3話『イド』
落下は、本当に一瞬の出来事だった。
玲治が瞬きをしたその瞬間、彼と彼女は、地面に叩きつけられた。
「ッで……!?」
顔面から地面に突っ込み、悲鳴を上げる玲治。頬を押さえながら瞼を開けると、そこは先までの瑠璃色の空間ではなく、華美な屋敷の廊下だった。
床には赤い絨毯が敷かれており、壁にはよく分からない壁画と無数の扉、柱には謎の金の装飾。天上から吊るされたシャンデリアが、この辺り一面を煌びやかに照らしていた。
玲治は再び瞼を閉じ、目を擦り、開く。しかし変わらないその情景に、思わず口にしていた。
「……なん、え、どこだここ!?」
「あの嬢ちゃんの『イド』だな。」
驚愕している玲治の隣から、声が聞こえる。――その声は、先ほどの幻聴とよく似ていた。
ハッと振り向くと、玲治の傍らに立っていたのは、金髪の少女だった。
肩まで伸びた金髪を、左右二つ結びにした少女だった。ピンクの半袖ジャケットとジーンズのハーフパンツという、中々にパンクな衣服を身に纏っている。腰には槌のようなシルバーアクセサリーが多数吊るされており、彼女が横に揺れるたびに、シャンデリアからの光がキラリと反射する。
特に目を引くのが、その大きな青い瞳。その奥に煌めく、十字の青い瞳孔だった。
金髪の少女は手で傘を作ると、眉間に押し付けながら言う。
「しっかし、お前の『イド』とは何もかも全然ちげぇんだな。なんか、全体的にキラキラしてら。」
「イド……?いやそもそも、誰なんだお前!?」
「んぁ、俺か?そうだな、何つうか……俺は『お前』だよ、栗栖玲治。」
白い歯を見せながら、金髪の少女は「ビッ」と玲治の胸元を指さす。次いで自身に親指を向けた。
「んでお前は俺。……これでいいか?」
「いいわけねぇですけど!?」
なんだコイツ、勢いだけで会話するやつか!?
つい声を荒げる玲治を「まぁまぁ」と軽く宥めながら、金髪の少女は言葉を続ける。
「ンなことは今どうだっていいんだよ。」
「いやよかねぇけど!?」
「いいんだよ。んなことよりも、テメェには今やるべき事があんだろ?」
「やるべき事」と言われ、玲治は我に返った。そうだ、俺は気絶していた三枝を助けようと駆け出したのだった。そしてコイツに言われた通りの行動を取ったら、いつの間にかこの屋敷へと飛ばされた。……いや、そもそもここは何処なんだ?この少女は先ほど「ここが三枝の『イド』」と言っていたが。『イド』とは、一体なんだ?
玲治は身体を起こしながら、金髪の少女に説明を求める。
「なぁ、結局ここは何処なんだ?」
「ん、あぁな。端的に言っちまうと、ここはあの嬢ちゃんの心の中だ。んで俺とお前のやる事は、この世界のどっかに閉じ籠っちまった嬢ちゃんを、どうにかして引っ張り出すことだ。」
短く簡潔に、金髪の少女は腰に手を据えて現状を説明する。
しかしそれが、更に玲治の混乱を招いてしまった。三枝の心の中?どこかに閉じこもった三枝を引っ張り出す?あまりにも現実離れしたその内容は、玲治の理解能力を大幅に超えた。……いやそもそも、説明が圧倒的に足りない!
