り上がるように、即座に再生してしまう。
それに気付いた玲治は、二人の名前を叫ぶ。
「……桐花、ミソギ!」
「『コレ』は私たちが引き受ける!私たちの中で彼女に声を届けられるのは、おそらく幼馴染である貴方だけよ!」
言いながら、桐花は目にも止まらぬ勢いで、襲い来る触手を断ち切る。
それに頷くと、玲治は触手の中心、同化している三枝の元へ駆け寄る。触手の根元へ手をかけた瞬間、ぐちゅりと生暖かい粘液の感触と、僅かな胎動が掌に伝わる。一瞬身の毛がよだつが、構わずよじ登る。触手の中心部までよじ登ると、三枝の白い肩を掴んで揺らした。
「三枝!俺だ、栗栖玲治だ!目を覚ませ!」
“――その声は、玲治くん?”
彼女の瞼と口は、未だ閉ざされたままだ。代わりにその声は、玲治の脳内に直接届いていた。
「待ってろ、今助けるから!」
玲治は三枝の腕に手を伸ばすと、纏わりついた細い触手に手をかける。少し力を入れただけであっさり千切れてしまう程度の細く脆い触手だが、しかしそれは、破壊された途端にすぐさま再生してしまう。
「(くそっ、これじゃ埒があかない……!)」
そうだ、と。玲治は懐から拳銃を取り出すと、触手と肉体の接合部へ銃口を向ける。
“やめて、もう私に構わないで!嫌、疲れたの。もう、此処から出たくない!”
「何言ってんだ!このままじゃお前、この世界に完全に取り込まれちまう!その前に、」
“それでいいの!私はもう、皆の『理想』を演じたくない。この城でなら私は、私らしく居られるの!。”
刹那、三枝の悲痛な叫びに呼応するように、無数の細い触手が伸び、玲治の腕を絡みとった。それらは力強く、玲治の腕が「ミキ、ミチ」と悲鳴を上げる。手にしていた拳銃が、掌から零れ、地面に落下してしまう。
触手は玲治の腕に加えて脚を、腰を、徐々に取り込もうと絡んでくる。
「くそっ……三枝、目を覚ませ!こんなの、三枝らしくない!俺の知っている三枝は―ー、」
「栗栖くんッ!それ以上は駄目よ!!」
桐花は咄嗟に叫ぶが、しかし時すでに遅しだった。
三枝の、閉じられていた瞼が開く。そこには本来存在するはずの眼球がなく、底無しの、覗く者を飲み込むほどの闇が広がっていた。
“――『私らしくない』って、何?玲治くんまで、私のことを否定するの?”
瞬間、蠢く触手の動きが激化した。玲治の四肢を、胴体を、一瞬で絡め捕ってしまう。
触手の力がさらに強まり、「ミチ、ミシ……ッ」と、全身の骨が悲鳴を上げる。
玲治の口から、苦痛の悲鳴が漏れ出る。
“――じゃあ、もう、要らないや。私の『敵』は、この城には要らない。”
ズプズプと、徐々に、玲治の身体が触手の中に引きずり込まれてゆく。その粘膜に麻酔作用があるのか、次第に全身が痺れ、力が抜けてゆく。
次第に手足の感覚が無くなってゆく。栗栖玲治と三枝由香の境界線が、水泡に溶けるように、曖昧になってゆく。
肉体という壁を越え、精神が、心が、栗栖玲治という存在が、次第に溶けてゆく。
「(ま、ず……このままじゃ……、)」
視界の端で、金髪の少女が玲治の名を叫びながら、こちら目がけて高々とジャンプしたのが映った。
急速に鈍化してゆく意識の彼方で、玲治は、何故か昔の事を思い出していた。
『僕』と母さんは、リビングのテレビの前に座っていた。
折角の日曜なのだから惰眠を貪りたいと嘆く母さんを、『僕』は寝室からリビングまで引っ張り出したのだ。
我が家には「僕一人で、朝からテレビを見てはいけない」という、今思えば謎のルールが設けられていたのだ。
テレビの前でワクワクと鎮座する『僕』と、眠気覚ましのコーヒーを片手に、その背中を愛おしそうに眺める母さん。
そんな二人の目前で、とある番組が始まる。
テレビの画面に映し出された映像――それは「超絶勇気キズナマン」という、特撮ヒーロー番組の再放送だった。
