1話『華炸桐花』
“平穏”なんて永遠には続かない。
“終わり”は音もなく、突然に。
それは、ある冷えた冬の日のことだ。
まだ薄暗い道場は、冬の凍てつく寒気に満ちていた。
私の手が悴んでいるのは、窓の隙間から差し込む冷風のせいだろうか。
私の吐息が白く濁っているのは、この乾いた空気のせいだろうか。
刀身を伝い、足元に水滴が滴る。ぽたり、ぽたりと滴り落ちるソレは、母の愛用する口紅のように赤かった。
先までは純白であった道着と袴は、今や真紅に染まっていた。噎せ返るほどの鉄の臭いが、鼻孔まで立ち上ってくる。
「………………、」
茫然と立ち尽くす私の足元から前方へと、血痕が伸びている。おずおずと視線を向けると、そこには先刻まで人だったものが倒れ伏していた。彼の様相は、まるで弾けた水風船のようであった。
その人は、私がかつて「師」と呼び慕った人。
私がかつて「父」と呼び愛した人。
「…………、ぁ、」
私の口から辛うじて出たのは、掠れた呻き声だけ。
世界が遠のく。視界が狭まる。己で手を下したというのに、その事実を、現実を拒絶するかのように。
カチャン、と。朱色に悴んだ指先から、刀が零れ落ちた。
よくよく冷えた、粉雪が舞い落ちる冬の日。
私――華炸桐花は、実の父を殺めていた。
※ ※ ※
「死んだ方がマシ」という表現があるが、それはきっと、今のような気分を指すのだろう。
“……か…。……桐花殿。起きて。”
遠くから、私の名を呼ぶ声が聞こえる。
鬱陶しそうに重い瞼を開くと、視界いっぱいに、外界の光が飛び込んできた。まず目についたのは白い天井と、天井のレールから垂れた水色無地のカーテン。視線を下げると、茶褐色の毛布が見える。
なんだかとても、嫌な夢を見たような気がする。毛布を剥いで起き上がろうとするも、しかし身体が思うように動かない。まるで四肢に鉛でも括り付けたようだった。
私は視線だけで周りを見渡した。……ここは、学校の保健室だろうか。
「……あ、気付いた?」
全身の不快感に顔をしかめている私に声がかかる。そちらを見ると、一人の少女の姿があった。
丸眼鏡とそばかすが特徴的な少女である。それ以外に特出すべき点はなく、強いて言うなら制服には皺一つない、「真面目そう」という第一印象を受ける少女だ。
無理やりに上体を起こそうとする私を、少女は「待って待って!動かないで!」と制した。
「なにか大きな怪我してるかもだから、先生が戻るまでは安静にしてて?」
「わ、分かったわ……。」
両肩をぐいぐいと押されながら、私はベッドに戻った。
……彼女は、誰だったろうか。胸元に縫い込まれた刺繍から同学年だと推測できるが、しかし誰かまでは思い出せない。その姿は確かに見覚えはあるのだが……。
“桐花殿……。その子は三枝由香殿だよ。”
あぁそうだ、三枝由香。同じクラスの女生徒、三枝由香だ。脳裏の声が、小さくため息を吐くのが聞こえた。
私はどうにも、人を覚えるのが昔から苦手だ。よほど衝撃的なエピソードでもない限り、顔と名前を一致させるのに相当の時間を要するのだ。
毛布に包まっている私は、首だけを三枝の方へと向けた。
「……えっと、ごめんなさい。三枝さんに聞きたいのだけれど、なんで私は、保健室のベッドで寝ているのかしら。」
「え、覚えてないの?華炸さん、体育の授業中に突然倒れたんだよ。なにかあったんじゃないかって、大騒ぎになったんだから!」
三枝曰く、皆でバレーをしていたのだが、どうも私の様子がおかしかったらしい。心ここに在らずと言うべきか、満身創痍とでも言うべきか。疑問に感じた次の瞬間、私は床に卒倒したのだという。保健室へは三枝さんと、体育教師の葛城先生が運び込んでくれたらしい。
「怪我はない?どこか痛むところは?」
「いえ、大丈夫よ。……そう。私、倒れたのね。」
三枝の説明を受けて、徐々に記憶が蘇ってきた。ああそうだ、確かにあの時の私は寝不足で意識が朦朧としていた。所用による連日の徹夜が祟り、仮眠を取らなければ今すぐにでも事切れてしまいかねない程に。こうして実際に意識が途切れたわけだが。
「(これは流石に、処遇改善を訴えかけないといけないわね……。)」
まぁ働きかけたところで、現状の諸問題が解決する事はないのだが。私は小さくため息を吐くと、傍らの椅子に座り直す三枝に微笑みかけた。
「三枝さんにも葛城先生にも迷惑をかけたわね。ごめんなさい。」
「いいのよ、それが保健委員である私の仕事だもの。いまは昼休みで時間もあるし、もうちょっと休んでいったらどうかな?」
「そうね……。それじゃあ、そうしようかしら。」
