9話『E.M.P』
「まま、二人とも座って座って!散らかっていて申し訳ないね。」
少女――佐伯幸奈は、書籍や書類が山積みになったテーブルの上を、小さな手で横に払う。重い音を立てて床に崩れるソレを見た桐花は、椅子に腰かけながらため息を吐いた。
「……佐伯さん。前に、少しは片付けてくださいって言いましたよね。確か所長にも注意されていた筈ですけど。」
その目は怒りを通り越して、心底呆れていた。どうやら日常茶判事らしい。玲治は頬を引きつらせながら、椅子に座った。
部屋の散らかりようを指摘された佐伯は、誤魔化すように笑った。
「アッハハ、多少散らかってる方が集中できるから、これでいいんだよ。それに、何処に何が置いてあるかはちゃんと覚えてるしね!」
「そういう問題じゃないでしょう。ここ職場ですよ、一応……。」
言いながら、桐花はため息を吐く。「足の踏み場もない」とは、まさにこういう事を言うのだろう。
佐伯は手を叩くと、強引に話を切り替える。
「まま、そんな小言は終わりにして!本題に入ろうじゃないか。……ズバリ、栗栖玲治くん。キミについての話さ!」
グイッと、テーブルから身を乗り出した佐伯は、呆気に取られている玲治へと迫る。鼻先同士が触れそうになり、思わず仰け反ってしまった。
佐伯は目を爛々と輝かせながら、食い気味に言葉を続ける。
「キミ、『トワ』の自然発生をさせたってのは本当かい?いやそれよりも気になるのは、『E.M.P』を使わず『イド』に潜れるという噂の真偽!一体どうやってやるんだい?今からちょっと、お姉さんに色々と確かめさせ――ぐぇッ、」
矢継ぎ早に問いかける少女に、玲治はただただ圧倒させられるだけである。……と、佐伯の襟を、傍らに立つ男性がぐいっと掴み寄せた。彼はため息を吐き、彼女の勢いに圧倒させられている玲治に向けて、深々と謝罪した。
「済まないね。主任は興味関心があることになると、少々見境がなくなる節がある。あぁ自己紹介が遅れたね。僕の名前は太田志信だ。……主任、彼らがここへ来たのは、貴女の知的好奇心を満たすためじゃぁないでしょう?」
「いやでもだね、キミだって興味はあるだろう?補助装置なしに『イド』に潜れる存在なんて記録にもない。特異中の特異だよ。そんな彼の事を、アタシは隅から隅まで確かめ――、」
「……主任。」
「あ、分かった。分かったからその目はやめてくれ。志信クンの怒った顔は怖くて苦手なんだ。」
「そりゃ怒ってますから。」と、痩せこけた男性――太田志信は小さく息を吐くと、手に掴んでいた白衣の襟元を手離した。
そのやり取りに、玲治はただただ呆気に取られるばかりであった。これまでの短い人生、様々なタイプの人間と出会い言葉を交わしてきたが、彼女のようなタイプの人間は初めてかもしれない。
間抜けな表情をしている玲治に、隣に座る桐花はコソッと告げた。その表情には既に疲労の色が見えている。
「気を悪くしないで頂戴ね。見ての通り、彼女、少し変わり者なのよ。」
「……なんとなく把握した。」
これは少し関わるだけでも相当疲れそうな人だな。そう思う玲治の脳裏で、ツムグは“おもしれー姉ちゃん。”とケタケタ笑っている。
佐伯はコホンと咳払いすると、仕方ないと言いたげに肩を竦めた。
「まぁキミについては、後日追々聞かせておくれ。……それで?栗栖クンの『E.M.P』についてだったかい?」
ようやく本題に入り、玲治は背筋をピンと伸ばした。
「あ、はい。作ってもらえるって話っすよね。」
「勿論。それも開発・研究部門の仕事だからね。じゃあチャチャっと済ませちゃおうか。キミ、ちょっとコッチに来たまえよ。」
