十四、春のころ
ある日、黑が一人で店に来た。辺りを見渡しても、父親も付き人もいない。
黑は先日十四になったと言った。出会った頃は朱の腰ほどしかなかった背丈は、肩まで並んできた。小さい頃から人形のような顔立ちだったが、成長しても綺麗な容貌の黑は、客の視線も集めている。
朱はさり気なく人目につきにくい裏手に黑を連れて行き、少し屈んで、真っ直ぐ少女の目を見つめ、努めて優しい声で諭した。
「そろそろ…。ここは、年頃の君が来るところじゃない。妓女と勘違いされて危ない目に合ってしまうかも」
今まで、いずれ来なくなるだろうと言わなかったが、朱ははじめから黑は青楼に来るべきではないと思っていた。
「朱は外に出られるの?」
人の話を聞かない子だ。
黑は忠告を無視して朱に問いかけてきた。黒い大きな目は、全く揺らがず、朱を見上げている。
「休日は自由があるよ」
ため息をついてから、朱は質問に答える。説得は後にしよう。流されやすい男は、骨の折れる仕事を先回しにした。
「劇を見に行きたいの」
「友達といったら?」
黑は朱と一緒に劇を見に行きたいらしい。しかし、それにはもっとふさわしい人選があるだろうと、朱は尋ねた。
「いない」
黑は抑揚のない声で即答した。
悲しいことを言うが、各地を転々とする商人の娘だ、無理もない。朱は、特に寂しげでもない黑を少し可哀想に思った。
「ごめん、俺はお客さんとは外には…」
しかし、もう7歳の娘ではない黑と遊ぶのは黑に不名誉な噂が立つかもしれないし、店の規則…としてはあってないようなものだが、朱の信条にも反する。朱が眉を下げて断ろうとした時、頭上から声がした。楼閣の4階の屋根に、2つの人影がある。
「朱大哥!うまい饅頭屋できたから行こうぜ」
「早く、売り切れる」
間が悪い友人が来た、朱は額を押さえた。猿のように身軽な二人の少年と少女は、楼閣の屋根から飛び降りる。黑は珍奇な二人組を丸くした目で、無言で見ている。朱の側に来たところで、黑の存在に気づいた皇子は、とぼけた顔で言った。
「あれ、とり込み中?じゃあ、また今度にしよ」
もう一人の少女は何も言わず、朱と黑を一瞥した。二人はまた軽やかに屋根を伝い、遠くへ去っていった。
嵐か。
朱は二人が消えた方向から、黑に視線を戻す。
「…」
黑の唇は閉じているが、嘘つきと目が言っている。
「かわいい子」
黑がぼそっと呟いた。皇子と一緒にいた、桃花のことだろうか。確かに見た目は可愛い娘だが、中身は武人、いや拳法狂いの仙人である。朱にしてみれば、黑の方が可愛らしい友人だ。
黑がどこか傷ついて見えたので、朱は反射的に口を開いていた。
「黑もかわいいよ」
朱が柔らかく微笑んで言うと、黑は目を瞬かせた。黑は頬を赤くすることもなく、暫く無言の後、小さい声で尋ねた。
「どうして」
どうしてあの二人とは外に遊びに行って、黑は駄目かということだろう。朱は黑の言葉の意味を推測して、答える。
「…男妓と一緒に歩いてるなんて、君の評判に傷がつく。さっきの二人は特殊なんだ。」
方や皇子、方や仙人の弟子。前者は風聞を気にすべきだが、向こうから来るので最早朱の知るところではない。
「私も、評判なんて、気にしない…」
黒は俯いた。無表情のままだが、唇がきつく結ばれて、朱には彼女が泣きそうに見える。黑はそれ以上何も言わないが、小さい肩が震えて見えたのは、朱の気の所為だろうか。
「ちょうど、今日は休みだし……花街の中の劇場なら、一緒に行くよ」
嗚呼、悲しき職業病。朱はすぐに折れてしまった。
黑はパッと顔を上げた。笑顔ではなかったが、漆黒の瞳には光が宿っていた。
娯楽で溢れる花街の中には、何軒か劇場もある。外から客が押し寄せる大劇場もあるが、朱は目立たない小さな劇場に行くことを提案した。
朱は帽子と眼鏡をかぶり、黑が離れないよう腕を組んで花街の通りを歩く。青楼や酒楼、銭湯が立ち並ぶ往来には、将棋や麻雀に耽る人々、客引きする妓女や妓男、彼らを値踏みする貴賤の客たち、歩き売りする商人や芸人、そして虚ろな目で煙草や薬を吸う痩せこけた者たちが溢れる。黑の方を見てニヤニヤと笑う輩も何人か居り、黑は全く気にしていない様子だが、朱は彼女を隠したかった。