言うと私は寝返りを打った。保健の先生のこだわりだろうか、肌触りの良い上等な枕である。このまま身を委ねて、意識を再び落としてしまいたい。そんな欲求に駆られた瞬間、華炸桐花はその異変に気付いた。
細かく横揺れする三枝から、風に乗って香りが漂う。桐花にとっては嗅ぎ慣れた、深い金木犀の香りが。
桐花の目尻が、ぴくりと小さく震えた。
「(……香水?いやけれども、この嗅ぎ慣れた匂いは、まさか。)」
もぞりと、私は毛布の中で蠢いた。クラスメイトを疑いたくはないが、しかし僅かでも可能性があるのなら、芽は潰しておくべきだ。
私は瞼を開くと、三枝の方を見る。視線の先の少女は細かく横揺れしながら、手元でスマートフォンを弄っている。そんな彼女に、私は声をかけた。
「ねえ三枝さん。貴女って、まだ時間はあるかしら?」
「え、うん。どうしたの?」
「良ければ私の暇つぶしに付き合ってくれないかしら。例えば、そうね。世間話とか。特に私は流行に疎いから、知っていたら色々教えてほしいわ。」
「……うん、分かった。いいよぉ!」
にこりと三枝は微笑む。揺れる髪からまた、深い金木犀の香りが漂う。
それからの二人は、他愛無い会話を交わした。お互いが所属している部活動や趣味、休日の過ごし方。最近の流行りのファッションに、おすすめのご飯やさんのお話。最近の悩みの話。……端から見れば何気ない会話の応酬でしかないが、しかし桐花は三枝の一言一句、一挙手一投足に目を光らせていた。
「(この子、こんなに溌溂とした子だったかしら。)」
桐花と三枝の接点はあまりない。クラスメイトという一点を除けば、皆無と言ってもいいだろう。だが同じ教室で過ごしていれば嫌でも視界に入るし、他のクラスメイトから又聞きする事だってある。記憶が正しければ、彼女はもっと大人しい部類の生徒だった筈だ。
彼女が流行りのファッションやご飯の話なんかで盛り上がることはまずない。当たり障りない会話をそつなくこなし、常に一定の距離感を保ち続ける「真面目な模範生」だったと記憶している。
少なくとも、昨日までは。
いま目の前で軽快に笑いながら親しげに談笑している彼女は、まるで別人のように見える。拭いきれない違和感に、いよいよ私の中の疑念は大きくなっていった。
いっそのこと思い切って、コチラから切り出してみるか。そんな事を考えた矢先、三枝は手元のスマートフォンに視線を落とした。
「……そういえば華炸さんって『コレ』知ってる?」
たぷたぷと画面を操作すると、端末をこちらに差し出してきた。手に取って画面を見せてもらうと、そこにはとあるオンラインマーケットの一ページが表示されていた。“アイデリリウム”と表記された、水色と黄色のカプセル錠である。海外のサイトだろうか、価格が日本円ではなく米ドル表記だった。
桐花は顔を上げると、内心がバレないように笑顔を取り繕った。
「ごめんなさい、存じ上げないわ。コレ、何なのかしら。」
「最近流行りのビタミン剤なんだって。マーブル?っていうらしくて、飲むとたちまちに元気になるんだって!」
「へぇ、今はそんなものが流行っているのね。エナジードリンクみたいなものなのかしら。」
「多分ね。なんか華炸さん元気なさそうだし、良かったらどうかなって思ったんだけれど。」
「ふふ、検討してみるわね。……良ければこのURL、あとでメッセージで送ってくれない?」
あくまでにこやかに提案する桐花に、三枝は「いいよー。」と二つ返事をする。URLは思わぬ産物だが、まぁ良しとしよう。次いで私は、胸の内に秘めていた疑念を投げかけた。
「ところで三枝さん。貴女は、このサプリメントを使ったことはあるのかしら。」
「……ん、いやないよぉ。こんなものに頼らなくても、私はほら、見ての通り元気だし。」
言いながら、三枝は笑みを浮かべた。――尋ねられたその一瞬、視線を逸らしたのを桐花は見逃さなかった。
私は「……そう。」と返答しながら、スマホを三枝に返した。
「ありがと。……っと。そろそろ購買に行かないと、ご飯買いそびれちゃう。私はもう行くけど、華炸さんは保健の先生が戻ってくるまで、くれぐれも安静にね!」
そう言い残すと、三枝由香は「それじゃ、また後でね。」と保健室を後にした。
保健室に一人残された桐花は、すっと口角を緩めると、ため息を吐いた。
「……あの子、嘘が下手ね。分かり易くて、私としては助かるけれども。ミソギ。貴方はどう感じたかしら。」
誰もいない保健室で、私は虚空に向けて呼びかける。暫しの間を開けて、桐花の脳裏に声が響く。
“まぁ黒かなって感じ。桐花殿は?”