ストーリーはよくある勧善懲悪モノで、前半は困っている人を見過ごせない主人公が、お節介を焼いて人助けをする。後半では、そんな彼が住む町に怪人が現れ、人々を恐怖に陥れる。そこへ「キズナマン」へと変身した主人公が颯爽と登場。最初は苦戦するも、どこからともなく現れた人々の声援を力に変え、最終的に必殺技で怪人を倒すという、ヒーローモノのテンプレで構成されたような作品だ。
それを見て目を輝かせる『僕』と、そんな『僕』の背中をコーヒーを飲みながら眺めている母さん。我が家では、これが毎週日曜朝の日課となっていた。
『僕』は背後に座る母さんに、嬉々として叫んだ。
「ねぇねぇ、今の、ママ見た!?今のキズナマン、カッコいいよね!」
「ふふ、そうだね。」
目を輝かせて話す『僕』と、それとなく返事する母さん。他愛の無い会話だが、『僕』はそれが心地よかった。
「ねね、今度「キズナマン」の変身ベルト買ってよ!」
「うーん……じゃあ、今度サンタさんにお願いしてみようか。いい子にしていれば、もしかしたら貰えるかもよ?」
「うん、僕いい子にする!……貰えたらいいなぁ!」
そんな、どこにでもある日常的な会話。
何処にでも有り得る、ごくごく普通の日常風景。
――これは、所謂『走馬灯』というやつだろうか。
そんな光景を、『俺』はリビングの隅から、俯瞰して眺めていた。
他愛無い日常。だがもう戻ってくることはない、かつて過ごした日常風景。今は亡き、かつての母さんの横顔と、当時は大きく感じた背中。冬の到来を告げる、窓際に覗く殺風景な庭。
「……あぁ。懐かしいな。」
気付けば、そんな言葉が口から零れていた。
「超絶勇気キズナマン」。当時は本当に大好きで、何度も録画を見直すくらいには熱中していた。母さんが災厄に巻き込まれて以来、歳月が流れて成長するにしたがって、気付けば俺は、この特撮番組を見なくなっていた。
全話録画しているのだから日中に観ればいいものを、当時の俺は決まって、日曜朝の再放送をリアルタイムで観ていた。
今にして思えば、母さんからすればいい迷惑だろう。だがしかし、まだ眠っていたいであろう母を叩き起こして、一緒に「キズナマン」を観る。その時間が好きだった。
その時間が、何よりも大好きだったのだ。
テレビの画面では丁度、キズナマンが今週の怪人と対峙し、案の定苦戦を強いられているシーンが流れていた。
「そうそう、確かこの後、どこから現れたのか民間人が駆け寄ってきて、キズナマンに声援を送るんだよな。」
もう嫌というほど観た展開を、俺は口にする。
――だが、そうはならなかった。
該当のシーンになっても、民間人なんていうキャストは一向に現れない。キズナマンは、ただ悪戯に怪人に蹂躙されるだけであった。
そんな中、キズナマンはこんなことを言った。
『……なぁ、なぜ私が「キズナマン」なんて呼ばれているか知っているか?』
『ハッ、そんなの知るわけがねぇだろ!なんだ、命乞いでもしようってか!?』
『……私はね、人助けが好きなんだ。困っている人を見ると、手を差し伸べずにはいられない性分でね。』
『ハハッ、偽善だな!傲慢だな!人間を助けたところで、お前に何の得がある。こうして追い詰められているお前を助けてくれるってか?……見てみろ!お前を助けてくれる人間なんて、誰一人現れないだろうが!』
怪人は武器を構えながら告げる。
しかしキズナマンは鼻で笑うと、言葉を続けた。
『違う、私はなにか見返りを求めているわけじゃない。私が助けた人が、また別の人を助ける。それで救われた人が、また別の人に手を差し伸べる。……人と人の縁が繋がり、紡がれ、それはやがて大きな力となる。その最初の一人に、私がなれたら……。そんな事をしているうちに、人々は私を「キズナマン」なんて呼んでいたよ。』
と、テレビの中のキズナマンが、画面越しにこちらを見ている気がした。