「『イド』――それは、潜在意識や無意識が混ざり合い、心象世界として形を成したモノのことよ。」
どこから現れたのか。苦悶の表情を浮かべる玲治の背後から、華炸桐花と、もう一人、袴姿の青年が歩み寄る。
切り揃えられた前髪に、後ろで一本に髪を括った青年だった。上下ともに純白の、一切の汚れのない袴を纏っている。その腰には刀を差しており、青年が動くたびに「カチャリ」と音を響かせる。
予期せぬ人物の登場に、玲治は思わず声を上げる。
「華炸!?なんで此処に……っていうか、何か知っているのか?」
「……少なくとも、貴方よりはね。」
「じゃあこの場所の事も知ってるんだな、一体ここはなんなんだ。」
「説明してあげてもいいけれど……いいわ、場所を変えましょう。ここに留まり続けるのは危険すぎる。」
「危険?それってどういう、」と尋ねる前に、桐花と、彼女の傍らに佇んでいた青年が身構えた。二人の視線は、金髪の少女と玲治の向こう側……シャンデリアに照らされていない暗闇の方へ注がれていた。
「来る。」
「……来るって、何が、」
「『イド』に蔓延る怪物。欲望や願望を具現化した、所謂モンスターよ。」
カチャリ、カチャリ、と。暗闇の奥より、木製の何かがぶつかり合うような音が響く。
――光の下へ姿を現したそれは、所謂木製のマリオネットだった。顔にあたるパーツには能面が被せられており、より不気味さを演出していた。天上から吊るされた糸で操られるように、それはじわりじわりと、こちらへ歩みを進めてくる。
なんだ、あれは……?玲治はその異質さよりも、剝き出しの殺意に恐怖を抱いた。背筋がじっとりと濡れていくのを感じる。
「ミソギ、いくわよ。」
いつの間にか取り出したのか、桐花はその手に銀色の拳銃を構えていた。ミソギと呼ばれた青年も、腰を深く落とし、刀に手を掛けている。
と、金髪の少女が二人を制した。
「ちょっと待てよ。……初陣だ。コイツは俺にやらせろ。」
その目は、獲物を捕捉した狩人の様相をしていた。舌なめずりしながら、少女は腰に吊るされたシルバーアクセサリーの一つを千切り取った。――瞬間、それは少女の手の中で巨大化し、少女の背丈以上もある巨大な鉄槌へと成った。
少女は両手で持ち手を握りしめると、腰を深く落として前屈姿勢を取った。
「待ちなさい!今の貴女じゃ、あいつには到底敵わないわ。引きなさい!」
「そんなの、ヤッてみなきゃわかんねぇだ――ろッッッ!」
少女は駆け出すと、怪物との間合いを詰めにいく。地面を蹴り、壁を駆け上がり、怪物の頭上めがけて大きく跳んだ。――あれほどの質量を抱えているのが、まるで嘘のような身のこなしの軽さだった。少女は鉄槌を大きく振り被ると、怪物を叩き潰さんとする勢いで振り下ろした。
……が、しかし。少女の鉄槌は確かにマリオネットの頭部に触れたが、ただ、それだけだった。マリオネットを叩き潰すどころか、能面に傷一つ入っていない。少女の顔面に困惑の色が浮かんだその瞬間、マリオネットが両腕を振るう。指先から垂れた糸が瞬時に鉄槌を絡めとり、少女の身体ごと壁に叩きつけた。
声にならない呻き声をあげながら地面に沈みゆく少女に、玲治の身体が思わず前に出そうになった。
「おま、大丈夫か!?」
「だから言ったのに……!栗栖くんは動かないで、私の後ろに隠れていて!」
桐花は拳銃を構えると、マリオネットへ三発発砲する。しかしその総てが、ゆるりとした軽い身のこなしで躱されてしまう。マリオネットは標的を定め、一気に距離を詰めてくる。桐花は臆することなく、続けて二発発砲する。その内の一発が能面を砕くが、しかしそれだけで、マリオネットの進撃は未だ止まらない。瞬く間に桐花の目前まで迫ったマリオネットは、両手から伸びる糸を左右に展開し、桐花の身を縛り切り刻まんとする――、
――が、しかし。それは叶わなかった。
いつの間に割って入ったのか。まるで桐花を庇うように、既に抜刀したミソギが、その場で腰を落としていた。瞬間、刀身が煌めく。目視で捉えられぬほどの手捌きで、迫りくる糸を微塵に断ち切った。