商人の令嬢が一人で歩くところではないのに、黑は店まで一人で来たらしい。あの父親は全く何をしているのか。
朱は少し怒りを覚えていた。
そのうち、やや古い劇場に辿り着いた。開幕してすぐだというので、二人は観客席に入り、木の椅子に座って、舞台を見る。
劇は、人間に恋した女神と、神々の戦いの話だった。悲恋より戦いの話が主だったが、勇猛果敢に戦う女神の演舞を、黑は興味深げに見ている。朱は劇にはあまり興味がなかったので、微々たる変化を見せる黑の表情を観察していた。暗がりの中、舞台を照らす明かりが反射していたからか、いつも光に乏しい瞳は、爛々と輝いている。珍しく楽しげに見える黑に、朱の口元は、自然と緩んだ。
閉幕後、大勢の観客が女形に駆け寄っていたが、黑も朱も役者に懸想はしていなかったので、二人は劇場を出て、花街の中にあった例の饅頭屋に寄った。先刻の二人の話を聞いて、黑も気になったらしい。
だいぶ長い列に並んだが、運良くぎりぎりで饅頭が手に入った。列に並んでいた人々の悲喜の声が五月蝿い通りで、二人は長椅子に腰掛け、桃の饅頭を口にする。
「美味しい」
ほかほかの饅頭を頬張りながら、朱は感想を述べる。黑も小さな口で饅頭を齧り、こくりと頷いた。
「眼鏡、曇ってる」
饅頭を食べながら、朱の方を見た黑はそう言って、黒縁の無骨な眼鏡を外した。朱はあたりを見渡したが、人々は饅頭に夢中で、二人のことは視界に入っていなさそうだ。
「帽子もあるし、まあいいか」
それ程有名人なわけでもないし、逆に怪しくて余計な視線を集めたかもしれない。朱はそのまま素顔で、黑の横で饅頭を食べた。
「今日は、ありがとう」
夕方、楼閣が橙色に染まる刻、二人は花街の門の前で別れる。別れ際、朱は黑に礼を言われた。
「こちらこそ。楽しかった」
朱は黑に、にこりと微笑む。
あの二人に振り回されるのも楽しくはあるが、黑と過ごした今日は、落ち着きながらも、なんだか心が安らぐ一日だった。
黑はしばらく朱の顔を見つめた後、ぽつりと呟いた。
「お父さん、新しいお母さんを迎えたの。だからお店に行かなくなった」
「そうなの。よかったね」
店には打撃だが、家族には喜ばしいだろうと思い、朱は祝福するが、黑は苦い顔をしている。新しいお母さんにいじめられているのかと朱が聞くと、首を振った。
「また、一人で会いに来てもいい?お金も払うから」
朱を見上げて尋ねる黑の瞳には、不安の色があった。
「友達なんだから、お金はいらないよ」
数刻前の説教を忘れ、朱は黑の指先を手に取って微笑む。黑は安心したように、僅かに口角を上げた。
いつの間にか来ていた付き人が引く馬車に乗り、黑はまたどこかの地へ帰って行った。
黑と朱が花街を周ってから何月か経った頃、都に評判の劇団が来た。店総出で、客も男妓、娼妓たちも宮殿の庭まで劇を見に行くことになり、朱も当然客に付き添った。夜、松明の明かりに照らされる役者たち、池に咲く睡蓮、雅な音楽は幻想的で、夢の中のような世界だった。朱たちは用意された椅子に座りながら、舞台を眺める。傍らの得意客に手を握られたまま、朱はぼんやり役者の演技を見つつ、黑との一日を思い出していた。
あんなに心が軽やかで穏やかだったのは、いったいいつ以来だっただろう。
ふと、客の腕輪の黒い真珠が目に入り、朱は別れ際の黒い瞳を思い出す。
もう店には来るなと諭すはずだったのに、調子のいいことを言ってしまった。
あのときは俺も、年下の友人が恋しかったのか。
気がつけば劇は山場に入り、美しい女形が高い声で健気な演技をしている。周りの観客たちは瞳を潤ませていた。暫し舞台を眺めたあと、すぐに集中力を失った朱は、池に浮かぶ蓮の花を眺めた。
薄桃色の花は、黒く艶やかな髪によく似合うに違いない。
朱は微睡みの中、美しい黒髪に睡蓮の簪を差した。