――いや、それだけじゃない。母さんも、『僕』も。その場の全員が、俺を――『栗栖玲治』を注視していた。まるで俺のことを、品定めするかのように。
テレビの中のキズナマンが、画面越しに語り掛けてくる。
『人を助けたい。でも関わりたくない。それは矛盾しているって?……否、そんな事はない。それは延長線上にあるものだ。君にはただ、勇気が足りなかっただけだ。』
『君はもうあの瞬間に、その大きな一歩を踏み出した。三枝由香を放っておけなくて、見て見ぬ振りが出来なかった。彼女を救うために、こんな現実離れした世界に、自ら飛び込んでみせた。』
ニヤリと笑いながら、ヒーローは告げる。
――あぁ、そうか。俺は、久しく忘れていた。
『踏み出したのなら、あとは成すだけさ。その手を差し伸べ、人と人との絆を紡ぐ……今はほんの僅かな縁でも、それはやがて大きくなり、いつしか君の中で、大きな支えとなる。』
――俺は確かに、「キズナマン」に憧れた。
だがそれは、ただ見た目が好みだとか、アクションがカッコいいからじゃない。困っている人に無条件で手を差し伸べ、その人がまた、別の誰かを助ける。
『人と人を繋ぎ、絆を紡ぐ。』その在り方に、『僕』は憧れたんだ。
「ズクン」と、胸のうちで何かが高鳴った。
燻っていた何かが、静かに目覚めた。
そして同時に、己の中に「個」が芽生えるのを感じた。
『思い出したな。なら、あとは行動に移すだけさ。手始めに、『そこにいる孤独な少女』を君が、君自身の手で助けるんだ。』
ヒーローにそう言われ、栗栖玲治は後ろを振り返る。
そこにあったのは、虚空に蹲る少女の姿。その背中は小さく、怯えていた。
『僕』と母さん、画面の向こうのヒーローに見送られながら、俺は、その少女にゆっくりと歩み寄る。
蹲ったまま、少女は呟く。
「……もう、疲れたの。」
その声に覇気はない。言葉尻が小刻みに震えており、今にも泣きだしそうだった。
少女の口から、言葉が零れ出る。
「お母さんも、お父さんも、学校の皆も、私に『理想の私』を押し付けてくる。真面目で、誠実で、誰にでも優しい、完璧な私を押し付けてくる。……本当の私を、誰も見てくれない。」
これまで溜め込んでいた感情が、湧き水のように、徐々に零れ出る。
その様子を見て、玲治は思わず、目尻を細めた。
今なら分かる。彼女と同化した今なら、彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
彼女の言う通り、俺の知る「三枝由香」は絵に描いたように真面目で、誰にでも優しく、分け隔てなく平等に接し、まさに模範生とも呼べる少女だ。幼いころから、ずっとそれは変わらなかった。そしてそれは俺だけでなく、他の人々の目にも、同じように映っている。
……だがそれは、本当の彼女ではない。『三枝由香とはこう在るべき』という、周りの人々が勝手に作り上げた偶像だ。本人の意思に反して、無理やり押し付けられた仮面だ。やがてそれは、彼女を縛り付ける大きな枷となっていた。
「……私だって、皆みたいにキラキラしたい。放課後に買い食いしたい!ネイルだって、化粧だって、髪を染めたりだって、彼氏だって作りたい!でもそんな私を、誰も受け入れてくれない!私自身を見てくれない!それを出す勇気も、私にはないの。」
「……だから、“マーブル”なんてものに手を出したのか。」
「そう。いけないことだって分かってた。でももしかしたら、何かが変わる気がした。実際変わった。『本当の私』を出すことに、一切躊躇がなくなったの。」
「結果はこのザマだけれどね。」と、少女は笑う。違法だと分かっていながら、しかし彼女は手を出した。それに縋らざるを得なかった。あと一歩踏み出す勇気を、本当の自分を曝けだす勇気を、それに委ねた。
「君なら、玲治くんなら、本当の私を受け入れてくれると勝手に思ってた。……でも、そうじゃなかった。だからもう、いいの。このまま私は、この世界で……。」