佐伯は椅子から飛び降りると、てくてくと部屋の奥へと進んでゆく。玲治も立ち上がり、地面を引き摺る白衣の裾を追う。やがて二人の前に現れたのは、玲治の背丈よりも小さな機械だった。
これは何かの計測器だろうか。心電図のような小さなモニターと、本体の左右から伸びている細いコード。コードの端にはそれぞれ、ハンドグリップのような装置が接続されていた。背面からもコードが伸びており、そちらは向かいのパソコンに接続されている様子。
玲治は機械を指さし、傍らの佐伯に質問する。
「えっと。なんすか、これ。」
「これはね、キミの精神力の最大値と最小値を計測し、そこから平均出力を予想し割り出す機械さ。まぁ血圧測定器と似たようなもんとでも言えば、少しは分かり易いかね。キミみたいな初めましての人は勿論、他のダイバーも定期的に計測して貰ってるんだ。」
説明を受けながら、二対のハンドグリップを手渡される。一見プラスチックか何かだと思っていたが、握ってみるとゴムのような感触。グニグニとして、ひんやり冷たい。
佐伯がパチンと機械のスイッチを入れる。向かいのパソコンでは、太田が気怠そうにキーボードを操作していた。
「計測中はバチバチバチッて痛みが走るけど、まぁなんか、こう。うまいこと耐えてね。」
「んな雑な……。それに痛みって一体なにを、」
「じゃ志信クン、やっちゃってー!」
そう叫んだ瞬間、ハンドグリップを握る手に強い電流が走る。まるで掌の毛細血管を無理やりに広げられたように、ズグンと激痛が駆け抜ける。咄嗟に手を離そうとするが、しかし電流によって筋肉が硬直してしまい、そもそもハンドグリップを手放すことが出来ない。
迸る電流は手先だけに留まらず、腕、肩、胸元へと駆け巡る。全身の筋肉が激しい緩急を繰り返し、ビクビクンッと細かな痙攣を起こしていた。
「あばばばばあばばあっばっばっばばばば、」
「あ、手は離しちゃだめだからね~。まぁ離せやしないだろうけど。」
佐伯はモニターを観察しながら、淡々とそんな事を言ってくる。
モニターに表示される数字が、一桁二桁とぐんぐん加算されてゆく。確かに血圧計みたいだなぁ……なんて悠長に思っていられるほどの余裕は、今の彼にはなかった。
しかも通電時間が長い。体感一〇分間、玲治はただただ電流を流され続けた。……実際には一〇秒にも満たない時間だが、玲治にとってはそれすらも永く感じた。
頬を涙で濡らしながら痙攣を繰り返す玲治に、ツムグは腹を抱えて笑っていた。
「(無理無理無理ッッッ!なんだこれなんだこれ、痛い痛い痛いッッッ!!!!!)」
“ははっ。おいおい頑張れよ。ホレもっと気ばっばばばっばば、あばばばばっあばっ!?”
脳裏で笑い転げていたツムグにも、数刻遅れて電流が走る。
研究室の一角で、電流を一身に浴びせかけられる二人。……その様子を遠方から眺めていた桐花は「……南無三。」と目を伏せて合掌した。
電流に晒されること、約三〇秒。「ッピー!」という機械音と共に、通電が止まった。
ハンドグリップを手放した玲治の身体はくらりとよろめき、徐々に後ろへ倒れてゆく。いよいよ地面に倒れるというその瞬間、「はいはいお疲れさま~!」と佐伯はすかさず椅子を差し込み、ボフンと座らせた。
「キツかったろうに、よく耐えたね。はいはいご苦労さま。」
「……え、マジですか?今後もまたコレやるってマジなんです?」
「マジなんだ。本当に申し訳ない。」
モニター下部から、細長い紙がゆっくりと排出される。それを千切った佐伯は、印字された数字をみて興味深そうな反応を示した。パソコンから離れた太田もそれを覗き「……ほぉ。」と感嘆の声をあげる。
興奮した佐伯は、椅子の背もたれに沈み込んでいる玲治の肩をバシバシと叩いた。
