8話『ある夏休みの一幕』
「あ゛っづい゛……!」
八月初旬。本格的な夏の到来に、栗栖玲治は悲鳴を上げていた。
蝉の音がサイレンの如く鳴り響き、地平には陽炎が立ち上っている。景色はいつもより強い色彩を放ち、照り付ける日差しは地表をじりじりと焼き焦がす。吹きぬける風は、噎せ返るほどの熱を帯びていた。
茹だるような真夏の昼時。まるで幽霊のようにフラフラと、少年は一人、路上を彷徨っていた。
「駄目だコレ、焼け死ぬ……後頭部が煮え滾ってじぬ゛……ッ!」
気象予報アプリによれば、今日の最高気温は四〇度。この地域では今年最高気温を更新しただろうか。「不要な外出は控えるように」なんて言われるほどの今日、何故彼は学生服に身を包み、こうして外出しているのか。
――結論から言ってしまえば、夏季講習である。
栗栖玲治という少年は、そこまで頭の出来が良い方ではない。体育などの実習系科目は問題ないのだが、こと座学においては全くだった。小テストを受けるたびに赤点を量産し、夏休み前の試験でも案の定赤点ばかり。なんて体たらくだろうと自身でも思う。
そんな彼が必要単位を満たしている訳がなく。不足分の単位を補うために、彼の夏休み日程の半分が補講で埋まっている。今日はその折り返しという訳であった。
勿論、いまや時代は進んでネットワーク社会。こんな連日猛暑が続く中、先生方もいちいち外出したくはないだろう。それに下手に外出しては生徒の命も危うい。……という事で、今年からはオンラインでの受講が推奨されていた。
しかし諸々家庭の事情によっては、それも難しい生徒だっているだろう。
玲治もその一人である。……いや正しくは『なってしまった』だろうか。
「くっそ。パソコンさえ燃えなきゃなぁ……。」
“いやぁ、あれは流石に俺もビビったわ。”
揺れる地平を忌々しく睨む玲治と、それに同調するツムグ。
それは昨夜の事だった。
暑さで中々寝付けないからと、玲治はノートパソコンでネットサーフィンをしていた。最初こそよかったが、徐々にファンの音が煩くなってゆく。「どしたんでしょうね?」なんて呑気に首を傾けながら、麦茶と氷をお代わりしに台所へ。――コップに氷を落とし入れたその瞬間、勉強机から爆発音が轟いた。
『なんだ、なんだ!?』
慌てて駆けつけると、そこには轟々と火を噴くノートパソコンが。
……鎮火した後に調べてみると、どうやらバッテリーの著しい劣化と接続部の漏電によるものらしい。近年はバッテリーの爆発事故が多発してよく騒がれているが、よもや自分がその当事者になる日がこようとは。なんとも恐ろしや、恐ろしや。机の天板が焦げただけで済んだのは、不幸中の幸いだろう。
スマートフォンでオンライン授業を受ける事も検討したが、なにせ使っているのが古い機種だ。圧倒的に性能が足りない。
そんなこんなで代わりのパソコンが手に入るまでの間、彼も『通学組』となった。
“いやでもよ?日がな一日引き籠ってるよりかは、健康的でいいんじゃねぇか?”