俺の視界に、小さなノイズが走る。それはきっと、『彼女の世界』から弾き出されようとしているのだろう。
俺は小さく息を吐くと、少女の前に回り込み、その場に屈んだ。
そして、その小さな手を取り、優しく握った。
「そんな事言わないでくれ。……近くに居たのに、気付けなくて悪かった。俺は、三枝が自分の事で、そこまで思い詰められているなんて知らなくて。だから「らしくない」なんて言っちまった。それは本当にごめん。」
少女の手は細く、冷たい。その手を温めるように、俺は両手で包み込む。
「でも勘違いしないでほしいんだ。俺は、三枝を否定なんかしない。そりゃ、急に人が変わって驚きはしたけど。でも、どんな三枝だって三枝で、俺はそれを正面から受け止める。だから、こんな殻に籠っていないで、一緒に元の世界に戻ろう。そして、三枝のやりたい事を、やりたかった事を全部やろう。」
「でも!そんな事をしたら、みんな私に失望する!そんな人だったんだって、見放されるんだ!……嫌だ。そんなの、嫌だよぉ……。」
その言葉を遮るように、俺は少女の小さな肩を抱きかかえた。そして、「ポンポン」と背中を優しく叩き、撫でる。
「大丈夫だ。そうなっても、俺が三枝を護るよ。どんな事があったって、皆が本当の三枝を受け入れるまで、俺が傍にいて、絶対に味方でいる。だから、大丈夫。怖がらなくて、大丈夫だ。」
その言葉に、嘘も偽りもない。その場限りの口約束でもない。
「最初は信じてくれなくてもいい。でも俺は、絶対に三枝を護る。……だからもう、こんな場所に籠ってないで、一緒に帰ろう。そんでもって、また放課後にフタバでも飲みに行こうぜ。」
言いながら、俺は歯を見せて笑った。
彼女が本当の自分を出せるまで――いや、曝け出せるようになっても、俺が彼女を護る。大切な幼馴染を、かけがえのない友人を。
少女は顔を上げる。その眼にはまた、光が宿っていた。
少女はぎこちなくはにかむと
「もう、玲治くんには敵わないなぁ。……分かった。少しだけ、ほんの少しだけ、君を信じてみる。もし、また私が挫けそうになったら、その時はまた助けて。」
「あぁ、男に二言はねぇよ。」
笑ってそう言うと、俺は三枝の手を引いて、立ち上がらせた。
その選択は、今の俺にとって大きなことだ。もしかしたら、取り返しのつかないことなのかもしれない。だが、俺ならきっと後悔はしない。
なぁそうだよな、ヒーロー。
「……――――――ッッッ!」
グンッ、と。意識が引き戻される。視界が、一気に開けた。
ああそうだ、思い出した。遠い昔に忘れていた、自分自身の『核』ってやつを。
そして、その名を――!
意識が覚醒した玲治は、全身に纏わりつく触手を、両腕の力だけで千切った。それらに、先ほどまでの力はない。
三枝の肩を掴み、這い出るように触手から上半身を出すと、今まさに、こちらに飛び込まんと宙に浮いている、金髪の少女の姿が視界に飛び込んできた。
そんな彼女に、玲治は腹の奥底から叫んだ。
「『ツムグ』!このクソみたいな『檻』を、ぶっ壊せぇ!!!」
――その瞬間、二人の間に『パス』が通った。
金髪の少女――いや『ツムグ』は、一瞬呆気にとられ、しかしすぐに、ニヤリとあくどい笑みを浮かべた。
「…………おっせぇぞ、相棒!」
ツムグはジャケットを翻すと、紐で腰に吊るされたシルバーアクセサリーを両手で千切り取る。右手と左手、計一〇本のソレを左右に放り投げると、その全てが膨張し、巨大な鉄槌へと成った。
だがそれは、以前に見た全面銀色のソレとは異なっていた。全体に金の装飾が施されており、重厚感が増していた。
ツムグは片足を振り上げて回転すると、鉄槌の一つを、力任せに蹴り出した。
放たれた鉄槌は、音もなく、一瞬で触手の一部を抉り、削ぎ落す。
木偶人形は甲高い悲鳴を上げると、その細い腕を不規則に跳ねさせた。その動きに追従するように、無数の触手が、ツムグめがけて一斉に放たれる。
