2話『栗栖玲治』
“平穏”は永遠には続かない。
“終わり”は音もなく、突然に。
それは、まだ残暑の残り香を感じられる頃だった。
「今日はいい天気だし、一緒に遊園地に行こうか。」
日曜日の早朝七時。まだ寝起きで朦朧としている僕に、母さんは突然そう告げた。
母さんは女手一つで僕を育ててくれていた。常日頃から仕事に追われており、今日は珍しく非番の日だった。
まだ母性が恋しい、甘え盛りの年頃の僕は、母さんからの突然の申し出にとても喜んだ。
その日は、これからの人生も含めて、一番の思い出になった。
母さんの手を引っ張り、目につく限りのアトラクションに乗った。昼には母さん手製のお弁当を食べ、午後にはまた、残りのアトラクションを消化した。
この時間が、永遠に続けばいいのに……。そんな事を思っていた矢先の事であった。
「今日はいい子の玲治君に、プレゼントがあります!……コレ、玲治にあげるね。」
渡されたのは、瑠璃色の石が埋め込まれた小さな銀のネックレス。かねてより「一番の宝物」なのだと、肌身離さず大切にしていた代物だった。
「いいの?」と問うと、母さんは晴れやかな表情を浮かべて頷いた。
「いいの。これは、キミを護ってくれるお守り。これからの長い人生でどんなことがあっても、玲治を護ってくれますようにっていう、私からのおまじない。」
それはまるで、訣別の言葉のように聞こえた。
底知れぬ不安と、哀愁が僕の背中を伝う。その嫌な予感を払拭するために、僕は母さんに聞いた。
「……お母さんは?一緒にいてくれないの?」
その問いに、母さんは静かに微笑むだけだった。静かに、僕の小さな首にネックレスを掛けた。
――事が起きたのは、その矢先。
園内が突如として、喧噪に包まれる。
びっくりした僕は、そちらを見る――周囲の人々が、次々と、“青白い結晶”へと変わっていく。
一人、また一人と。肉体を内側から突き破るように。奇しくも、照らす日の光によって幻想的な煌めきを放ちながら、人々は結晶へと変わってゆく。
そしてそれは、母さんも、また――。
ドン、と。母さんの手に、僕は押し倒される。
母さんの身体が、みるみると、青白い結晶に変わってゆく。下半身は既に完全に結晶化してしまい、もう身動きが取れずにいた。
恐怖の表情に染まる僕に向けて、母は言った。
「大丈夫。お母さんはずっと一緒にいるから。そのネックレスと共に、ずっと――、」
世界各地で勃発した、未曾有の人体結晶化現象“アリス・クライシス”。
僕――栗栖玲治がその名を知ったのは、それからずっとずっと、未来の事だった。
※ ※ ※
――進路希望調査。
そんなものを目の前に、栗栖玲治はシャープペンをくるくる回しながら、ボーッと校庭の方を見つめていた。
彼の視線の先では、陸上部や野球部、サッカー部などの野外運動部の生徒たちが、広いグラウンドを駆使し、各々切磋琢磨し合っていた。
そんな様子を見下ろしながら、
「将来、なぁ……。」
と、小さくぼやく。
高校に入学して早半年。五日後に提出期限を控えたソレは、いまだ空白のままだった。これから先の将来の夢、進路……か。考えに考え、脳が煮えそうなほどに熟考したが、しかしてんで何も浮かばない。いや厳密にいえば、なりたいものが無いわけじゃない。無いわけではないのだが……。
「やほ、玲治くん。こんな時間まで何してるの?」
「ああでもないこうでもない」と、一人で考えあぐねていると、背後から突然声を掛けられた。
ビクッと肩を震わせて振り向くと、そこには三枝由香――このクラスの保健委員で、幼馴染の少女が立っていた。
丸眼鏡と、鼻先のそばかすが特徴的な少女だった。誰にでも「ほどほど」に優しく、誰とでも「ほどほど」に親しい。争い事や喧噪は好まず、どんな状況下でも当たり障りない対応をする。絵に描いたような理想的な模範生。もしくは八方美人。彼女は、そんな人物だ。
彼女は高校入学時より美術部に所属しており、いつもならこの時間は、部室に入り浸って絵を描いている筈だが……。
心臓をバクバク言わせながら、玲治は干上がった喉から声を振り絞る。
「……な、なんだ三枝か。今って部活の時間じゃないのか?」
「なんだって何さ。……机の中に筆箱を置いてきちゃってさ、それを取りに来たの。そういう玲治くんは、こんな時間まで何してるの? 」
ここから二つ前の席が彼女の席だ。三枝はそこから筆箱を取り出すと、次いで、こちらの席を覗き込んでくる。そして机の上の進路希望調査の紙を見て「あー……」と、こちらの事情を察したのか目を伏せた。
「それ、何を書けばいいのか悩むよね。私は画家とカメラマンって書いたけど。……栗栖くんは、こう、何かないの?」