「同じく黒ね。匂いだけなら香水で誤魔化せたけれど、マーブルの販売サイトを知っている事と、あの反応は誤魔化せないわ。」
“だよねぇ。もしあれがサイトのスクリーンショットだっていうなら話は別だけど、見た感じそんな事はなかったし。URLも共有するって言ってたし。”
桐花は起き上がり、自身の手を開閉する。先までの気怠さはもう残っていない。私は毛布を剥ぐと、上履きを履いて、保健室を後にした。
お昼時だからか、廊下は生徒で溢れかえっている。これは好都合だ。
“で、どうするのさ。彼女まだ暴走していないみたいだし、こちらからはまだ干渉できないよ。”
「(とりあえずは、三枝由香についての聞き取り調査かしらね。URLの件はまだ、他人から教えられただけの可能性が高いわ。)」
疑惑は未だ疑惑のままだ。今は、より確信に近づけるための情報がいる。
「(ここ数日、三枝さんに変わったことはないかの情報を集める必要があるわ。)」
“じゃあ友人や知人に総当たりするわけだ。”
「(そういう事よ。)」
“アイデリリウム”。
“マーブル”という通称で馴染んでいるソレの正体は、ダークウェブ上で取引されている非合法薬物だ。出回っている従来の違法薬物と比べて高い高揚感と多幸感を得られる、かつ自意識をしっかり保てるという夢のような代物。
服用者からの証言によれば「まるで生まれ変わったような気分になれる」だそうだ。
その玩具のような配色とマーブルというキャッチーな通称から、ここ近年は若年層――特に女性の間で密かに流行っている。
しかしこの薬物、下手をすれば命に関わりかねない副作用を抱えている。
私――華炸桐花は高校生をしている傍ら、“マーブル”の流通経路を探り、取り締まる組織に属している。もしも三枝由香が“マーブル”に絡んでいるならば、なんとしてでも探りを入れなければならない。そしてもし服薬しているのであれば、彼女の命を護るための行動を起こさなければならない。
時は大きく進み、放課後。
肩にカバンを背負った桐花は、人気の少ない通路を歩いていた。周囲の風景を眺めながら、私は時折前方を一瞥する。遥か前方には一組の学生が、仲良く談笑しながら歩いていた。片方は三枝由香、そしてもう片方は彼女の幼馴染である少年。
結論から言ってしまえば、やはり三枝由香は「黒」だ。真っ黒ではないが、しかし限りなく黒に近いグレーと言った方がいいか。
やはり桐花の記憶している三枝由香と、周囲からの評価に相違はなかった。内向的な性格で、常に相手の顔色を伺うように過ごしている。誰に対しても等しく優しく、誰からも嫌われる事のない人物。「模範生」なんて言えば聞こえはいいが、しかし聞き取りをした殆どの生徒が、彼女の事をこう表現した。「彼女はお人好しで、臆病で、八方美人な気質」なのだと。
そんな彼女が、今日は随分と人が変わったようだと話していた。
目の前の二人が角を曲がる。桐花は駆け出すと、壁に背を預けた。深い金木犀の香りが、風に乗って鼻孔をくすぐる。
“マーブル“を服用した者に共通する点として『身体から深い金木犀の香りがする』というものがある。香水と言われればそれまでだが、少なくとも桐花は、ここまでの金木犀の香りを他に知らない。
二人の様子を物陰から観察していると、脳裏にミソギの声が響く。
“桐花殿、あの子ブレ始めている。多分、そろそろだ。”
「……分かっているわ。」
桐花は懐から自身のスマホを取り出すと、とある番号に電話をかける。三度の着信音の後に「はいはーい。」と気怠げな女性の声が聞こえてきた。
「桐花です。現在、“マーブル“の服用者と思われる人物を追跡しています。おそらくは黒です。至急、増援をお願いします。」
『増援?ちょーっと待ってね……。あー、ちょうど皆出張ってるっぽい。いま全員に通達出したけど……お、爆速で返信きた。えとね、早くても合流に四〇分は掛かるってさ。』
「それじゃあおそらく間に合いません!他に誰か居ないんですか?」
『んな事言われてもねぇ……。まだ座学研修中かつ戦闘経験無しのド新人くんなら居るけど、使う?』