「おせぇ!!オラッ、オラッ……もーいっちょ、オラァッ!!!」
ツムグは続けて身体を捻り、鉄槌を蹴り出す。
蹴り出された八つの鉄槌は、ツムグに向けられた触手を次々と抉り飛ばす。そしてその何発かは、木偶人形の胴体を僅かに掠めた。体表面をほんの少し擦っただけだが、まるで爆弾が炸裂したかのように、木偶人形の身体が左右に弾け、その身体に亀裂を走らせた。
放たれた鉄槌は、そのまま応接間の壁面に激突すると、重厚な破裂音と共に、深々と突き刺さった。
触手の粘膜から三枝の身体を引っ張って剥がしながら、玲治は頭上に向けて叫んだ。
「おいツムグ、少しは加減してくれ!俺たちまで巻き込まれたらどうすんだ!?」
「アホ抜かせ!下手にテメェが動かなきゃ、当たるこたぁねー……よッ!」
最後の鉄槌を手に掴むと、ぐるぐるとその場で回転を始める。遠心力によって加速してゆく少女は、やがて鉄槌ごと、木偶人形めがけて一直線に突っ込んだ。
ギラリと輝く鉄槌が木偶人形の横っ腹を大きく抉り、そのまま壁に突き刺さる。辺り一面に黄土色の粘膜を撒き散らしながら、木偶人形は一際大きく暴れた。
壁に突き刺さった鉄槌の持ち手を足場に彼女は大きく跳ぶと、蠢く触手の中心――玲治と三枝のもとへ着地した。
彼女は周囲の触手をむんずと掴むと、「ブチュッ、ブチッ」と音を立てて、軽々と引きちぎった。その様子に唖然としている玲治の腕を掴むと、ツムグは白い歯を見せて笑った。
「玲治、ちと乱暴にいくぞ。」
「は、お前いったい何を……ぶっ!?」
ツムグは二人を強く引き上げると、思い切り宙へ駆け出した。突然宙に投げ出された玲治は、三枝を落とさないよう強く抱きしめたまま、またしても乱雑に地面へ叩きつけられた。
三枝を抱えたまま二転三転したのち上体を起こした玲治は、華麗に着地したツムグに叫んだ。
「おまっ、少しは丁寧にやれよ!」
「うるせぇなぁ。これでもわりかし丁寧にやってんだよ。……まだ『パス』が通ったばっかで、まだうまく加減が出来ねえんだ。」
掌をぐーぱー握りながら、ツムグは告げる。その眼は歓喜――いや狂気に満ちており、前髪に隠れた十字の瞳孔は、一際激しく輝いていた。
無尽蔵に再生する触手と相対していた桐花とミソギは、脱出した三人の様子を目視すると、後方へ大きく飛んだ。地面を滑るように着地すると、桐花は、玲治に抱きかかえられている三枝を一瞥した。
「三枝さんは、まだ無事みたいね。……最初に飛び出した時は、気でも触れたかと思ったわ。」
「悪い、皆に迷惑かけたのは自負してる。……で、『あれ』はどうする?」
玲治の問いに、四人は一点――左右に揺れる木偶人形と、その首から溢れ続ける触手を凝視した。
ツムグの攻撃によって吹き飛ばされた木偶人形の半身だったが、内側から肉が盛り上がるように、みるみると再生してゆく。触手も同様で、黄土色の粘液を床に撒き散らしながら、破壊された細胞を押し出すように再生してゆく。
粘液と共に、押し出された肉片が床に滴り落ちる。その様子を目撃した玲治は、自然と、率直な感想が口から漏れていた。
「…………なんだあれ、きっっっしょ!」
「おそらくは“マーブル”の影響ね。『イドの怪物』は、劣等感やストレス、所謂『負の感情』から発生した存在。それが“マーブル”によって増幅されているみたい。」
玲治の問いに、桐花は刀を構えながら答える。
……まぁ、理屈は分かった。理解した。それで、俺たちはここからどうすればいいのだろうか。
視線でそう問いかけると、気付いた桐花は、腰を深く落とした。
「端的に言えば、コイツを倒せばすべて解決するという事よ。……再生が追い付かなくなるまで、完膚なきまでに斬り伏せる。」
「なんだ、分かりやすくていいじゃねぇか!」
ツムグは腰から千切った鉄槌を巨大化させると、小さな肩に軽々と担いだ。