「……いや、無いわけじゃないんだけどよ。」
目を逸らしながら、玲治は気恥ずかしそうに頬を掻いた。なんとなく、シャープペンシルを指先で遊ばせる。
三枝は興味津々といった様子で、
「え、気になる。なになに?」
「…………人の役に立つこと。」
控えめに、ボソリとそう告げる。三枝は暫しきょとんとした後、ふふふと声を押し殺すように笑った。
玲治は、自身の耳が熱を持つのを感じた。
それは小さいころからの夢……とまでは行かないが、叶えたいことだった。だがこれを言うと決まって皆、今の三枝のような反応で子馬鹿にするのだ。「かわいい」だとか「子どもっぽい」だとか、そんな風に言うのだ。
「な、なんだよ!お前も茶化すのかよ。」
「いや、違くて。……人の役に立つ。うん、玲治くんらしい、立派な夢だと思うよ。でもその前に君は、その人見知りを直さないとね。」
それだけ告げると、三枝は「じゃあ、また明日。」と言い残して教室を後にした。
それを視線だけで見送ると、硬い椅子に深々と腰掛ける。玲治は「ふぅ……」と、深いため息を吐いた。
「人見知り、ねぇ。」
別に人見知りとか、これはそういうものじゃない。極力、人と関わりたくないだけだ。特にその人の人生観に関わるような、深入りするのはごめんである。
暫し、教室が静寂に包まれる。聞こえてくるのは運動部の掛け声と、遠いカラスの鳴き声だけであった。
シャープペンシルで遊ぶ手をピタリと止めると、玲治は再びため息をつく。
「……帰るか。」
進路希望調査票と筆箱を乱雑にリュックに仕舞うと、立ち上がり、教室を後にした。
夕焼けの射す階段を駆け下り、土の匂いが漂う昇降口へ。上履きから外履きに履き替えると、そのまま土を踏みしめた。
季節は初夏。日没が遠くなり、地面に伸びる影が長くなる。じっとりとした湿気を肌に感じながら、栗栖玲治は校門を出て、とある場所へその脚を運ばせる。
栗栖玲治には、週に一度の日課がある。
最寄り駅から電車に揺られること約二〇分。降車駅から十五分程、舗装された繁華街を抜けてゆく。道中、馴染みの花屋で献花を包んでもらう。そうして彼が訪れたのは、とある県立公園だった。
広々とした敷地内は整備が行き届いており、入ってすぐに真新しい噴水がある。そこから更に進むと、とあるモニュメントが点在している区画がある。そのモニュメントとは、平均的な成人男性の背丈以上もある、瑠璃色の結晶体だった。いずれも夕陽を浴びて、幻想的な光を周囲に乱反射させている。
玲治はそのうちの一つ――周囲のソレよりやや小ぶりな結晶に歩み寄ると、手にしていた献花を地面に置いた。
「……今日も来たよ、母さん。」
言いながら、玲治は静かに手を合わせた。――それは、『かつて母さんだった』ものだ。
これは、今から一〇年前の話だ。
以前は遊園地として栄えていたこの場所で、『人体が突如として結晶化する』なんていう、怪奇な現象が発生した。その日に遊びに来ていた来場客も、そこで働く職員も問わず、次々と結晶化していった。……当然その中には、玲治の母も含まれていた。そんな惨状の中、自分だけは何故か結晶化せずに、こうして生き残った。
この公園は、その跡地に作られた場所だった。
何故そんな現象が起きてしまったのか。何故この場所だったのか。
その謎は現在まで解明されていない。いやそれどころか現在に至るまで、原因究明すらされていなかった。というのも『そんな大規模な怪現象が起こった事実を、誰一人として覚えていない』のだ。どういう訳か、誰の記憶にも、当時の出来事は残っていないようだった。……唯一人、栗栖玲治を除いては。
故にこの結晶体も、人々からは、公園の一角に設置されたモニュメントとしてしか認識されていない。さしずめ、どこかの大学の卒業制作とでも思われているのだろう。
それでも、あの日の事を唯一覚えている玲治は、こうして毎週のように献花を持参している。墓すら用意されていない母への、せめてもの供養もかねて。
あの日、母さんが譲ってくれたネックレスは、今も肌身離さず身に着けている。他の皆のように、母さんのことを、あの日の事を忘れてしまわないように。
玲治は芝生に腰かけると、瑠璃色の結晶体に語り掛けた。
「なぁ母さん、俺いま悩んでることがあってさ。進路希望調査を書かなきゃいけないんだけど、一体何を書けばいいのやら。」
当然だが、返事はない。だが構わず、虚空へ向けて話しかけ続ける。
「『人の役に立てるようになりたい。』……正直なんでもいいんだよなぁ。人を助けられるようなものなら、なんだって。あの日みたいな事を未然に防げるような、そんな人になれたなら、俺はなんだっていいんだ。」