「馬鹿言え。こんな猛暑に晒され続けたら、健康以前に死ぬんですわ……。~~あぁもう無理!一旦撤退ッ!退散!」
玲治は叫びながら、近くの書店へ逃げるように駆け込んだ。
自動ドアが開いた瞬間、冷風が脇腹を吹き抜けた。汗で全身が湿っているのも相まって、鳥肌が立つほどに冷たく感じる。
「あ゛ぁ゛~、生き返る゛ぅ~。」
少年は満面の笑みを浮かべ、次いで腕時計を見る。補講が始まるまで、まだ時間に余裕がある。汗が引くまでの間、しばらく避難させてもらうとしよう。……避難ついでに、なにか面白そうな漫画がないか探してみるとしよう。
玲治は漫画コーナーを探し、そそくさと立ち寄る。そういえば読んでいる漫画の最新刊が出る頃だったなと思い出し、新刊コーナーを覗いてみる。
……と、そこには見知った顔がいた。神妙な面持ちで本棚を睨んでいる少年は、玲治の数少ない友人の一人、三鷹圭吾であった。
三鷹はこちらの視線に気づくと、驚いたように眉をあげた。
「お?なんだ、玲治じゃねぇか。」
「おっす三鷹、偶然だな。こんな所で何してんだ?」
玲治がそう尋ねると、三鷹は「ほれ。」と、左手に掴んだカゴを掲げる。そこには数種類の漫画とライトノベルが入っていた。見た限り、いずれも第一巻のみである。
三鷹圭吾という男は、その外観にそぐわぬサブカル好きである。聞くに中学の頃からその界隈の『沼』にハマったらしく、以来はラノベ、漫画、アニメ、ゲームと守備範囲を徐々に拡張させているらしい。
「今日暇しててな。いい機会だから、こうして新規開拓してるって訳よ。……そういうお前も、こんな所で何してんだ?今日は補講じゃなかったけ。」
「そうだけど、あまりにも暑いんで避難中。」
「なる。……ちなみに玲治、お前が読んでる漫画ってどれよ。」
と、少年二人は漫画談議を始めた。書店なので他の客に迷惑がかからないように、あくまで小声で。
「そういや風の噂で聞いたんだけどよ。例のサイト、急に跡形もなく閉鎖されたんだと。」
お互い自由に本棚を眺めていると、三鷹は突然そう切り出した。
玲治は顔を上げると、怪訝な顔をした。
「なんだよ、藪から棒に。例のサイト?」
「ほれ、前に話しただろ。“マーブル”ってやつ。」
「あー……」と、玲治は曖昧な相槌を打った。色々と知ってしまった今、果たしてその話題に触れてもいいものなのかどうか。
……いや待て。いま「サイトが閉鎖された」と言ったか?それはつまり、“マーブル”に関連する一連の騒動に、終止符が打たれたと解釈していいのだろうか。
尋ねると、三鷹は「いんや。」と首を横に振った。
「ありゃ多分、そう遠くないうちにアドレスを変えて復活すんだろ。聞いてる感じ、あの手の闇市は現れては消えてを繰り返しているっぽいし。」
「……前々から気になってたんだけどさ。お前、なんでそんなに詳しいワケ?やっぱりやってる?」
「んな訳ねぇだろ。……いやほら、怖いもの見たさってあるだろ。自分から手を出すつもりはねぇ。けどつい気になって情報を追っちまうつうか。そんな感じ。」
三鷹は苦笑しながらそう告げる。まぁその感覚なら分からなくもない。ホラー映画とか夏の特集とか、見たくないのについ見てしまう。あれと似た感覚なのだろう。
……それはそうと、サイトの閉鎖か。一応、フロイト機関に報告しておいた方がいいのだろうか。
そんな事を考えている間に、先に漫画の選別を終えた三鷹は「んじゃ、俺はそろそろ行くわ。」と去っていった。去り行くその背中に軽く手を振ると、玲治は本棚に視線を戻す。
背後から、女子学生二人組の会話が聞こえてきた。
「ねね。この後さ、例の公園でテックチョックの撮影しない?」
「えー暑いから嫌なんだけど……。」
「そう言わずにさぁ。帰りにフタバ奢るから!お願い!」
なんとも他愛もない会話だ。
しかし玲治はその会話から、数日前――フロイト機関での、高木との会話を連想した。
「――ところで栗栖くん。私はまだ、君のもう一つの質問に答えていなかったね。」
必要書類へ筆を走らせている玲治に、高木優作はコーヒーを飲みながら問いかけた。確かに俺はまだ、もう一つの問いに答えてもらっていない。