「キミ、中々タフガイだねぇ!最大一三六リビドに最小四二リビド、平均出力予想は七八リビドか!」
「……り、リビド?なんずか、それ゛。」
「要はスタミナもパワーがあるって事さね!他の人は大体、六二リビドくらいだから、平均値以上って事だね。あ~でも、ピーク値と最小値にかなり開きがあるね。それに波長に乱れも見られる。これだと精神力を注ぐときにノイズが走って、射出が安定しなくなるかな。」
「主任、それならアレ使えばいいんじゃないですかね。昨日オーストラリア本部から最新のパーツが届いていたでしょう。ほらあの、ノイズ除去してくれるっていうヤツ。」
「そんなのもあったね。もし仮にアレを使うとなると……、」
やいのやいのと盛り上がる研究者二人を傍目に、少年はぐったりと椅子に沈み込んでいた。佐伯はそんな彼の手を掴むと、ぐいぐいと引っ張った。
「ほら栗栖クン!へばってないで次いくよ、次!」
「ま、まだ何かあるんすか……。」
「当たり前だろう?キミの命を預ける武器を作ろうっていうんだ、情報は多いに越したことはないさ!」
そう言って連れられたのは、研究室に隣接する射撃場のような部屋だった。
手前にはこれまた小ぶりな機械が設置されていた。だが今度はモニターがない。薄暗い部屋の最奥には、木板で作られたであろう人型の的が置かれていた。
何処から持ってきたのか、佐伯は小さなプラグを機械に接続する。プラグから伸びるコードの先には、拳銃のようなものが接続されていた。彼女はそれを、満身創痍の玲治に手渡す。
「今度は実戦を想定した、より正確な出力計測をするよ。ホラ、あそこに的が見えるだろう?あれを『イドの怪物』だと思って、その拳銃に精神力を込めるんだ。いいかい、撃ち抜くつもりで込めるんだよ?」
「…………これ、ビリビリきたりしません?」
「アッハハ、大丈夫!大丈夫!さっきみたいにはならないよ。キミは確か、華炸クンの『E.M.P』を使ったことがあるんだろう?なら精神力装填の手順説明は不要だね。あの時の感覚を思い出してやってごらん。……あ、一発だけでいいからね。」
ハツラツと説明する佐伯を尻目に、太田が機械のスイッチを入れ、横のつまみを捻った。「ま、頑張って。」と玲治の肩を軽く叩くと、先ほどのパソコンの前に戻ってゆく。
「『思い出して』って言われてもなぁ……。」
あの時は無我夢中で、感覚で撃っていたので詳細は覚えていない。玲治は顔を曇らせながら、とりあえず拳銃を構えてみる。
「(ええっと、どんな感じだったかな。あの時は確か、こう……、)」
ゆっくりと呼吸を整え、全神経を研ぎ澄ませる。視線を、目前の的一点に集中させる。
イメージは『蛇口』だ。自分の心を貯水槽として、腕をパイプ管に、掌を蛇口に見立てる。蛇口から注がれる精神力を、拳銃という器に注いでゆく。
拳銃を握る手が、じんわりと熱を帯びてゆく。……そう、そうだ。確かこの感覚だ。
「(けど、まだ足りない。この程度じゃ、あの木偶人形を撃ち抜くことは出来なかった。)」
もっと、もっとだ。あの木偶人形を撃ち抜けるほどの精神力を、拳銃に込めろ。
「キィィィィ……ン」と、耳元で音が反響する。蛇口をまた捻り、放出する水を更に多く。
――気のせいか。胸元のネックレスが、淡い光を纏った気がした。
「(もっと、もっと…………今ッ!)」
うなじに電流が走る。――その瞬間、玲治はトリガーを引いた。
静寂が、射撃場を包む。それを破ったのは、隣室から顔を覗かせた太田だった。
「……主任、ちょっと。あと栗栖くん。できれば今の調子で、あと三、四回出来るかな。もっと参照データが欲しい。」
「え、あはい。分かりました。」
