雨、濡れ鼠
「濡れるよ。入る?」
思わず濡れ鼠に声をかける。漆黒の髪は二つの団子に結ばれ、吸い込まれそうな黒い瞳、人形のように綺麗な顔立ちの娘だ。自分より十近く年下だろうか。屈んで傘を差し出したが、娘はふるふる首を振り、どこかへ行ってしまった。
妓楼に売られた娘か。安い同情心を覚えながら、朱は自身も客が待つ店へ戻った。
「あれ」
朱は青楼で働く男妓だ。翌日の夜、店で働いていると、貿易商の客数人が歓談する席に昨日の娘がいた。どうやら娼妓見習いではなく、商家の娘らしい。こんなところに娘を連れてくるとは、とんでもない客だ。
娘はこの店の娼妓顔負けの幼い美貌で、ツンとした無表情で大人しく座っている。
「一緒に遊ぶ?」
茶汲みと火付けしかやることのない朱は彼女の前でかがみ、あやとりを見せる。今日の客は男色家ではなく、朱の客になりそうな女性もいないので暇だったのだ。娘は無言で頷いた。
「彼はきれいな顔をしていますね」
「朱は売れっ子ですよ、性格もいい」
娘の父親である大商人は、我が子と遊ぶ青年に気がつき、傍らの老婆に話しかける。三つ編みを後ろに束ねた青年…といっても十代半ばに見える男妓は、精悍だがどこか甘い顔に、優しげな笑みを浮かべていた。店の主人はさり気なく彼も売り込もうとしたが、生憎彼は女性にしか興味がなかった。
「黑蝶は中々人に懐かないのに珍しい。我が娘は面食いだったようだ。」
ははは、と商人は笑い、つられて娼妓や他の客も笑う。娘は意味を理解しているのかいないのか無表情のままで、朱が見せるあやとりの方を興味深く観察していた。
やがて彼女の父親は、中年の付き人と娘を応接間に残し、娼妓と部屋を出ていった。付き人は立ち上がり、娘に呼びかける。
「黑蝶様、帰りましょう」
「………」
名を呼ばれた娘はしばらく朱を見ていたが、やがて頷き、付き人についていった。
「バイバイ」
感情の見えない声でそう呟き、娘は部屋を出る前に小さく手を振った。朱は微笑みながら、手を振り返した。
娘たちが出て行ったあと、しばらく朱は一人で椅子に座っていた。この楼閣に来る客や「家族」以外と接したのはいつぶりだろう。あんなに小さな、それも表情に乏しい娘と遊んでいただけなのに、客と深く触れ合ったあとよりも、心は暖かい。
「………当たり前か」
彼女が見ていたのは、性の対象でも商品でもない、ただの遊び相手としての朱なのだから。朱はずるずる背もたれにもたれながら、独り言ちた。
外では、昨日からの雨がしとしと降り続いている。