まだ幼かったあの頃。目の前で結晶へ変わりゆく母さんを、俺はただ泣きながら、それを眺めることしか出来なかった。そのことが今でも悔しくて、悲しくて、後悔として心にこびりついている。
故に玲治は、「人の役にたてること」をしたい。誰かを助けられるような、困っている人に手を差し伸べられるような、そんな人間になりたい。
だがその半面『他者と深く関わりたくない』なんて言う。それは到底矛盾していると自覚しているし、変えるべきだと自負もしている。だが、どう折り合いをつければいいのか分からないでいた。
と、今は母さんの前だということを思い出した。玲治は我に返ると、別の話題へと切り替えた。
「そういえばさ、近所に三枝由香っていただろ。あいつ相変わらずの八方美人というかお人好しでさ。今日なんか………、」
その日は日が落ちきるまで、母と話した。
不安をかけないようにと、明るい話題を選びながら。
同時刻。別の場所にて。
自室にて、三枝由香は躊躇っていた。
部屋はカーテンが閉め切られており、やや薄暗い。床には段ボールと緩衝材が散乱としている。スクールバックは乱雑に放られており、中身が飛び出していた。
その手に握られているのは、水色と黄色の、玩具みたいな配色をしたカプセル錠。
“マーブル”といったか。いま、ネットで密かに流行っているらしいビタミン剤とのことだ。
かねてより、最近気分が優れない旨を部活の先輩に相談していたところ、「これが一番キくんじゃないか」とURLを共有してもらった。それは普通に調べてもアクセスできないもので、トーアブラウザ……?というものが必要との事だった。早速インストールしてアクセスしてみると、そこはいかにも怪しげなオンラインマーケットだった。
『え、大丈夫なやつなのコレ……?』
否、そんな訳がない。そんな訳はないのだが、しかし彼女は、藁にも縋る思いでソレを注文し、入金もした。
それが今日、届いたのである。
バクバクと、不安と期待で心臓が高鳴る。こんなアングラで出回っている薬、どう考えても怪しい。戻るなら、今だろう。
……だが。
「……でも、少しだけなら。」
そう言って覚悟を決めると、口の中に放り込み、水で流し込んだ。
……それからどのくらい経過しただろうか。突然、視界がグンと開けた。突然の身体の変化に驚き、三枝は思わず背中を仰け反らせた。急激に動機が激しくなり、手足に若干の痺れが走る。
同時に、溢れ出る高揚感と多幸感が三枝を包み込んだ。落ちてゆく感覚に近いのだろうか。視界が、世界が、ぐるぐると回転していく。
「あ、これはヤバいやつだ。」と直感で悟ったが、その感覚も、内から溢れ出る高揚感で上塗りされてしまった。三枝由香は未知の感覚を噛みしめるように、震える身体を両手に抱きしめた。
――部屋の中には、深い金木犀の香りが充満していた。
翌朝。
いつも通りに登校し、教室へ入った玲治は、気怠そうに「よっこらせ」と着席した。
栗栖玲治は昨晩より、ある問題に直面していた。
「さて。……金、どうすっかなぁ。」
昨晩、なんとなく預金残高を確認したところ、想定していたよりも貯蓄が減っていたのだ。今の玲治は、母の貯えと、叔父叔母夫妻からの仕送りに支えられる形で生活をしている。故に無駄遣いは極力控えていたつもりだったのだが……。一体どこで崩れたのか。
思い当たる節があるとすれば、まぁ、毎週の献花だろうか。母に少しでも喜んでもらおうと、少し豪華に包んでもらっていたのが、あれが積もりに積もって家計に響いているのかもしれない。
豪華にするのは当分控えるとして、しかし祖父祖母から振り込まれるまでの当面、生活費をどうするか……。悩みに悩んだ末、導き出された結論は、
「バイト、探すかぁ。」
問題は、校則でバイトが禁止されている事だ。以前、友人が隠れてバイトしていたことがあるが、どういう訳かそれがバレて、学年主任の小田原に散々シゴかれていた。出来ればああはなりたくない。ここに居ない友人を人柱にするようで気が引けるが、今は参考にさせてもらおう。……さて、どうやってバレないようにバイトをするべきか。
悶々と考えていると、突然、背中を強く叩かれた。
「いっで!?」と慌てて振り返ると、そこには、いま登校してきたばかりの三枝がいた。
彼女は元気溌剌に、
「やほ、玲治!今日も元気にしてるかね?」
「お、おう三枝、おはよう。珍しく時間ギリギリだな。」
いつもの三枝であれば、朝早くに登校して読書をしているというのに。珍しいこともあるものだ。
「ちょーっと寝坊しちゃってね。」と、座席にカバンを置きながら、三枝は告げる。前後の席の生徒に元気よくあいさつをする彼女に、玲治は顔をしかめた。……なんだ、この違和感は?