勢いを殺されバランスを崩したマリオネットに、ミソギは宙返りしながら蹴りを放ち、怪物を突き飛ばす。
「……ナイスカバーよ、ミソギ。」
「桐花殿?信じてくれているのはいいんだけど、もうちょっとこう、避けるとかさぁ。」
苦笑しながら、ミソギは刀身を鞘に納め、再び腰を落とした。――それは、居合の構えと呼ぶのだろうか。ミソギは一呼吸置くと、力いっぱいに地面を蹴り出す。滑空するように地面を駆け抜けながら、チラリとマリオネットを一瞥した。
両手の糸を断たれたマリオネットは、先と比べて動きがぎこちない。ミソギの推測通りであった。
「(やっぱりこいつは、現実のマリオネットと同じ。糸が断たれれば、肉体はその自由を奪われる。……ならッ)」
ミソギは地面を蹴ると、マリオネットの頭上へ躍り出る。身体を捻って空中で横転しながら、その慣性のままに手早く抜刀し、納刀する。その勢いのまま、再度抜刀と納刀を繰り返す。
一の太刀は総ての糸を断ち切り、次ぐ二の太刀で怪物の胴体を縦一文字に断つ。一秒にも満たない時間の中で、それを同時に行う――華炸流刀術の一つ、「居合道・十文字斬り」である。
ミソギの足が地に着くのと、崩れるように怪物が地面に倒れ伏すのは同時だった。
その一部始終を、桐花の背後から見ていた玲治は、言葉にならず唖然としていた。しかしすぐに我に返ると、急いで少女の元へと駆け寄り、その小さな肩を抱きかかえた。
先の戦闘で少女の手から離れた鉄槌は、元の小さなサイズに戻っており、床に放りだされていた。
「おいお前、大丈夫か!?」
「……な、んで。力が、まるで出なかった、」
苦しげに言葉を紡ぐ少女は、自身の身に何が起こったのか分からない、といった様子で、目を白黒させていた。
その様子を見た桐花は、拳銃を腰のホルスターに納めながらため息を吐いた。
「それは貴女と栗栖くんの間に、まだ『パス』が通っていないからね。」
「……パス、だと?」
「……詳しい話は『こっち』でしましょう。ここにいたら、また奴らが吸い寄せられてくる。」
そう言うと、桐花は壁面の扉を開き、中へ手招きする。
栗栖は少女の腕を肩に回すと、抱えるようにして桐花の後に続く。それを確認したミソギは、周囲を一瞥すると部屋に入り、扉を閉めた。
そこは先程までの華美な廊下とはうって変わって、ごくごく一般的な住居の一室だった。勉強部屋、とでも言うべきだろうか。本棚があり、勉強机と椅子があり、ベッドがあり……しかし、壁一面に張られた紙が、この部屋の不気味さを際立たせていた。
玲治はその内の一枚を手に取る。そこに記されていたのは「怖い」という、乱雑な二文字だった。……まさかと思い、他の紙にも視線を送る。「私を見て」「見ないで」「許して」「助けて」。その全てが、鉛筆で書き殴ったような筆跡をしていた。
それらを見た玲治は、思わず息を呑んだ。
「まさか、これ、」
「察するに、この部屋は三枝さんの自室……ということになるのでしょうね。これらの紙は、おそらくは三枝さんのSOSよ。」
摘まんでいた紙から手を離すと、桐花はミソギに尋ねた。
「どう、ミソギ。」
「ここなら大丈夫だとは思う。今のところは、怪物たちの反応も感知できない。」
そう、と頷くと、桐花はベッドに腰かけた。
玲治は少女を壁にもたれさせると、桐花にならって椅子に腰を下ろす。
浅い呼吸を繰り返している少女を見ながら、玲治は桐花に尋ねた。
「華炸……いや、華炸さん。さっきの化け物って一体。それに、貴女たちってどういう、」
「桐花でいいわ。……さっきも言った通り、あれは『イド』に蔓延る怪物。心象世界の持ち主――今回は三枝さんの欲望や願望、果てはストレスや恐怖が形を成した存在よ。」
桐花は脚を組むと、ふぅ、と一息ついた。
「その様子だと、何も知らないようね。……いいわ、私に答えられる範囲なら教えてあげる。その代わりに私からも、貴方について聞かせて頂戴。」
