8. 誓約書
視点切り替えが分かりにくいとのご指摘をいただきましたので、視点が切り替わるところは▼▼▼▼▼で区切ります。
執務室に戻ってからも先ほど見たエレクシアの姿が頭から離れない。
美味しいものを食べて顔を綻ばせるエレクシア。
真剣に執務に取り組むエレクシア。
優しい表情で私を気遣うエレクシア。
今でもありありと思い浮かべることができるというのに。
もう二度と目の前で見ることはできないのだな……。
「………様。リチャード様。聞いておられますか?」
カールの言葉で現実に引き戻される。
「ああ、すまない。何だった?」
「………こちらが霞草と干物の取引についての引き継ぎ資料です」
やることが山積みのままの執務室で、カールが次々と仕事を追加していく。
「……はぁ。引き継ぎ資料がこんなに分厚いのか?」
「エレクシア様はその資料をたった1日で書き上げられたのです。読むだけならばその10分の1の時間で済むはずです」
カールが吐き捨てるように言う。
エレクシアに離縁を申し出てから、カールは私と必要以上に話すことを止めた。
しかも話す時は事務的で無表情。
カールが誰の味方なのか、嫌でも分かる。
それにしても……エレクシアはこの量の資料を1日で書き上げたのか。
本当に聡明な女性だ。
「…分かった。明日までに読んでおく。それで質問をまとめておけば問題ないか?」
「はい。それでは明日質問を取りに参ります。それから次は……」
「いや、待て待て。まだあるのか?」
「あるに決まっているでしょう。何日仕事を放棄したと思っているんですか?」
冷たく言い放つカールの正論に、ぐうの音も出ない。
「……それからこれは、グレイス様からの手紙です。エレクシア様宛に来たものですが、事情の説明はリチャード様からして欲しいとのことで、以前返信をお願いしたものです」
「……私に?頼まれた覚えはないぞ?」
「ハァ。そうでしょうね。上の空で全然人の話を聞いていなかったですからね」
「……すまない」
心底呆れたような顔でカールが私を見ている。
カールには私の心境などお見通しなのだろうな。
「…とにかく、それで返信がなかったので、グレイス様がエレクシア様を心配して、すぐに王都に来られると」
「ああ、そうか。………何だって!?」
母上が王都に来るだって!?
母上はエレクシアをかなり気に入っているんだ!
この状況を何と説明したものか……。
「……リチャード様。あなたは半年後にエレクシア様を追い出すおつもりなのですよ。今小細工したところで、どうせグレイス様にはいつか真実を話さなければならないのです。この機会に自分の口で説明なさいませ」
エレクシアを追い出す……。
その言葉が棘となり胸にチクリと刺さる。
「……母上はいつ来るんだ?」
「明日か明後日です」
「!?」
明日か明後日だと!?
それは…心の準備が…。
「今回はエレクシアに応対して…「なりません!」
「だよなぁ!分かった……」
ただでさえ屋敷内でも針の筵なんだ。
母上に知られたらどうなることか……。
「ちなみにロバート様もいらっしゃるそうですよ」
「何っ!?」
父上も一緒だと……?
これは…私の命、終わったかもしれん……。
「リチャード様、項垂れているところ申し訳ないですが、これが最優先事項です」
「まだあるのか……?」
「エレクシア様が、誓約書を急いで欲しいと」
……………誓約書だと?
「まさか……エレクシア様との約束を忘れたのですか?どこまでも最低な人ですね」
ぐはっ……カールの一撃が的確に急所を突いてくる。
「……すまない。恥を忍んで聞きたい。誓約書とは何のことだ?」
「……あなたがエレクシア様に突きつけた離縁の条件と、エレクシア様が追加した条件を誓約書にしたいという話です。後から条件が違うと言われたら困ると」
ぐっ……確かに、私がエレクシアの立場なら同じことを思うであろう。
だがなぜこんなに…誓約書と聞いて胸がズキズキするのだ?