「加減なんて必要ねぇ。要は、コイツを徹底的に叩き潰しゃいいんだな!?」
「そういう事よ……!」
四人全員、目配せして小さく頷くと、一斉に駆け出した。
まず真っ先に到達したのはツムグだった。無数の触手の追撃を器用に掻い潜り、膝を曲げ、仰け反るように木偶人形の懐に滑り込む。その姿勢のまま、鉄槌を横に大きく振りかぶる。
「ここじゃ狭ぇ……。まずは場所を変えて殺りあおうぜ、なぁ!?」
持ち手を握る手に、力が入る。瞬間、段階的に、鉄槌が更に巨大化してゆく。――膝を伸ばして飛び上がると同時、ソレを思い切りぶん回した。
「メキョ、リッッッ」と音を立て、木偶人形の体躯に鉄槌がめり込む。その巨体は、鉄槌の質量に押しやられるように、壁面へと弾き飛ばされた。
ツムグは着地すると、遠心力を利用して、踵を軸にぐるんと一回転すると、木偶人形にめがけて鉄槌を放り投げた。一直線に放たれた鉄槌は、壁へ衝突した木偶人形へ叩き込まれる。壁面全体に亀裂が走り、音を立てて決壊する。崩れる瓦礫と共に、木偶人形はそのまま、『外』へと押し出された。
「……桐花、ミソギッ!」
彼女がその名を叫ぶより先に、二人は動き出していた。壁面に空いた風穴へ飛び込むと、ベランダに脚を掛け、躊躇うことなく身を投げ出した。
それを見届けたツムグは、彼らとは反対方向へ走り、部屋の隅で三枝を横たわらせている玲治に叫んだ。
「玲治!テメェはそこで、その嬢ちゃんと一緒に居ろ。アイツは、俺たち三人で始末をつける!」
「馬鹿いうな!待ってろ、俺も一緒に……、」
「馬鹿言ってんのはテメェだろが!俺たちは一心同体だ。さっきの連射に加えて、嬢ちゃんへの精神干渉。もう限界だってのは分かってんだよ。」
そう言い放たれ、玲治はぐぅの音も出なかった。彼女の言う通り、玲治は肉体的にも精神的にも、とうに限界を超えていた。三枝への精神干渉はともかくとして、『E.M.P』の連射が特にいけなかった。思いのほか堪えているようで、今の玲治では、一発の精神弾を撃つことすら難しい。
……だが、しかし。だからといって、何もせずここに居るなんて、出来やしない。
「……でもッ、」
「玲治、テメェはやるべきことをやった。後は俺たちに任せとけ。」
ツムグは新たに生み出した鉄槌を肩に担ぐと、反対の手で親指を立てた。
「それに全員アイツに構ってたら、他にバケモンが出たときに、誰がいまの嬢ちゃんを護んだよ。……少し休んで、その嬢ちゃんを護ることに徹しろっつってんだ。」
それだけ言い残すと、ツムグはベランダから身を投げ出した。
残された玲治は、悔しさで奥歯を噛みしめた。一人、無力感に苛まれた。
分かっている。彼女の言う通り、今の自分がやれる事は全てやった。今は非常の事態に備えて、一時休息をとるべきなのだろう。
玲治は学生服の上着を脱ぐと、傍らで横になっている三枝の肩に被せた。そして、小刻みに震える息を吐きながら、天を仰いだ。
宙に身を投げた桐花とミソギは、落ちゆく木偶人形へ向けて落下してゆく。
応接間の『外』――そこは、何も存在し得ない荒野だった。草木の一本も、地平線の山脈もなく。紫色に染まった空と、ただただ荒れ果てた大地が広がるだけの、殺風景な景色がそこにあった。
桐花は、後続のミソギに目配せする。彼は頷くと、頭を上にして姿勢を正し、膝を折り曲げた。桐花は足裏を重ねると、お互いの足を、渾身の力を込めて蹴った。
急加速する桐花へ、木偶人形は一斉に触手を放つ。触手の先は複雑に変質し、鋭い刃と成った。
身体を捻ってソレの追撃をいなし、時に刀でそれを受け流しながら、桐花は刀を腰に据えた。
口をすぼめ、等間隔で浅い呼吸を繰り返す。風を切る音が、耳元から遠のいてゆく。視界が急速に狭まり、目下の木偶人形しか意識できなくなる。
ギチギチギチッッッ、と全身の関節が悲鳴を上げているが、それでも構わない。