何故、彼らは『アリス・クライシス』の事を覚えているのだろうか。あの日の事を記憶している人間なんて、これまで見たことも聞いたこともないというのに。
玲治が問うと、高木は小さく頷いた。
「君の言う通り、『アリス・クライシス』についての記憶は、みなの記憶から消えてしまっている。……いや、消えているというより『改竄』と言うべきかな。都合のいいように、みなの記憶が捻じ曲げられている。どうしてこうなっているのかは未だ解っていないが、私たちフロイト機関は、これについて二つの仮説を立てているよ。」
言いながら、高木は人差し指と中指を立てた。
一つは、結晶体から発せられる『磁場』のようなものの影響。
『イド』が膨れ上がって生じたあの結晶体は、云わば『人の心』そのもの。言ってしまえば現実世界への侵食だ。それが現実になんらかの影響を及ぼしたとしても不思議ではない。今回はただ記憶改竄という形で現れた、という説。
二つは、敵対組織『イドラ』による人為的な精神干渉。
結晶体が膨れ上がった『イド』そのものであり、それが現実に影響を及ぼすというのであれば、それは他者の『イド』と共鳴を起こすのでは?という考えから生まれた説だ。その性質を人為的に悪用し、都合のいいように記憶改竄を行った、という話だ。
「どちらも、あくまで机上論でしかないけれどね。どちらの説もあり得ると、私は考えているよ。」
「なるほど……?いやでも、それじゃあ、俺や高木さんたちが記憶を持っている理由は?」
「私たちが記憶の改竄を受けなかった理由は、おそらくは『トワ』という防衛機構が働いている結果なのだと推測しているよ。あの結晶体も『トワ』も、どちらも発生源は同じ『イド』だ。お互いがお互いに反発し合った結果、記憶改竄が相殺されたのだろう。……あくまで希望的観測の域を出ないけれどね。」
なるほど?分かったような、分からないような……。玲治は小さく首を傾けた。
要するにツムグ達『トワ』が結晶体の影響を打ち消している。だから俺たちだけが『アリス・クライシス』の記憶を持ち続けている、という事だろうか。
いやしかし待てよと、玲治の中に疑問が浮かぶ。もし仮に『『トワ』が防衛機構として機能している』という説が正しいのなら、当時まだツムグを目覚めさせていなかった俺が、こうして記憶を持ち続けているというのは、少々可笑しくはないだろうか。
書き終わった書類を手渡しながら尋ねると、高木はしばし考え、
「君の場合はおそらく、そのネックレスの影響だろうね。」
言いながら、玲治の首元で輝いているネックレスを指さした。
玲治は掌でネックレスを転がす。光に反射して、瑠璃色の結晶は中央を七色に輝かせている。
「と言っても、私も詳しくは知らないんだがね。君のお母さん曰く、そのネックレスに埋め込まれている結晶は特殊な代物なんだそうだ。それが、記憶改竄から君を護ってくれたんじゃないかな。……あの日、なぜ彼女がそれを君に託したのか。その思惑までは与り知らない。だがきっと彼女は我が身よりも、君を護ることに重きを置いたんじゃないかな。」
チャリッ、と。玲治の首元で、ネックレスが音を立てて揺れる。
玲治は数冊の漫画本を持ってレジに向かうと、そそくさと会計を済ませ、リュックに詰め込む。背中を濡らしていた汗は、冷房のおかげかすっかり乾いていた。
自動ドアを潜ると、全身に熱波が襲い掛かった。日差しは更にその強さを増し、街並みは目が眩むほどに輝いている。玲治はうんざりと目を細めると、腕時計を見た。時刻は一二時三〇分。……まだ時間に余裕はありそうだ。
「……っし。ま、無理せずにゆっくり行きますか。」
息を吐いて腹を括ると、照り付ける猛暑の中へと飛び出した。
さて。待ちに待っている訳でもない、補講の時間である。
補講の項目は全部で「国語、数学、理科、社会、英語」五科目に分かれている。厳密には理科が生物学と物理学に、社会が歴史と地理に分かれているので計七科目だろうか。
玲治はこのうち数学と英語が壊滅的なので、そちらを重点的に攻めていく話になっている。
本日の科目は英語。玲治が最も苦手とする科目である。
そして案の定、彼は頭を抱えていた。
というのもこの少年、英語は基礎すらままならないのである。