誓約書など書きたくないと、心が叫んでいるようだ。
「どうせリチャード様のことですから、エレクシア様が提示した条件なんかもすべて忘れてしまっているのでしょう?私が草案を作っておきましたので、中身を見て問題がなければさっさとサインしてください」
カールがサッと書類を取り出す。
カールめ……無駄に準備がいい。
私は渋々それを受け取り、内容を確かめる。
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《誓約書》
甲をリチャード・サウザンヒル、乙をエレクシア・サウザンヒルとして、甲と乙は以下のことを誓約する。
①甲と乙は半年後に離縁すること。
②離縁までの半年間、甲と乙は夫婦としての関係を放棄すること。
③離縁までの半年間、甲と乙は一切顔を合わせないこと。やむを得ずやり取りが必要な場合は代理人を立てること。
④離縁までの半年間、乙は公爵夫人として一切の社交活動、家の管理、領地経営を放棄すること。なお、乙が関わる事業については全て甲に業務を移行する。
⑤離縁は全面的に甲の有責とすること。
⑥離縁後、甲は乙に一生食うに困らないだけの慰謝料を支払うこと。
⑦離縁後、乙が望むなら甲は乙に土地と屋敷を与えること。
⑧甲は離縁後の乙に出来るだけ瑕疵がつかないよう努力すること。
以上の項目に同意する。
甲:
乙:
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「んんっ。カール……。これは本当に私が提示した条件か…?」
「項目の③と④はエレクシア様が追加した条件ですが、それ以外は全てあの日リチャード様の口から発せられた条件です」
「…………」
こうやって実際に文章として見ると重みがすごいな…。
しかしエレクシアがこの誓約書を欲しがったということは、もう離縁後のことを考えているということだよな。
離縁を申し出た当人の私は未だにウジウジしているというのに、エレクシアはもう未来を見据えているのか……。
手が固まったように動かず、サインを躊躇ってチラッとカールを見遣ると「早くサインしろ」と急かすような視線を送ってくる。
「はぁ………」
私は観念して『甲』のところに震える文字でサインを書き入れ、カールに書類を渡す。
「………はい、承りました」
カールはサインの誤字脱字までしっかり確認してから書類を受け取ると、そのまま執務室を出て行った。
恐らくその足でエレクシアのところに向かうのだろう。
これは全て私が望んだことに対する結果なのだ。
それなのに、こんなに胸が痛むのは………。
◇◇◇
その次の日、無情にも父と母を乗せた馬車はやって来た。
「リチャード!エレクシアは?エレクシアはどこなの?やっぱり体調が悪いのかしら?」
母上は馬車を降りるなりまずエレクシアの心配をする。
エレクシアに会いに来たのだから当然ではあるのだろうが、あなたの息子はこの私なのだが。
「リチャード。なぜエレクシアが出迎えに来ない?」
父上は寡黙だが、実はエレクシアをよく気遣っていることに薄々勘付いてはいた。
だがまさかエレクシアの様子を知るためだけに用もないのに王都に来るなんて、私が思っていた以上に彼女を可愛がっていたようだ。
「…それは中でご説明させていただきます」
私は腹を括って2人を応接室へ案内した。
母上は屋敷の中の不穏な雰囲気に気がついたようで、ずっと怪訝な顔をしている。
「それで…どういうことなの?リチャード、ちゃんと説明しなさい」
「母上。実は……………」
▼▼▼▼▼
―――コンコンコン。
「エレクシア様、失礼いたします。遅くなりましたが、誓約書をお持ちいたしました」
「カール、ありがとう」
私はカールから誓約書を受け取り、内容を確認する。
「うん、問題ない。公爵様からサインを頂けたのね、良かったわ」
ペンを握り、誓約書にサインをする。
これで、私たちの離縁は誓約された。
とりあえずは一段落ね。
「今日は早めに仕事を終えて戻られたようです。グレイス様のご訪問についてもちゃんとお伝えしておりますので安心してください」
カールは一礼して部屋を出て行く。
私は一人になった部屋で、前公爵夫妻との思い出を振り返る。
1年半前に私が公爵家に嫁いできた時、前公爵夫人のグレイス様は私に公爵夫人としての知識や振る舞い、業務までありとあらゆることを教えてくださった。
社交慣れしていない私をあちこち連れ出して引き立ててくださり、いつも可愛いと、自慢の娘だと褒めてくださった。
前公爵のロバート様は口数の少ない方だったけれども、公爵邸で私が不自由していないか、いつも気を配ってくださる温かい方だった。
私たちの結婚生活が安定したとして半年前にリチャード様に爵位を譲り、お二人は公爵領に隠居されたのだ。
まさか半年後にこのような不甲斐ない結果になるだなんて、恩を仇で返すようなものね。
優しいお二人のことだから、きっと新しい奥様のことも可愛がってくださるはずだわ。
明日か明後日、前公爵夫妻が公爵邸を訪れる。
もしお会いできなくても感謝の気持ちだけは伝えられるように、私はレターセットを取り出した。
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