玲治は頷くと、現状知りたいことを全部尋ねた。
『イド』と呼んでいた、この世界のこと。
「俺はお前だ」という、この少女のこと。
そして桐花と、桐花と共に戦った青年のこと。
桐花はふむ、と頷くと、細い脚を組みなおした。
「どう説明したらいいかしらね。……まぁ、まず順を追って説明するわね。まずはこの世界についての話よ。」
『イド』――それは、誰もが持つ心象世界の名前だ。
人は誰しもが、理性という名のフィルターを通して日々を暮らしている。その過程で、欲望や本能、願いや痛み、捨てられない大切な記憶を、自身の意識の奥へと押し込めていく。
無意識と潜在意識、この二つの領域が混ざり合い、心象世界という形を成したモノ。それが、玲治が迷い込んだこの空間――『イド』という世界らしい。
そして、その『イド』に外部から干渉し、潜ることが出来る稀有な存在を『ダイバー』と呼ぶそうだ。
「潜在意識っていうのは、要は“記憶の倉庫”ね。普段は認識出来ないけれど、必要となればその都度、記憶や感情を引き出すことのできる場所。そして無意識は、それよりも更に深い場所……他人はおろか、本人ですら認識出来ないところにあるわ。本能や衝動、どうしようもない感情なんかが詰められている領域……だと、私は認識しているわ。」
「その二つが混ざり合った精神世界、それが『イド』……じゃあ『コイツ』は一体?」
言いながら、玲治は傍らでぐったりしている金髪の少女を指で示した。
「その子は……、」と桐花は言葉を区切ると、壁に背を預けているミソギに顎で示した。その意図に気付いたミソギは、「あぁね。」と小さく頷くと、彼女の言葉を引き継いだ。
「そこでダウンしている子は『トワ』と呼ばれる存在さ。君の『イド』に漂っていた本能や願望、願いが受肉して意思を持った存在……とでも言えばいいのかな。つまりは君の『写し鏡』と呼べる存在さ。」
「ちなみに僕も同じね。」と、笑いながらミソギは自分を指さす。少年の説明に、玲治は先程「俺は『お前』だよ。」と言われたその意味をようやく理解した。俺の本能や願望が『コレ』というのは、何とも信じ難いが……傍らに居る少女に視線を向け、なんとも複雑な心境に浸る。
と、今の一瞬の間に回復したのか、ぐったりしていた金髪の少女の顔色が劇的に良くなっていた。彼女は不満げに腕を組みながら、ミソギに問いかけた。
「……さっき俺が、すぐにやられたのはなんでだ。俺が思っていたより、ずっと力が出なかった。」
「おや?もうそこまで喋れるまで回復したのかい。『パス』も通っていないのにその回復力とは、ちょっと驚きだねぇ。」
「そう、それだ。そこの嬢ちゃんも言っていたが、『パス』ってのはなんだ?」
「うーんと……まぁ分かりやすく言うと、君の名前の事さ。僕にミソギという名前があるように、君にも君の名前がある。……ただそれは、栗栖くん、君の中にしかない。君がこの子の名前を思い出して、認識したときに初めて、二人の間に『パス』が通る。そうすれば、君は本来の力を発揮できるようになるんだ。」
「一息に説明したけど、理解できたかい?」と、相も変わらず笑いながら告げる。
玲治は自分の中で噛み砕いて、なんとか理解はした。理解はしたが……玲治は怪訝そうな顔を浮かべた。俺の中に名前がある。それはつまり「既に俺は、こいつの名前を知っている。」という事だ。だがしかし、いくら記憶の中を漁っても、俺はこの少女の名前に心当たりがない。
その事を正直に告げると、ここまでの話を聞いていた桐花は「そうね……。」と語りだす。
「その子は貴方の心、貴方の本質から生まれた存在。その名前は、貴方の本質や気質に由来するわ。……経験則から言わせてもらうと、おそらくは、貴方が自分の本質を自覚して受け入れれば、自然と名前を思い出せるはずよ。」
「なるほどな、よし相棒!さっさとソレを思い出せ。んで早く俺に暴れさせろ!」
「無茶いうな!」と、やいのやいの囃し立てる金髪の少女に叫ぶ。
