肉欲、むなしい
黑は十になったと聞くが、まだ父親と共に妓楼に来ていた。三年経っても新しい妻を迎えないとは、彼女の父は一途な人だと、黑は少し商人を見直した。もっとも、娼妓とは遊んでいるので、操立てをしているわけではないのだろうが。
黑は相変わらず表情に乏しく、活発でもない。流石にあやとりや人形遊びをする年でもないだろうと朱が悩んでいた時、本を一緒に読みたいと言われた。
「ごめん。俺は字が読めないんだ」
朱は年下の娘に謝る。貧農の息子だった朱は字が読めない。店に入ったあと読み書きを学ぶ機会もあったが、簡単な日常会話を覚えたところで、白旗を揚げた。さすが商人の娘といったところか、もう黑は朱の学を超えてしまった。
「私が読み上げるから、没問題」
黑は特にがっかりもせず、そう言って朱の膝の間にいつものように収まり、革表紙の本を開いた。とにかく朱と本を一緒に読めればいいらしい。
「じゃあ、頼むよ」
「うん」
黑が頷いて読みだしたのは武侠小説だった。朱は黑の学識の高さに感心するとともに、年齢にそぐわない本の趣味に首を傾げた。しかし黑が読む小説の内容は面白かったので、朱も時折感想を挟んだりして、一緒に楽しんだ。どうやらその本は第一巻で、これから主人公たちの武勇伝は延々と続くらしく、しばらく二人は毎回本を読んで過ごすことになった。
ある日、宴席で黑と本を読んでいた時、朱は楼主の婆さんに呼ばれた。
「お楽しみのところ悪いね、お嬢さん。朱、李さんがおよびだ」
「はい。今行きます。ごめんね、仕事ができた」
朱はよいしょ、と腰を上げる。黑は無言で朱を見上げた。朱も客ではなく黑と遊んでいたいが、断る訳にはいかない。朱は申し訳無さそうに笑いながら、部屋を出た。
朱を指名した李夫人は城に務める官吏の妻だが、毎夜愛人や女遊びにふける夫に満たされず、夫が賄賂で得た金で朱を買う。元は民が納めた税であろうその金が、朱の食費になるのだ。
夫人は、朱が十五のときからの得意先だった。
李夫人は美人で、伽への要求も少ない良い客だ。朱はあまり興味がないが、胸も大きく、肉体は適度にふくよかで美しい。でも、朱が酒を注ぐ時も、二人で笑って話す時も、身体を重ねる時も。夫人の目は朱を見ていない。今頃娼妓か愛人と寝ているであろう、振り向かない夫を見ている。
「ああ!あなた!」
李夫人が叫ぶ。
あなたとは誰のことだろうか。俺ではないだろうな、とぼんやり思いながら、朱は腕を伸ばしてきた夫人を抱きしめた。
「はぁ…はぁ…」
疲れたな。
ようやく夫人を満足させた朱は彼女の上からどき、乱れた息を整える。彼女との行為では自身は達せなかったので、寝台の端に座り、微熱を独りで解放する。
初めて彼女を抱いた時は、もっと自分も高揚しただろうか。朱は窓の外に視線をやり、楼閣の軒先に吊るされた、風に揺れる赤提灯の列を見ながら思う。
朱は元から余り性行為に快感を感じない性質だったが、年々、不感気味になっている気がした。色に溺れる仲間が羨ましい。朱は男にも女にも溺れることができない。少年の頃は李夫人や、他の客に溺れかけたこともある。だが直ぐに夢は覚めるのだ。彼らが求めるのは朱の身体、顔、その場限りの愛や甘い言葉。誰も本当に、朱の心は見ていない。そう思うと、身体が持て余す、わずかな熱は引いていった。
いや、お客さんを満足させられたら、自分が満たされるかは関係がない。金を貰っているのに、愛を求めるな。
朱は首を振り、雑念と熱を解放した。
「ふう」
気を失った夫人の隣で、ため息をつく。意識が戻ったら、また求められる。買われた自分は応えなければならない。床に脱いでいた上着を着て、夫人が気を取り戻す前に外の風に当たろうと扉に手をかけた時。
「黑!」
思わず朱は大声を上げた。扉の隙間から黒黒した目が覗いている。
あの父親、娘を見張れ!
思わず罵声が出そうになったが、何とか飲み込む。黑は相変わらず無表情だが、気まずい。朱の前では客と睦み合ったこともないのに、獣のようなところを見られてしまった。
「ごめんなさい」
朱が弁明する前に、珍しく口を聞いた黒はそういうと、振り返って部屋に戻っていった。朱は朝まで夫人を満たさなければならなかったので、その日はもう、彼女には会わなかった。