彼女は別に、いつも通り挨拶を交わしているだけだ。それだけだというのに、何故違和感を感じるんだ?疑問に思う玲治の心中をよそに、三枝は歩み寄ってくると、自身の顔を手で仰いだ。
「まだ七月だっていうのに、今日は一段と暑いねぇ~。こういう日は冷たいものが欲しくなるよね。」
「ん?まぁ言われてみれば、確かに今日は暑いな。三枝って、暑いの平気だっけ?」
「いや無理、ほんと無理。……あ、そうだ。今日フタバで新作が出るんだってさ。よければ放課後、一緒に飲みにいかない?」
「これなんだけどさ~。」とスマホを弄りながら、栗栖に顔を近づけてくる。その距離感の詰め方に一瞬ドキッとする――揺れる髪から漂ってきた、深い金木犀の香りに、玲治はいよいよ違和感が強くなる。
これは、香水か?あの生真面目な三枝が?
これには流石に、玲治は口に出した。
「……なぁ三枝。この匂い、香水か?」
「え?……あー、うん。臭かったかな。」
「あぁいや、そういうんじゃなくて。三枝が香水付けるなんて珍しいなって思って。」
「お姉ちゃんに借りてみたんだ。いやほら、最近暑いじゃない?汗の臭いが気になるから……。なにか変、だったかな。」
「んなことないけど……あぁでも、担任の葛城にはバレないようにな。あいつ、そういうのには煩いから。」
「ふふっ、分かった。ありがとうねぇ。」
そう笑うと、三枝は自分の席に戻ってゆく。その後姿を見送る玲治は、未だ胸の違和感が拭えずにいた。幼馴染の勘、というやつだろうか。幼いころから知っているからこそ、今日の三枝には違和感を覚える。
と、担任の葛城が教室に入ってくる。
「おーし。みんな暑いとは思うが、とりあえず朝礼だけ済ませっぞー。」
玲治は僅かな懐疑心を胸に秘めたまま、ホームルームの為に席を立つ。
そしてそのまま、流れるように一限目へ入った。
「貴方、ちょっといいかしら。」
時刻は進んで、今は昼休み。
午前の授業を終え、学食へ向かおうと教室を出た玲治は、凛とした声に呼び止められた。
振り向くとそこにいたのは、同じクラスの女子、華炸桐花だった。整った目鼻立ちに手入れの行き届いた黒髪。毛先は切り揃えられており、僅かなハネも許さない。スタイルも良く、男子からは「同学年一の美女」と称され、男子界隈では一目置かれている存在だ。
そんな人物から突然お呼びがかかり、玲治はついキョドってしまう。……あぁ、三枝のいう「人見知り」って、多分こういう所を言うんだろうなと、不本意ながら自覚してしまう。
「え、えっと。何ですかね。へへ……。」
「ふふ、なんで敬語なのよ。別に畏まる必要はないわ。同じクラスメイトじゃない。」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……。というか、もう体調は大丈夫なのか?さっきの授業で倒れたって聞いたけれど。」
「えぇ、それについては問題ないわ。……それより、貴方に少し聞きたいことがあるの。ちょっと着いてきてくれない?」
そう言うと、こちらの返答を待たずに手を掴み、ズカズカと歩く桐花。その細く柔らかい手に掴まれてドキマギしながら、引きずられるようについてゆく。
「この辺でいいかしらね。」
玲治に連れてこられたのは、階段下の物置前だった。ふわりと、彼女の髪の匂いが鼻孔をくすぐる。
この状況、なんか密な男女の密会みたいじゃないですかね?なんて考えが一瞬過る。我ながら気持ち悪いとは思うが、こちとら健全に男子高校生なのだ。許してほしい。
「貴方……えっと、栗栖くんだったわよね?いつも、三枝さんと仲よさげにしている。」
「……さ、三枝?あぁまあ、そりゃ俺とあいつ幼馴染だからな。腐れ縁って言った方が正しいのかな。」
「そう。まぁそれについてはいいわ。」
「聞きたいことが、二つ。」と言いながら、桐花は二本の指を立てる。
「まず一点、その三枝由香さんについて。……彼女、最近変わったことはないかしら?」
「変わったこと?」
「例えば、そうね。……まるで人が変わったようだ、とか。」
なんでそんな事、と尋ねようと桐花の目を見て、玲治はびくりとした。
先までの柔和な目つきから一転、その目は鋭く据わっていた。まるでこちらの真偽を図るように、心の中まで見透かすように……そんな目つきをしていた。