そうして玲治は、同じ要領で、拳銃に四発分の精神力を込めた。
玲治は構えを解くと、膝に手をついた。額に汗が滲み、喉奥で鉄の味がする。
やってみて分かったことだが、心象世界である『イド』と現実世界とでは、精神力を練り上げる難易度が桁違いだ。例えるなら、陸上と水中でそれぞれ持久走をしろと言われているようなものだ。この場合は水中が現実で、陸上が『イド』となる。
まぁともかく、現実では集中力と精神力の消耗がとにかく激しくなる、ということだ。
「こ、こんなもんでいいっすかね……。」
肩で息をしながら、玲治は研究室に顔を出す。そこには、パソコンのモニターを険しい顔で見つめている研究員二人の姿があった。彼らはモニターを指さしながら、ブツブツと何かを言っている。
「主任。貴女ならこの波形、どう見ます?」
「うーん。さっきは唯の波長の乱れだと思っていたんだけれど、どうやら少し違うようだね。特にここ……精神弾が打ち出される瞬間。それまで一定値を保っていた精神力が、急激に跳ね上がっている。これじゃあ暴発してしまうよ。今までいろんなダイバーの波長を見てきたつもりだけど、こういったものは今まで初めてだ。……志信クン、君はどうだい。アタシよりもこの世界の歴が長いんだろう?」
「いや、自分もこのパターンは初見です。そもそもこんなこと、現実にあり得るんですか?」
「あり得るも何も、現にいまこうやってあり得てしまっているんだ。そこを疑っても何も始まらないだろう?」
そんなやり取りを交わしている二人をよそに、玲治はよろよろと桐花の座るテーブルに戻ると、どかりと椅子に座り込んだ。
ずっと待ってくれていたのだろうか。桐花は労いの言葉をかけた。
「栗栖くん、お疲れ様。はいこれ、自販機で買ってきたの。好きな方を選んで頂戴。」
そうして差し出されたのは、お茶とミネラルウォーターだった。感謝の言葉とともに、玲治はミネラルウォーターを受け取る。じっとりと熱を帯びた掌が、ペットボトルの結露で急速に冷やされていくのを感じる。
ペットボトルを開け、乾ききった喉を潤すと、玲治は深いため息を吐いた。
「あーしんど。……桐花もしかして、こんなしんどい事を毎回やってんのか?」
「二か月に一回程度にね。精神力や波長は都度変わっていくものだから、その度にチューニングし直す必要があるのよ。」
「うへぇマジか。……もしかしてまた、あのビリビリもやるのか?」
「そうね。……ふふ、そんな顔しないで。いまは辛く感じても、じきに慣れてくるわ。」
微笑む桐花に、玲治は一瞬胸が高鳴った。……いやドキッてなんだよ、ドキッて。
ツムグが “おいおい春の到来はまだ先だぜ?ひゅーひゅー。” と茶化してくる。煩いなコイツ。
視線のやり場に困っていると、話し合いを終えたのか、佐伯と太田がゆっくりと歩み寄ってきた。
「やぁやぁ栗栖クンお疲れ様!計測はこれで終了だ、よく頑張ってくれたね!」
「『E.M.P』を作るのに必要なデータは取れた。……が、君のは少々特殊みたいでね。より詳細に解析してから製作にあたりたい。遅くはなってしまうが、三日ほど待ってくれるかい?」
申し訳なさそうに告げる太田に対し、玲治は勿論と頷く。むしろ三日程度で仕上がるというのが驚きである。
佐伯は「それじゃあ最後にアレかな。」と、研究室の片隅に積まれた段ボールから、何かを取り出した。覗き込むと、それは三枚のパネルだった。それぞれが橙色、茶色、赤色をしている。彼女はそれをテーブルに並べた。
「これは『E.M.P』のグリップ部に付けるパネルだ。今は在庫の関係上この三色しかなくてね。申し訳ないけど、この中から好きな色を選んでくれ。」
「え、それって自分色にカスタムできるって事ですか!?」