俺の本質……それはつまり「他人と関わりたくはないが、しかし人の役には立ちたい」という矛盾した思考のことだろうか。それともまだ、俺自身が自覚していない『何か』があるというのだろうか。
「この世界のこととか、桐花がその『ダイバー』ってやつなのはなんとなく分かった。……でも、じゃあ、何が目的で『ここ』に居るんだ?意味もなく潜ってきたわけじゃないんだろ?」
「そうね、当然の疑問だわ。……私が日中、栗栖くんに尋ねた内容は覚えているかしら。」
問いかけられ、玲治はコクリと頷いた。偶然にも今日はその話題に事欠かなかったため、忘れるどころか脳に刻み込まれている。
「“マーブル”ってやつだよな。なんでも、ダークウェブで流通している違法薬物だとか。ハイになる代わりに、気を失うってやつだろ?……これは推測だけど、三枝のやつ、それを使ったんだろ。」
「あら、勘が鋭いのね。説明の手間が省けて助かるわ。」
「でも、それだけじゃあ繋がらない。それとこの状況がどう関係するっていうんだ?」
「物的証拠はないから、まだ憶測の域を出ないのだけれど、おそらく……いえ十中八九、三枝さんはマーブルを服用した。その結果、副作用で彼女の『イド』が暴走し、彼女自身の心を取り込み始めたのよ。」
桐花はそう言いながら、傍らの壁面に貼られたメモ用紙を手に取る。
彼女曰く、“マーブル”という違法薬物には服用者の『イド』を暴走させる副作用があるらしい。三枝由香が「らしからぬ振る舞い」をしたのも、突然意識を失ったのも、彼女の『イド』が暴走したことに起因する、とのことだ。
今の三枝は、暴走状態にある『イド』に意識が閉じ込められてしまい、抜け出せなくなっているのだという。
このままでは、三枝の意識は完全に『イド』に取り込まれ、最悪の事態を招きかねない。……彼女の異変にいち早く気付いた桐花は、彼女を追跡し、こうして心象世界に潜ってきたのだという。
「……な、なるほど?」
玲治は腕を組みながら、今の説明を踏まえて現状を要約する。
つまるところ、
・三枝は“マーブル”とかいう違法薬物に手を出したせいでおかしくなった。
・薬の効果で彼女の『イド』は暴走し、いまや彼女自身を取り込もうとしている。
・『最悪の事態』とやらを防ぐため、三枝を助けるため、桐花はこの世界に干渉した。
という具合だろうか。
整理したそれを口にすると、桐花は細い目を丸くした。同じく驚嘆の表情を浮かべているミソギが、玲治の背中に語り掛ける。
「キミ、随分と受け入れるのが早いんだね。僕みたいな存在が言うのもアレだけれど、こんな非現実的で荒唐無稽な話、そうそう受け入れ難いと思うんだけど?」
「……正直、納得したかって聞かれたら微妙な所さ。気分的にはまだ夢心地だよ。でも現にこうして色々見せられて、体験させられて、あれらを全部嘘って言い張るには無理があるだろ。」
半ば諦めたように、玲治は言い放つ。
ミソギの言う通り、現状も、ここで受けた説明も、全てが非現実的で荒唐無稽なものだ。しかし三枝のやつが「らしくなかった」のも、意識を失ったのも、対峙したあの怪物から向けられた殺意も、確かに本物なのだ。
そして今の説明や現状を否定するには、玲治の中の判断材料が少なすぎる。
だから一旦は受け入れることにした。この世界のことも、俺から生じたというこの少女のことも、三枝の現状も。
そしてそれらを踏まえて、これから自分がやるべきことを、自身の中で明確化した。
迷いなき眼でそれを告げると、桐花は感嘆のため息を吐いた。
「栗栖くんみたいに状況理解が早いと、こちらとしても助かるわ。……私からも、貴方に聞きたいことがあるのだけれど――、」
そこまで言葉を紡いだ、その瞬間。
三枝由香の自室を模したこの空間が、大きく振動した。何事かと玲治は椅子から立ち上がり、そしてとある変化に気付いた。
具体的には、この部屋の壁面について。
「(……薄暗いし、意識して見ていなかったけど。もしかしてこの部屋、入った時より小さくなってないか?)」