「(5W1Hに当てはめれば簡単って言われたけど、そもそも5W1Hってなんだ……!?いやそれ以前に英単語が読めねぇ。文法以前の問題だろコレ……!)」
差し出されたプリントを前に、少年は絶望していた。記載されている英文全てが、蠢くミミズか暗号のように見える。そもそも俺が読める英単語なんて「Apple」や「Pencil」なんていう初歩的なものだけだ。接続詞?形容詞?副詞?……んなもん知らんわい。
オンライン授業ならばネットで調べながら難なくこなせたが、通学となればそんな小細工はできない。
降参である。お手上げである。俺の負けである。
「先生!ヘルプです、助けてください!」
「栗栖ぅ!またお前かぁ!!」
本日何度目かの挙手をする玲治と、これまた何度目かの雄叫びを上げる英語教師、大田原。大田原は面倒臭そうに歩み寄ると、まじまじと玲治の机を覗く。その真っ白なプリントを見て、心底うんざりした表情を浮かべた。
「……一応聞いてやるが。お前、何が分からないんだ?」
「手始めに、まずは5W1Hから教えていただきとう御座います。」
「そこからか?栗栖お前、マジで言ってるのか。中学一年の範囲だぞそれ。」
「いやぁ、はは。中学の頃は色々ありまして……すっぽ抜けてるんすよね。へへへ……。」
「……。分かった。おさらいがてら、先生が一から教えよう。」
気怠そうに、しかし子どもを見守るように温かい眼差しを向けてくる大田原。この様子だと多分、オンライン授業でズルしていたのも勘付かれたのだろう。
手近な椅子を引っ張ってくると、大田原はそこに腰かける。
「いいか、まず基礎の部分な。5W1Hってのは、『What、Who、When、Where、Why、How』だ。英語圏の疑問形ってのは、大体がこれを基本として構成されている。日本語だってそうだろ?」
「はい、仰る通りです。」
「例えば「When is the deadline for this report?」とか「How do you come to school?」とかは5W1Hを活用した例だな。そんな風に」
「…………レポ……スク……、なんて??」
「お前、本当よく高校受験に受かったな??」
そうしてその日の補講授業は、英語の基礎勉強に費やされた。玲治専用に夏のカリキュラムを組みなおす宣言をされ、英語科目に限り、栗栖玲治にはオンライン授業禁止令が出されてしまった。
日が傾きはじめ、蝉の音も小さくなりつつある頃。
本日の補講も無事に終えた玲治は、昇降口で靴を履き替えようとしていた。
今日は我ながら本当に酷かった。なにせこちらが問いかける回数より、あちらがため息を吐く回数の方が多いときたもんだ。おまけにオンライン授業でズルをしていた事を激しく問い詰められた。
自業自得とはいえ散々な思いをした少年の顔は、げっそりと痩せこけていた。
“頭の回転は速いくせして、それ以外はてんで駄目なのな。”
「いやほんと、なんも言い返せねぇっす……。」
つま先をトントンと叩きながら、下駄箱に上履きを仕舞う。
昇降口を出て地面を踏みしめると、咽るほどに籠った熱気が玲治を襲った。直射日光はもうそれほどではないが、しかし地面に溜まった熱が昇るせいで、とんでもない事になっていた。
額と背中に一瞬で汗が滲む。うんざりしながら校門を出ると、懐に仕舞ったスマホが鳴り響いた。
取り出して画面を見ると、「華炸桐花」の文字が。彼女とはフロイト機関への加入手続きをした後、連絡先を交換していた。
受電をタップし、耳元へ。
「はいもしもし。どした?」
『玲治くんね。急なのだけれど、このあと時間あるかしら。出来れば遅くまで。』
「この後?……まぁ一応、空いてはいるけど。」
『じゃあちょっと、フロイト機関まで来てくれないかしら。社員証が出来たから、貴方に渡したいのよ。』
「社員証?あぁ分かった。いま学校帰りだから、一旦帰って着替えたら行くわ。」
「分かったわ。じゃあ、二時間後に。……社員証がないと一人で入れないから、外で待ってるわね。」
プツンと、通話が切れた。
玲治はスマホを仕舞うと、小さく息を吐いた。このあとはリサイクルショップに立ち寄って、中古パソコンでも品定めしようかと思っていたのだが……。まぁ幸いにも明日は土曜日で補講もない。パソコンは明日でもいいだろう。