狼に狙われた兎とは、こんな気持ちなのだろうか。そんな事を思いながら「そういえば、」と、思い当たる節を口にする。
「変わったこと、とまではいかないけど。そういえば今日は“らしくはない”な。やけに元気というか、ハイテンションというか。香水なんかも付けてるし。」
「そう。じゃあ二点目。貴方、“マーブル”って知っているかしら?」
「マーブル?なんだそれ、お菓子の名前か?」
「……知らないならいいのよ。時間を取らせてごめんなさいね。聞きたいのはそれだけ。……それじゃ。」
それだけ言い残すと、桐花は黒いスカートを翻して立ち去った。
何だったんだ、一体……。疑問を胸に抱きながら、おもむろに懐からスマホを取り出し見ると、彼は自身の目を疑い、急いで駆け出した。
「やっべ、早く購買行かねぇと!?」
玲治は懐にスマホをねじ込みながら、急いで階段を駆け下りる。……途中、「廊下を走んな~!」と叱られた気がするが、こっちはそれどころじゃない。この学校の昼時、購買は戦場となるのだ。出遅れた者から死んでいく、慈悲なき世界なのだ。
……結論から言ってしまうと、購買には到着したものの、もう殆どが売り切れていた。
「……出遅れた者から死んでいくんだぁ。」
凹んでいてもしょうがない。さてどうしたものかと、空腹で鳴いている腹を摩っていると、遠方から玲治を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい玲治!!……いやそっちじゃなくて、こっちこっち!」
声のした方を見ると、食堂の端っこの席に座る男子が一人。この学校に進学して初めてできた友人、そして先ほど述べた、バイトがバレてしこたま怒られた友人――三鷹圭吾だった。進学して早々に絡まれて以来、なんやかんや意気投合して、今もこうして昼に顔を合わせては、どちらかが声をかけるといった関係が続いている。
三鷹に呼ばれ、おずおずと歩み寄る栗栖。空腹に咽び泣いている様子を見て、三鷹はにやりと笑うと、
「その様子だと、なんにも買えなかったんだろ。……いいぜ、こん中から好きなの持って行きな。」
そう言うと、目の前に山積みになっている総菜パンを指さした。
三鷹は運動部に所属しており、燃費も悪いために大食漢だ。故に毎日、とんでもない量の昼食を買い込んではしっかり完食している。
こいつ、神か……?いやでも、俺が昼食買えなかったのって、元を辿ればコイツが爆買いしたせいなのでは?などと思いながら、「んじゃこれと、これとコレで……あぁあとこれ。」と総菜パンを四つほど頂く。
「……容赦ないのな、お前。まぁいいけど。」
そう言って焼きそばパンに噛り付き咀嚼すると、三鷹はスマホを弄りながら。
「なぁ玲治、お前って流行には敏感な方だっけ?」
「いんや全く。それがどしたのよ?」
「いやさ、お前“コレ”知ってるか?今流行ってるんだとよ。」
弄っていたスマホを差し出しながら、三鷹は言う。カレーパンを咥えたまま受け取り、画面を覗く。それは通販サイトらしきもののスクリーンショットだった。水色と黄色のカプセル錠の薬品が、なんとも破格の値段で取引されているのが見て取れる。名称欄には“アイデリリウム”と記載されていた。
「今、“マーブル”って名前で、密かなブームになってるらしいのよ。お前、知ってるか?」
そう問われ、栗栖は首を横に振るが、しかし、はたとその動きを止めた。
“マーブル”。はて、直近にもその名前を聞いたような……。あぁそうだ、華炸桐花がそんな名前を口にしていたっけか。
「名前だけなら。なんなんだ、これ?」
「超高圧縮されたビタミン剤らしい。……が、ここだけの話な。コレ、ダークウェブで取引されてる違法薬物なんじゃないかって噂があるんよ。」
「……マジ?まさかお前ついに、」
「ンなわけあるか!こいつはネット掲示板に流れてきたスクショ。俺ぁヤクなんて興味ねーっての。」
そう言って彼は、ペットボトルのコーラを仰ぐように飲む。
玲治は「冗談だよ。」と笑う。玲治はカレーパンを完食すると、次の総菜パンへと手を伸ばす。
「で、それがどうしたって?」