何かを感知したのか、ミソギが「ピクリ」と反応し、抜刀する。桐花に目配せすると、刀の柄に両手を重ねる――瞬間、刀が二振りに『分身』した。
金髪の少女も同様に立ち上がると、全身の筋肉をほぐすように伸びをした。
桐花はベッドから立ち上がると、訝しんでいる玲治へ足早に述べる。
「――まぁ、貴方に尋ねるのはまた今度の機会にしましょう。ミソギ、彼女にはまだ『余裕』はあるかしら。」
「正直、あんまりだね。……悠長に話し過ぎた。このままだと彼女、『イド』に完全に飲み込まれてしまうよ。」
「なら急ぐ必要があるわね。……あぁ栗栖くん、貴方には『コレ』を。」
ドアノブに手を掛けた桐花は、思い出したように腰のホルスターから拳銃を抜くと、それを玲治に差し出した。
銀色に鈍く光る、男性の手にはやや小さい印象の拳銃だった。玲治は拳銃を受け取ると、その生々しい重さに困惑の表情を浮かべた。
「共に戦ってくれるのでしょう?なら貴方にも、怪物と戦うための武器が必要になるわ。今はひとまず、私の『E.M.P』を使って頂戴。」
「……なんて?」
「『Ego-Mental-Plojector』。所有者の精神を、弾丸として放つ武器よ。私用にチューニングされているけど、何も無いよりはマシでしょう。使い方は後で教えるわ。」
言いながら、桐花はミソギから刀を一振り受け取る。……不思議と、その姿はさまになっていた。
再び、桐花はドアノブに手を掛ける。
「それじゃあ、行くわよ。」
言いながら、桐花は扉を開く。
扉を開け、飛び出した玲治たちを待ち構えていたのは、先程までとは異なる情景だった。
彼らの視界に飛び込んできたのは華美な廊下ではなく、ダンスホールのように広々とした応接間だった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアと、その光が反射するほどに磨き上げられた大理石の床。右側面に大きく配置された、ステンドグラスのような窓。
金の装飾がまんべんなく施された長方形のテーブルと、それを取り囲むように配置された白い椅子。
――――そして、テーブルを囲うようにして椅子に座る、華美なドレスを纏った木偶人形たち。
「――やられた。」
表情を強張らせたミソギが、ボソリとそう呟くのと同時。
向かい合って座っていた木偶人形たちの首が、「グリンッ」と一斉にこちらへ向けられた。
「カラン」と、乾いた音色を響かせながら、そいつらはゆらりと立ち上がる。
こちらに向けられた首に顔はない。つるりとした木目の面に、無数の線が走り、ゆっくりと開いてゆく。――――それらは眼球だった。
「……は、」
ヤバイ。
その眼を見た瞬間、玲治の直感が警鐘を鳴らした。咄嗟にドアノブを掴もうとするが、しかし、玲治の手は空を切る。さっきまでそこにあったはずの扉は、跡形もなく消えていた。
金髪の少女も、その異常性を察知したのだろう。白いギザ歯が見えるほど頬を引きつらせながら、その身を左側へ翻す。
「二人とも、逃げて!」
ミソギに引っ張られた桐花が叫ぶのと、金髪の少女が玲治の首根っこを掴んだのは、ほぼ同時だった。
全ての木偶人形の眼が完全に開く――その瞬間、彼らの立っていた場所が「ベコンッッッ」と大きく凹んだ。
いや正しくは「空間が大きく湾曲し、下方に圧縮された」だろうか。傍目にそれを見た玲治と桐花は、それが、重力力場を発生させる遠距離攻撃だと即座に理解した。
木偶人形たちの攻撃は続く。左右に分かれて駆け出した二組を追尾――まるでマシンガンを掃射するように、逃げる二組に向けて重力力場を連続して放つ。
金髪の少女もミソギも、その不可視の追撃を直感で搔い潜る。そのさまは、端から見ればさしずめ「もぐら叩き」のようであった。
「おいおいおい。チュートリアルにしちゃ、ちとハードじゃねぇか……!?」
ギザギザと蛇行するように攻撃の雨を避けながら、少女は手に掴んでいた玲治を「グイッ」と引き寄せ、その腕に抱きかかえる。