どこからか、鈴虫の美しい音色が聞こえてくる。その音色を楽しみながら、地面に伸びる影を追いかけるように、一時帰路に着くのだった。
シャワーで汗を流して私服に着替えた玲治は、電車に揺られること三〇分。フロイト機関――またの名を「有限会社 高木建設」の社用ビル前に来ていた。
「……お、居た居た。おーい桐花!」
桐花の姿を目視した玲治は、呼びかけながら駆け寄った。
ビルの自動ドア前に佇む桐花は、オレンジを基調としたレースのワンピースを着ていた。彼女はこちらに気付くと、ふるふるとこちらに手を振った。
「栗栖くん、お疲れ様。急に呼び出して悪いわね。……早速だけれど、はい。これ。」
言いながら彼女は、手にしていたカードを差し出した。そこには玲治の顔写真と「フロイト機関『心象干渉部門』所属 栗栖玲治」の文字が印字されている。
「それが貴方の社員証よ。フロイト機関の各部屋へ入退出する際に必要になるから、紛失しないようにね。」
「はいよ。」
「あと電子マネー決済機能が付いてるわ。その社員証で支払えば、提携企業で社割も利くわよ。例えば、そうね……。すぐそこのカフェやフラワーショップでは最大二〇%の割引がついたり。あとは裏に印字されているQRコードをスマホで読み込めば、それで有給の申請が出来たり……、」
「思ったよりも多機能なんですね!?」
流石はデジタル社会だなぁと、玲治は意味もなく社員証を裏返したり表にしたりする。
その様子を見ながら、桐花は口を開いた。
「……さて、それじゃあ行きましょうか。」
「え、どこに?」
「『開発・研究部門』へよ。貴方を呼んだのは、何も社員証を渡す為だけじゃないの。その辺の詳しい話は、移動しながらするわ。」
「着いてきて。」と自動ドアを潜り、エレベーターに乗り込む桐花。玲治も後を追うようにエレベーターに乗り込む。
彼女が押したのは地下二階。ゆっくりとエレベーターが下がっていく中、桐花は口を開いた。
「栗栖くん貴方、『E.M.P』のことは覚えているかしら。」
「ああ、『イド』で使う武器だろ?あとは何だっけか……ダイブするための補助装置も兼ねてんだっけ。」
「そうよ。あれはフロイト機関所属のダイバー全員に支給されている物。貴方の分も造らなければいけないから、今日はその為のチューニングをするわ。」
「チューニング……?」
戸惑いがちな問いに、桐花は小さく頷いた。
桐花曰く、フロイト機関『心象干渉部門』の面々――ダイバーには、各個人ごとに最適化された『E.M.P』が支給されるらしい。
「何故そんな手間を」と思ったが、その理由は個人の精神力の差異によるものだとか。その人が持ち得る精神力や波長、出力はダイバー毎に異なる。故にそれぞれの特性に合わせた一点モノを作製するらしい。
玲治は三枝の『イド』に潜った時のことを思い出す。
そういえばあの時は桐花の『E.M.P』を借りたが、その際に「私用にチューニングされている」なんて言っていた気がする。もしかして異常に疲弊したのも、拳銃と俺の波長が適していなかったから、なのだろうか。
「(――いや待てよ。この状況、まさか。)」
冷静に納得する傍ら、栗栖玲治は自分の中で何かが揺れ動くのを感じた。
いや、『何か』なんてわざわざぼかす必要はない。栗栖玲治は既に、その感情の正体を知っているのだから。
「(――まさか、『俺専用の武器』ってやつが手に入るんですか!?)」
自分用に調整が施された、自分にしか扱えない一点モノの武器。
男の子なら誰しもが一度は憧れるその甘美な響きに、齢一六の少年は、心躍らせずにはいられなかった。
浮かれ気味にある少年の気持ちなんてつゆ知らず、エレベーターの扉が開く。
エレベーターを降りて最初に感じたのは『独特な匂い』だった。
病院のアルコール臭に近いが、しかしあれほどくどくはない。どちらかといえばフローラルな、爽やかな部類の香りだ。
エレベーター正面から廊下の端まで、巨大な窓ガラスが張り巡らされている。窓の向こう側には、用途不明の機械が所狭しと並んでいた。空想上の研究施設をそのまま持ってきたようなその光景に、玲治の少年心がさらに刺激される。こんなもん、もうロマンの塊だろうが……!