「ん、ああ。なんでもコレ、飲んだ後に魂が抜けたように気を失うんだってよ。何しても起きねーんだって。」
「あ、何だそれ、副作用ってことか?……そこまで詳しいなんて、お前、まさかやっぱり。」
「おう、それ以上言ってみろ。『コレ』な。」
『コレ』と言いながら、握り拳を掲げる三鷹。「いや冗談冗談」と笑いながら、玲治はサンドウィッチの包みを開く。
「ったく。いやなに。掲示板の書き込み見てるとよ、誤飲だとかもあるらしいのよ。なんも知らねーやつの飲み物に混ぜて、知らぬ間に……ってのも起きてんだってさ。」
「……あ、もしかして心配してくれてんの?」
「ま、そんなとこだよ。……何ニヤニヤしてんだてめぇ!」
ケタケタと笑いながら、そうそうコイツはこういう奴なんだと再認識した。
三鷹圭吾という男は、粗悪な不良生徒のような見た目をしている。そのビジュアルや言動で、何かと損しがちな彼だが、その内面は誰よりも優しく心配性で、しかしそれをストレートに伝えるのは恥ずかしがる。そういう、どこか憎めないやつなのだ。
こんな見た目をしている理由だって、訪ねてみれば「この方が変なやつ避けになるだろ。」とのことだ。
三鷹は次なる総菜パンにホットドッグを選びながら、玲治に告げる。
「そういや前々から気になってたんだけどよ。お前って人見知り激しいというか、自分からは深く関わろうとはしないじゃんか。避けてんのか?」
「もぐ……いや、別に避けてはないが?人見知りなのは否定しないけどよ。」
「嘘つけ。俺や三枝とも“一線”引いてんじゃねーか。」
「………………は、」
突然そんなことを言われ、玲治はつい息を呑み、その手が止まった。開けようとしていたサンドウィッチが、ぽとりと膝の上に落ちる。……なんだ、この感覚。冷や汗が止まらない。まるで、ずっと目を背けている『核心』を突然暴かれたような、そんな嫌な気分だ。
玲治のそんな内心を知ってか知らずか、三鷹はスマホの画面を操作しながら、
「ま、別にいいんだけどよ。なんでかなーって、少し気になっただけだ。あと、あんま距離取られてると寂しいぞ、俺は。」
「……そっか。嫌な気分にさせてたなら悪い。」
「だから言ってんだろ、『別にいい』って。お前のペースで進めりゃいい、別に強要はしねーよ。」
「……ありがとうな。」
感謝の念を伝えると、三鷹はホットドッグを喉奥に押し込みながら『ブイ』のポーズをとった。
さて。
冷静さを取り戻し、サンドウィッチを食む玲治の脳裏には、何故か、華炸桐花の顔がよぎっていた。
三鷹はダークウェブと言っていたが、それが本当ならば、彼女はそんなアングラな話、どこで知ったのだろう。流行っていると言っていたが、三鷹のように、たまたま風の噂を耳にしたのだろうか。……いや、頭で引っかかっているのはソコじゃない。俺が気にしているのは、もっと別のところだ。
『三枝由香さんについて。彼女、最近変わったことはないかしら?』
『貴方、“マーブル”って知ってるかしら?』
『ダークウェブで取引されてる違法薬物なんじゃないかって噂があるんよ。』
「……いや、まさかな。」
妙にピースの穴が埋まっていくような、嫌な予感がした。が、しかし、栗栖は首を振って考えるのをやめた。
あの三枝に限って、そんな事はありえないだろう。それは半ば、言い聞かせる行為に近かった。栗栖は気を取り直して、サンドウィッチの残りを口に詰め込んだ。
――時は、刻一刻と、その歩みを進めてくる。
ソレは、徐々に蠢き始める。内から食い破るように、侵食してゆくように、ゆっくりと。しかし、確かな実感を以て。
その日の放課後のことだった。
玲治と三枝は約束の通り、フタバの店舗へと立ち寄っていた。
今季の新作はトリプルベリーミックスだという。酸味が強いのかと想像していたがそんな事はなく、むしろ舌が痺れそうなほどに甘かった。玲治にとっては苦手な部類だが、満悦な表情を浮かべてストローを吸う三枝を見て、まぁいいかと我慢して飲み切った。
そして、ふと思ったのだ。
「(……あれ?これ、放課後デートってやつじゃね?)」
栗栖玲治、齢十六の身体に衝撃が走る。
放課後デートだと……!それってあの、健全な男女が放課後に買い食いしながらするっていう、あれの事か……!?