「あぁそうだ。自分専用の色ってのはロマンだろう?」
煽るようにニヤリと微笑む佐伯。玲治は心の中でガッツポーズし、ツムグの手を掴みハイタッチした。
先ほどまでの疲労感なんて何処へやら。「ロマン……?」と小首を傾げる桐花をよそに、玲治は佐伯と固い握手を交わした。
しかし好きな色……好きな色、か。僅か三色だけだが、しかしそれでも悩ましい。
「佐伯さん、『E.M.P』って何色なんですか?」
「君たちに標準配備される拳銃型は、銀色の銃身だね。」
拳銃型ってことは、他にも種類があるのか?まぁその話はまたの機会にでも。
それなら、渋さが際立つ茶色が王道だろと手を伸ばし――はたと、その手が止まった。そういえば「超絶勇気キズナマン」は赤いカラーリングだったな、なんて考えが過る。チラリと、隣の赤いパネルを見る。
沈黙し、悩んだ末、やがて彼が手に取ったのは……。選んだそれを受け取った佐伯は、玲治を見てニヤリと笑った。
「赤を選んだか。実にキミらしい色じゃないか。」
「俺らしいって……まだ俺の事、そんな知らないでしょうに。」
「アッハハ、確かにそうだね!でもね、この仕事をしてると分かるんだよ。精神の波長から、その人がどんな人間なのかが見えてくる。その人の『軸』が視えてくる。だからアタシは、この色は非常にキミらしいと思うよ。」
なるほどと、玲治は彼女に渡した赤色のパネルを見る。そう言われてみると確かに、この色は自分らしいなと思い始めてしまう。人の心理とは、なんとも不思議なものである。
「三日後にまた開発・研究部門に顔出してよ。それまでには、なんとか間に合わせるようにはするからさ。」
それからなんやかんやあって、あっという間に三日が過ぎ去った。
約束の通り、玲治は『開発・研究部門』へ訪れていた。相も変わらず、手書きの看板に目がいく。いま思えば、多分あの主任の少女が殴り書きしたのだろう。
扉をノックし、ドアノブに手をかける。
「栗栖玲治です。入りますよー……。」
そっと扉を開けて中を伺うと、今にも息絶えそうな屍たちが倒れていた。
太田志信は痩せこけていた頬が更に落ち窪み、口から泡を噴いて倒れている。右側を見れば書類が積み重なって山となっており、そこには埋もれるようにして気を失っている佐伯幸奈の姿が。
“ってあの嬢ちゃん、窒息してねぇか!?”
「う、うわぁぁぁぁあ!?」
玲治は慌てて駆け寄ると、書類の山を払い除け、白目を剥いている少女の肩を激しく揺らした。
「ちょ、佐伯さんしっかり!太田さんも、二人とも何があったんスか!?」
「あっはは、安心したまえよ……リビドの出力が安定供給されるようにピーマンがカニカマだから……。」
「なんて!?いや二人ともしっかりしてくださいよ!とりあえず水!水か!?」
“玲治殴れ!殴っときゃ何とかなる!”
「んな昭和の家電じゃねぇんだから!ちょっと黙っててくれません!?」
聞けばこの三日間、二人とも食わず眠らずの生活を送っていたのだという。
佐伯は栄養ドリンクと水を飲み干すと、膝を叩いて笑った。その目尻には濃いクマが浮き出ていた。
「いやぁ~参ったね!君の『E.M.P』製作、思いのほか難航しちゃってねぇ~。」
「……いやなんか、俺のせいですんませんです本当に。」
「いやね、キミが謝る事じゃないさ。アタシらとしてもこういうのは、いい経験値になるからね。志信クンなんて大喜びだったよ。」
言いながら、幸奈は研究室の奥……仮眠室に視線を送った。
仮眠室のベッドでは、玲治によって運び込まれた太田が気を失うように熟睡している。時折、呻き声のような寝言がここまで聞こえてくるが、本当か?本当に喜んでいたか?