「~~~~~ッ!じゃ、じゃあいいです。時間がありません。私が単独で対処します。」
言うと、相手の返事を待たずに通話を切った。やはり処遇改善云々以前の問題だ。事情を知っているから余計にやるせない。
スマホを仕舞った私は物陰から顔を出した。二人は今まさに、別々の道へと別れようとしていた。桐花は駆け出すと、三枝の進んだ道へと続く。
――瞬間。
曲がり角を抜けた瞬間、視線の先で、三枝由香の身体がぐらりと揺れた。まるで崩れ落ちるように、力なく地面に倒れゆく彼女を見て、私は叫びながら地面を蹴った。
「三枝さんッ!」
地面に頭が衝突する直前、桐花は咄嗟に膝を曲げて隙間に滑り込んだ。地面の凹凸が、白い膝を削る。激痛に唇を噛みながら、しかし桐花は三枝を呼びかける。
「三枝さん、しっかりして!」
返事はない。白目を剥いており、口角からは涎と泡が零れている。何度も頬を叩くが、目を覚ます様子はなかった。
“マーブル”の副作用。それは服用後二四時間が経過すると、重度の昏睡状態に陥るというものだ。一度昏睡状態に陥ったものは、何をしても、どんな医療行為を施しても目覚めることはない。
――ただ一つの方法を除いては。
「ミソギ、やるわよ!」
“はいよ!”
言うと、桐花はカバンに手を突っ込み、とあるものを掴んだ。取り出されたソレは、銀色の光沢を放つ拳銃だった。銃身には『E.M.P』という文字が浮き彫られている。
それは唯の銃ではない。他者の心に潜る転移装置の役割を備えた拳銃である。
私は拳銃のグリップを握ると、銃口を三枝の額に押し付けた。
“マーブル”には、もう一つの副作用がある。
それは、潜在意識と無意識が混在した心象世界を暴走させるというものだ。昏睡状態に陥った者は、暴走状態にある心象世界に意識を取り込まれてしまう。
心象世界に干渉して暴走を食い止め、取り込まれた服用者の意識を引っ張り出す。その力を有した者を、桐花たちは『ダイバー』と呼ぶ。
桐花はトリガーに指を引っかけるが、しかし引くのを躊躇われた。
他者の心象世界に干渉する。それはつまり、こちらも干渉されてなんらかの影響を受ける可能性があるという事だ。その影響を最小限にするために、普段は二人一組でダイブするのだが、今は悠長に増援を待っていられる状況ではない。
桐花は覚悟を決めると、指に力を入れ――、
「三枝ッ!!」
トリガーを引こうとした瞬間、背後から叫び声が聞こえた。
咄嗟に振り返るとそこには、つい先ほど帰路に着いたはずの少年の姿があった。額には脂汗がにじみ、両肩が激しく上下している。
彼は傍らに駆け寄ると、息を切らしながら、三枝の名を呼んだ。
「おい三枝、大丈夫か!?」
「キミ、何をしに来たの。邪魔しないで頂戴!」
「とりあえず救急車を、」と言いかけたその時、脳裏でミソギが制止した。
“待って桐花殿!――この男の子、今まさに目覚めようとしている。”
「――は、」
唖然とする桐花の目前で、少年はブツブツと小言を繰り返している。次いで右手を上げると、三枝由香の額にそっと指先を重ねた。
――瞬間。周囲の空気が『ピン』と張り詰めた。
「――――なっ、」
驚愕する桐花の背筋に、びりりと悪寒が走る。
私はこの感覚を知っている。それは、私が初めて『ダイバー』として目覚めたときの感覚。
空気が張り詰め、神経が研ぎ澄まされる感覚。
初めて他者の心象世界に潜った時に覚えた感覚だった。
「(いや、だとしても。そもそも彼は『E.M.P』を所持していない。所持している筈がない。)」
この拳銃がなければ、私たち『ダイバー』は心象世界にダイブ出来ない筈だ。
だというのに目の前の少年は、いま、三枝由香の心象世界に潜ろうとしている。
不可能を、可能にしようとしている。
「(……彼は、一体。)」
一体、何者なのか。
驚愕する桐花をよそに、彼は少女の心象世界へ潜る。
潜在意識と無意識が混在し、理性によって抑制された欲望や本能が跋扈する心象世界――『イド』へと。
2025/08/22 フルリメイクしました。