人間とは愚かなもので、一度意識してしまうと冷静を欠いてしまう生き物なのである。玲治は焦りと緊張を悟られないよう、表面上は冷静を装いながら、空になった容器をゴミ箱へ優雅に放った。……が、カコンと外れた。
このドキドキは勘違いによるものなのか、はたまた糖分過剰摂取による高血糖によるものなのか。真偽はともかく、玲治は自分へ必死に言い聞かせた。
「(いやいやいや落ち着けよ俺!仮にも相手はあの三枝だぞ?それこそちっっっさい頃から知っていて、もはや兄妹みたいな、あの三枝だぞ!?)」
「ナイナイナイナイ!」と、心のときめきに全力で腕十字固めを決める。
繰り返すが、人間とは一度意識してしまうと、冷静を欠いてしまう悲しき生き物なのである。
否定しながらも、本心ではやや浮かれ気味の悲しき男子高校生に、傍らを歩く三枝はスマホを弄りながら告げた。……風に揺れる髪から、深い金木犀の香りを漂わせながら。
「新作美味しかったねぇ!また飲みたいね。」
「そ、そうか?俺には甘すぎてしんどかったかな。」
「そうかぁ……あ、ところで玲治。これ見てほしいんだけどさ、」
そう言うと、三枝はスマホの画面をこちらに提示しながら、腕を組んできた。……腕を組んできた!?
いやいや待てと、玲治は咄嗟に腕を引き剥がした。驚きの顔を浮かべている三枝に、玲治の中の違和感はいよいよ色濃くなってゆく。
「ちょっと待て、三枝。お前、本当に今日どうしたんだよ!」
「どうしたって……私はいつも通りだよ?」
「いつも通りな訳あるか!いつものお前なら、こんなこと――、」
そこまで言って、玲治の中で“ブレーキが掛かる”。それ以上深く踏み込むなという、心のブレーキが。
沈黙する玲治の様子に、三枝は困惑の表情を浮かべる。……いや、勘違いなんかじゃない。今日の三枝は、何かがおかしい。脳裏に渦巻くのは、華炸や三鷹の言葉。そして、“マーブル”という薬品のこと。
「……いや、なんでもない。急に突き放して悪かった。」
「う、ううん。いいんだよ、そういう時もあるよね。」
そう言うと、三枝はにへらと笑った。
疑念は深まるばかりだ。しかし、これ以上に玲治は踏み込めない。踏み込んではいけないと、これまでの自分が引き留めようとする。
そうこうしている内に、二人は道角へと足を運んでいた。ここからは、各々の帰路へ着くことになる。
「……じゃあ。また明日な、三枝。」
「あ、うん。またね玲治。また明日。」
それだけのやり取りを交え、各々の帰路に着く二人。
これでいい。これでいいのだ。この拭えない違和感と焦燥感には目を瞑ってしまおう。そうすればきっと、俺はまだ大丈夫。そう言い聞かせながら――、
――しかし。はた、と。栗栖はその歩みを止める。
後ろ髪を引かれるとは、こういう事を言うのだろうか。つんざく金切り音のような耳鳴りが煩い。眼を背けることに対して、胸でざわめく罪悪感が消えてくれない。
今日の三枝は見るからにおかしかった。あんな状態の彼女を、このまま放って帰宅させていいものだろうか。もっと踏み込んで、友人として、話だけでも聞いておくべきじゃないだろうか。このまま彼女を返してしまえば、俺はこの先一生、後悔するような予感がする。
脳裏に一瞬、ノイズのように、あの日の母さんの姿がよぎる。
「(……くそっ。なんで今、母さんの事を。)」
脚が竦む。まるで、何かに怯えるように。
内心躊躇いながら、玲治は掌をギュッと握りしめた――その瞬間だった。
“ドシャッ”と。