目まぐるしく動く視界の中、玲治は、内から湧き出る恐怖に震えていた。
追撃の手を緩めない木偶人形たち。やつらから向けられるのは、明確な殺意と拒絶の意思のみ。
常識外の現状に、常識外の化け物、そしてそれらから注がれる憎悪と殺意。
栗栖玲治は、三枝由香の『イド』に潜るまでは只の一般人に過ぎなかった。過去の災厄を除けば、これまで命のやり取りはおろか、命の危険とは無縁な日常を過ごしてきた、そこらへんに居る男子高校生の一人でしかなかったのだ。
故に「一つの判断の過ちで命を落としかねない」現状に、少年は恐怖している。
現に、拳銃を握る手に、無意識に力が入るほどだ。
だが半面、不思議と冷静な自分も同居していた。先の攻撃が“重力力場”によるものだと即座に理解出来るほどには、彼の頭は冴えていた。
現に今も、身体を震わせながら、木偶人形たちを注視して解決策を探ろうとしている。
「(もしかして視線か?視線を向けた先に、重力場を発生させてるのか。じゃあ、あの視線を遮りさえすれば……でも、どうすればいい?)」
激しく揺れる中、玲治は部屋中に視線を巡らせる。
巨大な長テーブルと、それを取り囲むように配置された椅子。天上に吊るされた巨大なシャンデリア。部屋の四隅に設置された石像。
「長テーブルをひっくり返して、それの物陰に隠れればいいのでは」と考えたが、即却下。視線そのものが攻撃のキーだとするなら、長テーブルに視線を向けられた時点で詰む。裏手に隠れたところで、テーブルごと圧縮されるだけだ。
となると、根本から――あの木偶人形たちの『眼』を塞ぐ必要がある。
と、玲治の視界にカーテンが入り込んだ。煌びやかな窓の左右に、それを覆い隠すほどの大きな、しかも一目見て厚手だとわかるカーテンが。
「お前、さっきデカいハンマー出してたよな。手持ちに、モノを切る武器ってあるか!?」
「んぁ?残念ながら持ってねぇな!それがどうした!?」
「わかった。……桐花、ミソギ、逃げながらでいいから聞いてくれ!『そこ』のカーテン、刀で斬り落とせるか!?」
反対側で、同様に逃げ回っている一組に叫んだ。
桐花を両手に抱えるミソギは、放たれる攻撃を直感で躱しながら、カーテンを一瞥し、「もちろん!」と叫んだ。
なら、やるべきことは見えた。玲治は拳銃のグリップを力強く握り直すと、傍らの少女へ告げる。
「なぁ、あいつらの左手に回って、あいつらの攻撃を躱し続けてくれ!但し、一定の距離を保ったまま!」
「お前、まぁまぁ無茶なこと言ってくれるじゃねぇの……ッ!」
「無理か?」
「うるせぇ、出来らぁッッ!!」
煽られたことに逆上しながら、金髪の少女は、そのツインテールをなびかせながら急加速、急接近する。
攻撃はなおも止まらない。いやむしろ、動きをみせたコチラに視線が集中し、攻撃の手がより激しさを増す。
金髪の少女はそれを、壁、天井、部屋角のオブジェ、シャンデリア――視界に映る全てを足場として、一定の距離を保ったまま、その弾幕を高速で躱してゆく。
首がぐわんぐわんし、三半規管が悲鳴をあげる。しかしその中で辛うじて意識を保ったまま、玲治は少女の左肩から身を乗り出し、拳銃を構える。
それを横目に、少女は「ははーん……?」と苦しげな笑みを浮かべた。
「なるほどな、お前のやりてぇ事が分かった。……でもよ、あのデカブツだけは狙うな。」
「うぐ……ッ!で、デカブツ……!?」
彼女の言う『デカブツ』は一目で分かった。
木偶人形は五体。その内、他とは頭一つ抜けて巨大な木偶人形が、まるで護り隠されるように立っている。その顔には眼が生えておらず、今なおものっぺらぼうのままだ。
反対側で躱し続けているミソギが、声を大にして助言する。攻撃の手がこちらに集中したからか、その動きに若干の余裕が見え始めていた。
「そのデカいのは三枝由香だ!中に、三枝由香の反応がある!」
「そっちからお出ましか……探す手間が省けたなぁおい!」
