十五、恋しい
もうひと月、この街では、雨が降り続いている。
白い空に所狭しと立ち並ぶ灰色の楼閣は、雨霧に烟る。
薄ら冷える煉瓦造の屋敷の中、黑は琴線を爪弾いていた。昔、都から遠い地に左遷された官吏が、雨の降る山河を眺めながら弾いた望郷の曲だという。
「この曲によく似合う景色だ」
すっかり女遊びから足を洗った父は、窓辺で満足気に頷き、曲に合わせて即興で自作した詩などを詠み始め、手元の紙に書き留める。
母を失ってすぐの頃は、心の穴を埋めるため諸国への行商に女遊びに励んだ父だが、新しい母と結婚してから所帯じみて、娘の教育に熱心になり、琴など習わせ始めた。今まで大陸の至る都市、果ては騎馬民族の都まで馬車で連れ回した娘に、今度は家で本を読み、美しい字を書き、裁縫や琴を学べと言う。
琴を弾くのが嫌いなわけではなかったが、算盤を弾いて帳簿をつける方が黑の性に合っていた。しかし、昔は丁稚代わりになると黑に計算をさせていた父だが、最近は黑が商人の真似事をすると、それより名家の子弟に釣り合う技を身につけろと言って、余りいい顔をしない。
更に煩わしいのは、黑が十五になった頃から、父は彼女を旗人や名門の家の宴に連れて行ったり、その子弟たちと会わせたりすることだ。黑はいつも途中で姿をくらまし、一人で屋敷に帰ってしまった。父はその度説教を始めるが、いつも新しい母が黑を庇ってくれた。新しい母は優しく、暖かな人だった。黑が間違ったことをすれば穏やかに諭し、彼女が女子らしくない学問や商業に秀でていることを誇らしいと言ってくれた。
「皇帝が女子の世ですよ。あの人は何に怒っているのやら」
琴を弾き終わった後、黑は母の待つ茶室に入った。雨音が響く中、母が茶の花を咲かせながら言う。黑は無言で花を見つめていたが、心の中では全くその通りだと思っていた。母は黑に茶をすすめ、自分もその隣に座って、茶を啜りながら言う。
「誓って、自分の心に背いては駄目ですよ。人生の道はいつも、決して引き返せないのですから」
母は優しい瞳で、しかし力強く黑に語りかけた。女ながらにして三度離婚をし、四度目の結婚を果たした彼女が言うと、説得力がある。父が四人目の元夫にならないことを願いつつ、黑は彼女の瞳を見つめ返し、こくりと頷いた。
次の日も、雨は降り続いていた。
眠たい家庭教師の授業を聞き、古代の教えが書かれた本を捲りながら、黑は窓の外を盗み見る。
雨が降ると、遠くの友人を思い出す。
教師の朗読をよそに、黑は頭の中で算盤を弾いた。あの遠い街に行くには、路銀が足りない。前回は渋々馬車を出してくれた昔馴染みの付き人も、帰ってきた後、父にこっぴどく黑ともども叱られたし、今度は手を貸してくれないだろう。また、母に頼って、父との関係を悪くさせ、あのいい人を失いたくない。自分で稼ぐしかないのだ。
会いたい、はやく
雨音と教師の嗄れた声が響く中、黑は船を漕ぎながら、穏やかな眼差しを思い出していた。