触手の中心部に潜り込んだその瞬間、奥歯を噛みしめる。刀の峯に指を添えて、一気に滑らせた。
「(――八咫ノ、五月雨ッ)」
一閃、二閃、四閃、八閃――瞬くよりも速い八つの斬撃が、極彩色の煌めきと共に、蠢く触手を根元から斬り刻んだ。
輪切りにされた肉片と共に、木偶人形の身体が地面に叩きつけられる。地面を転がって衝撃を相殺すると、桐花は肺に溜まっていた酸素を一気に吐き出した。全身に激痛が走り、ガクガクと激しく痙攣する。呼吸が、酸素の取り込みがうまく出来ない。
『八咫ノ五月雨』は呼吸法により血流を加速させ、一時的に肉体の限界を突破する技だ。一度でも重度の負荷が掛かるそれを二回放った彼女の肉体は、限界をとうに超えていた。
桐花は頭上に迫る相棒と、その背後から追う少女へ叫んだ。
「……ミソギ、ツムグちゃん!あとは任せたわ!」
「はいよっと!」
ミソギは抜刀すると、その刃先に精神力を流し込む。銀色に輝く刀身が、次第に青白い煌めきを放つ。
目下の木偶人形は、既にその触手を再生させ始めている。再生速度はこれまで以上に速い。このままでは、こちらが到達するより先に、完全に再生してしまう。
「再生らせはしねぇよ。……ミソギ、右に少し逸れろ!」
ツムグは叫ぶと、担いでいた鉄槌を放り投げ、腰のシルバーアクセサリーを千切った。そうして彼女の手に現れたのは鉄槌ではなく、やや大きめのハンドメガホンだった。
ピンク色の装飾が施された可愛らしいメガホンのマイクに口を近づけると、トリガーに指をかけながら、叫んだ。
「テメェら耳ぃ塞げ!!」
告げるとトリガーを引き、その声を張り上げた。
瞬間、木偶人形の体躯が地面に激しく押し付けられた。地面が大きく歪み、周囲に無数の亀裂を走らせてゆく。それは、自身の声を何十倍にも拡大させて、音波による衝撃波を放つ、ツムグのもう一つの武器だった。
木偶人形は四肢を動かし抗おうとするが、しかし圧し掛かる重圧によってそれは叶わない。加えて、触手の再生も阻害されていた。
ツムグはメガホンのマイクを切ると、ミソギに向けて叫んだ。
「ちと癪だが、見せ場はテメェにくれてやる!デカいのかましてやれッ!」
言われるや否や、ミソギは姿勢を正して落下速度を急速に上げる。刀から放たれる輝きが尾を引き、見る者によっては、その様はまるで流星のようであった。ミソギは袴をはためかせながら姿勢を変えると、再び両手で刀を構え直した。
「名前はまだ無い技だけど、まぁ許してよね――ッ!」
刀身の煌めきは、青を越えて極彩色へ。これでもかという程の精神力を込めた刀身を、起き上がろうとした木偶人形の脳天に、深々と突き立てる。次いで彼は、両手首を捻った。刹那、木偶人形の内側に膨大な精神力が注ぎこまれ、体内を一気に駆け巡る。流動体となった精神力はやがて形を形成し、刃へと成った。――木偶人形の内側から、極彩色の刀身が無数に突出した。
もはや暴れる間も与えない。ソレを受けた木偶人形は沈黙し、やがて黒い塵となって蒸発してゆく。周囲に散乱した触手の肉片も同様に、黒い塵となって霧散してゆく。
その場に残ったのは、地面に刀を突き立てているミソギの姿だった。
今の一撃に、全ての精神力を注いだのだろう。彼は過呼吸気味に肩を上下させたまま、ズルズルとその場に膝をついた。
「ぜ、はぁ……流石にこれは、キッツイね……。」
「お前、そんな隠し玉持ってたのか。」
一足遅れて着地したツムグは、今にも崩れ落ちそうなミソギの肩を担ぐと、そう告げた。ミソギは苦笑すると、顔をしかめた。
「一発限りの大技さ。見ての通り消耗が激しいから、あまり使いたくはないんだけどね……。」
「お前、中々面白いやつだな。今度、俺と手合わせしねぇか?」
「あー。出来れば君の相手は御免被りたいかな。」
「あ゛!?なんでだよ!」
そんなやり取りを交えながら、二人は、地面に倒れ伏している桐花の元へ歩いた。