この様子だとおそらくは、まだ『E.M.P』は完成していないのだろう。
それを聞いた佐伯はあっけらかんと、
「いや、もう出来てるとも。……なんだねその顔は。約束しただろう?『三日後には間に合わせる』って。佐伯さん嘘つかないよ。」
言いながら、佐伯は机の引き出しに手をかける。油紙に包まれたそれを取り出すと「はいよ。」と玲治に手渡した。受け止めた両手に、ズシリと重みが加わる。紙同士が擦れるたびに、機械油の匂いが鼻につく。
油紙をゆっくり開くと、そこには銀色の光沢を放つ拳銃があった。光沢を放つ銃身には『E.M.P』の文字が浮き彫られている。グリップ部分には、玲治が自分で選んだ赤いパネルがネジ止めされていた。試しに銃身をなぞってみると、ひんやりとした冷たさが指先に伝わる。
「ベレッタのM8045クーガーを元に製作したんだ。所長がクーガーの大ファンでね。なんでも昔のゲームで主人公たちが使っていたようなんだ。……といっても日本国内だと実銃の入手は難しいから、流通しているガスガンを元に、アタシらがより実銃に近づけたモデルなんだけれども。勿論、射出機構と弾倉は取り除いてある。その代わりにグリップ内部に感圧式精神感受装置を埋め込んでいてね。加えて……、」
スイッチが入ったのか熱弁し始める佐伯だったが、しかし彼女の声は玲治の耳を素通りしていった。彼の意識は、目の前の拳銃に吸い寄せられていた。
本当なら「俺専用の武器だヤッター!!」と叫びたいところだったが。しかし拳銃の重みは、彼の浮かれた気持ちを振り払った。その重みは、彼に『非日常へと踏み込んだ事実』を改めて実感させる。
『アリス・クライシス』について知った俺は、固く決心した筈だった。母さんの墓前に、決意をより強固にした筈だった。
だがその決意は、こんなにも簡単に揺らいでしまう。今更ながらに躊躇ってしまう。
それはきっと、未知の世界へ踏み込むことへの恐怖だろうか。
それはきっと、自身の命を危険に晒すことへの恐怖だろうか。
「ちょっと栗栖クン!聞いているのかい?」
「……あ、ああ。聞いてるよ。」
咄嗟に返事したものだから、つい敬語が抜けてしまう。だがその変化に、寝不足の彼女は気付かない。
「ならいいんだ。キミの場合、精神の波長が他のダイバーと違って特殊だったからね。皆のように調整したんじゃあ精神弾なんて満足に撃てたもんじゃない。下手すれば暴発してしまうよ。だからキミの『E.M.P』に限り、特殊なパーツで組ませてもらった。イヤホンのノイズキャンセリングみたいなものかな。注がれる精神力から不要な雑音を取り除き、同じ周波数に調律し直す機能を…………、」
再び語りだす佐伯をよそに、玲治の意識は、再び手元の拳銃に向けられていた。
あの日――三枝の『イド』に潜った日、俺は後悔しないと言った。それに嘘偽りはない。
だがこのまま進めば、俺はこの道を選んだことを酷く後悔してしまうのではないか?
冷や汗が額に滲み、油紙を持つ手が湿ってくる。
「やっぱりコレ、要らないです。」という言葉が、喉から出そうになる。
――ふと、そんな彼の視界に、グリップ部の赤いパネルが入った。キズナマンと同じ色の、赤いパネル。俺らしいと言われた、赤いパネルが。
連想されるのは、走馬灯の中でキズナマンに言われた言葉。
思い出すのは、結晶に呑まれゆく遊園地。
――揺れ動いていた心が、ピタリと止まった。
確かに、自分の常識の範疇にないものは怖い。
確かに、自分が死ぬかもしれない状況は怖い。
だがそんなものより、もっと怖いものがある事を、栗栖玲治は知っている。
「(……それよりも、助けられた筈の人を助けられない事が、俺は一番怖い。)」
佐伯のうんちくを聞き流しながら、玲治は『E.M.P』を固く握った。もう、躊躇いは消えていた。
「(後戻り出来なくったっていい。あの日、踏み込むって決めたんだ。)」
正式にフロイト機関に加入し、『E.M.P』も手に入れた。
それまで平穏な日常を過ごしてきた少年が、非日常へと踏み入った瞬間である。