背後から、何かが地面に崩れ落ちるような音が響いた。
『魂が抜けたように気を失うんだってよ。』
「…………まさか、」
咄嗟に振り向き、三枝が消えた曲がり角へ飛び込もうとする。……が、玲治の脚は、そこでピタリと止まってしまう。
ここから先に踏み込めない。まるで心が、二つあるみたいだった。
栗栖玲治という人間は、極力、他者との関りを持ちたがらない人間である。
人見知り、面倒臭がり、とよく言われる。しかしその真は、全く違うところにある。三鷹の言うように、無意識のうちに自分の中で“一線”を設けているのだ。それは何故か。
至極簡単な話だ。『一度それを知ってしまったが最後。情が移ってしまい、最後まで、深く関わらざるを得なくなる。』――つまるところ、栗栖玲治は極度のお人好しなのだ。
故に彼は、栗栖玲治は自問する。
「(本当に行くのか……?この脚を前に進めたら最後だ。あいつがどんな問題を抱えていようとも、俺は、俺が最後まで関わることを辞められなくなる。もう、見て見ぬ振りなんて出来なくなっちまう。……それでも本当に、行くのか?それで俺は、後悔しないか?)」
……否。その答えは、既に俺の中で出ていた。踏み込んだ結果、苦悩することはあるだろう。だがきっと、後悔することはない。むしろここで目を背けたら、それこそ俺は心底後悔するだろう。それは他ならぬ、彼自身が知っている事だった。
故に、少年は脚を踏み出した。そして、曲がり角を思い切り飛び出した。
“――正解だよ、相棒。”
頭の中で、声がした。
瞬間、『ビリリッ』と。うなじに電流が駆け抜ける。
曲がり角を飛び出した彼の視界に映ったのは、口から泡を噴いて、地面に倒れ伏している幼馴染の姿であった。
「……三枝ッ!」
幼馴染の名を叫び、玲治は慌てて駆け寄る。彼女のそばに誰かが居た気がするが、今は気にしている余裕などなかった。
視界いっぱいに、幼馴染の姿が映し出される。倒れている彼女に意識はなく、口角から白い泡を零している。それを見て、玲治はそっと、その場に屈む。
さっきからズキンズキンと頭が痛い。早まる鼓動が、耳元で煩かった。次第に呼吸が浅くなり、手が小刻みに震えだす。
また、声がする。
“落ち着けよ玲治。……この嬢ちゃんはまだ、間に合う。”
さっきから誰なんだ、お前は……?声が響くたびに、頭痛が鋭くなってゆく。
“俺が誰かなんて、今はどうだっていい。嬢ちゃんを救いたいってんなら、今から俺の言う通りにしろ。”
「……分かった。俺は、どうすればいい?」
“まずは左手で、テメェのネックレスを握れ。……そう、そうだ。そして右手で、嬢ちゃんの額に触れろ。”
声の指示に従い、玲治は胸元のネックレスを固く握りしめる。気のせいか、ネックレスを握る手が仄かに熱を持つ。次いで玲治は、震える右手を、そっと三枝の額に伸ばした。……誰かが話しかけてくるが、しかしその声は、今の玲治の耳には届かない。
今はただ、この声に従う。
“んじゃぁ、いっちょ暴れてやるか。なぁ、相棒!”
指先が額に触れた、その瞬間。玲治の視界が急激に狭まった。
玲治は思わず、瞼を固く閉じる。そしてゆっくり開くと、栗栖玲治の身体は、瑠璃色に輝く空間を落ちていた。
落ち征く彼の傍らには、見知らぬ一人の少女の姿があった。
金髪の彼女はこちらと目を合わせると、白い歯を見せて笑った。
その日、その瞬間。栗栖玲治は『ダイバー』として目覚めた。
2025/08/11 大幅な加筆と修正を行いました。