攻撃を掻い潜りながら、金髪の少女はニヤリと笑う。
「ちょっと待ちなさい栗栖くん!私、まだ貴方に『E.M.P』の使い方を教えて――、」
「そんなもん、やりながら覚えるッ!」
叫び、自身に活を入れると、玲治は木偶人形に向けて発砲した。
放たれるのは実弾ではなく、青白い、精神力を凝縮した弾丸。軌跡を描きながら放たれたそれは、しかし着弾することなく、虚空へ消えてしまう。
「やっぱりこれじゃ駄目か……ぐぇっ!?」
再度発砲しようとした瞬間、金髪の少女の軌道が直角に曲がり、肺を圧迫される。刹那、間一髪のところで“重力場”が壁面を砕いた。
「テメェぬるい弾撃ってんじゃねぇぞ!こっちだって余裕ねえんだ、早く始末つけやがれ!」
呼吸困難に陥りかけている玲治に、金髪の少女は叱咤する。その額には滝のような汗が滲み、食いしばった口角からは涎が流れ出ていた。
彼女も、もう限界が近いようだった。
「悪い。……でも大丈夫、今ので、感覚は掴んだ!!」
玲治は再び身を乗り出すと、銃口を木偶人形に向け、再度引き金を引いた。
放たれた弾丸は、先のソレよりも強い輝きを放っている。一発の銃弾に込める精神力を増したためだ。
おそらくこの拳銃――『E.M.P』は、込める精神力によって、弾丸の飛距離と威力が変動する。先のように途中で消失したのは、半端にしか精神力を込めなかった結果だろう。
なら、今度はそれよりも強く、多く込めればいい。あの木偶人形たちにダメージを与えられるほどの、精神力を。
玲治が放った弾丸は、青白い軌跡を描きながら、木偶人形の肩に直撃する。木偶人形の身体が大きく揺れ、ほんの僅かに後退する。しかしソレに風穴を空けるほどの威力はなく、せいぜいが体表面を凹ませる程度の威力しかなかった。
「しょぼいじゃねぇかッ!」
「……いや、これでいい!」
玲治は次いで、二発、三発、四発と、立て続けに発砲する。一見すれば狙いもクソもない乱射でしかないが、しかし激しく動き回る少女に抱かれた彼の眼は、確かに、狙うべき部位を見定めていた。
弾丸が立て続けに木偶人形たちに当たり、その度に怪物たちの巨体は、じりじりと後退してゆく。
放ち、着弾し、後退。
放ち、着弾し、後退。
放ち、着弾し、後退。
金髪の少女が敵の猛攻撃を掻い潜り、その腕の中から、彼は的確に、弾丸を放ち続ける。
こちらから見て、前方二体の木偶人形が大きくバランスを崩し、後ろに傾く。それに押し倒されるように、桐花たちを狙っていた後方の二体もよろめき、音を立ててその場に倒れた。――――そこは丁度、巨大な窓の真下であり、カーテンが『覆い被さる』場所だった。
「……ミソギ、今だ!カーテンを切れ……ッ!」
息も絶え絶えな玲治が叫ぶより早く、ミソギは動き出していた。
手の中の桐花を宙高く放り投げると、彼自身も大きく飛び上がった。そしてカーテンを前に抜刀すると、窓際の左右二つのカーテンを、横一文字に断ち斬ってみせる。
支えを失った赤いカーテンは、転倒して蠢いている木偶人形たちを覆い隠し、その脅威である『眼』を完全に覆い隠した。
そして――、
宙に放り出された桐花は、天井に足をつけると、腰を深く落とした。それは、ミソギと同じ居合の構えだった。鞘がない故に、峰にその左手の指を添えるだけの、簡素なものではあるが。
しかし彼女には、それで十分だった。
口をすぼめて息を吸い込み、止める。閉じていた瞼をゆっくり開くと、モゾモゾと蠢いている赤いカーテンを視界におさめ、
「華炸流、抜刀術-―――、」
天井を蹴った。
少女の身体が、重力に従って急降下する。放たれた矢のように、まっすぐと、目下の敵へ。
そして、彼女は刀身を煌めかせた。
「――――八咫ノ五月雨。」
一閃、二閃、三閃――八閃もの軌跡が、同時に、音もなく木偶人形たちに襲い掛かる。赤いカーテン越しに、木偶人形の首が、胴が、四肢が、瞬時に斬り刻まれる。
桐花が腰を捻って着地したのと、カーテンから泥のような液体が噴き出すのは、ほぼ同時だった。