あくまでも表面上は平静を装う玲治に、桐花は語り掛ける。
「さ、こっちよ。」
桐花に案内されたのは、エレベーターから向かって右奥手前。白い扉の前であった。
これはマジックペンだろうか?手書きで『開発・研究部門』と書かれた看板が、なんとも印象深い。桐花は扉を数回ノックすると「失礼します。」と一言告げて入室した。
入室すると、奇妙な匂いは更に濃くなった。しかし不思議と不快感はない。むしろ鼻孔から指先にかけて、スーッと抜けていくような感覚を覚える。
ここは研究室だろうか。床やテーブルに積まれた大量の書物や、床に散らばった書類などで雑多としていた。壁面には無数の紙が貼りつけられており、何やらペンで殴り書きされている。
桐花は部屋の様子を一瞥すると、
「佐伯さん、居ませんか?」
と声を大にして叫ぶ。
その声に応じて、部屋の最奥からぬるりと人影が現れた。
白衣を身に纏った、背の高い瘦せ型の男性だった。顎髭は伸ばし放題で頬は痩せこけ、目の下には深いクマが現れている。彼が、桐花の呼んだ『佐伯』という人物だろうか。
男性は桐花を見て、次いで俺を見ると「……あぁ!」と目を見開いた。
「君が栗栖くんか。噂には聞いているよ。いやどうもどうも、初めまして。……ちょっと待っておくれよ。そもそも主任がいなきゃ話にならん。」
そう言うと、彼は「主任―!件の栗栖くんが来ましたよー!」と叫ぶ。叫びながら、積まれた段ボールの中から本棚の裏まで、部屋の隅々まで探す。
「いやそんな所に居ないでしょう。」なんて軽く笑っていると、背後に積まれた書物の山が、突如として大きく崩れた。
「ヒュ……!?」
咄嗟に振り向くと、そこには小さな女性……いや少女が立っていた。
オレンジブラウンの長い髪と、頭頂部で一つ結びにした前髪が特徴的な少女だった。外見年齢は若く、まだ中学生だと言われても疑う人はほぼ居ないだろう。先の男性同様に目の下のクマが深く、身に着けている白衣は身の丈に合っていない。
彼女は「よいしょ……」と書類の山から足を引き抜くと、軽快に笑った。
「アッハハ!いやいや、すまんね二人とも!いつのまにか、書類の山の中で寝ていたみたいだ!」
笑いながら、彼女は玲治と桐花の間を抜けていく。彼女が歩くたびに白衣の裾が床を擦り、埃やら書類やらが巻き込まれていった。そんな様子などまるで気にしていないのか、少女はそのまま「よっこらせ。」と椅子によじ登った。
椅子に座った少女は、机に肩肘を立てると歯を見せて笑った。
「桐花はお疲れ様、君は初めまして!アタシは佐伯幸奈。開発・研究部門の主任を任されているものさ!」