1話2 妖精界へようこそ
彼女の後ろをついて王の間らしき場所を出ていく。たまにぴくぴくと偶蹄類のような耳や尻尾が動くので気になってしまうが、それ以上にこの建物は豪華だ。あの一部屋だけなのかと思っていたが、壁にはずっと何かの模様が描かれているし、照明は一つ一つすずらんのように細かく造形されている。階段を上り、廊下を進んでいき、重そうな扉の前で彼女は足を止めた。
「こちらです」
どうやってか彼女はその小さな体で扉を開ける。部屋は驚くほど広い。廊下と同じように壁には花の模様があって、照明はすずらんの形、絨毯も敷いてある。
「私、鹿の子と申します。あなたさまの世話係を命じられております。ご要望がありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
小さいのに礼儀正しく働いてて偉い。私とは大違いだ。
「ありがとうございます」
そんなつもりはなかったのに、敬語で答えてしまった。
「お飲み物や、軽食をお持ちいたしましょうか?」
鹿の子さんに言われて、私のお腹がぐうっと鳴った。そういえば夕飯がまだだ!
「お願いします」
鹿の子さんはまたスカートの裾を持ち上げてお辞儀し、部屋を出ていく。見た目は子ども、小学生くらいなのに、私よりずっと大人びている。私なんて礼儀作法に慣れていなくて、お客が来るといつもびくびくしてしまう。今もまさにそうなのかもしれないけれど。
部屋の入口側には、白い小さなテーブル、三人掛けくらいのふわふわのソファと、同じ高さのオットマンが二つ。お客を呼んでお茶や手芸ができそうなセットになっている。そんなこと、したことないけど。奥の方には、テーブルと同じ色と素材のドレッサー、少し本のあるチェスト、ウォークインクローゼットらしき観音開きの格子、そしてレースの天蓋付きの大きなベッド! お姫様が住んでそうなかわいくて、上品で、豪華な部屋だ。
刺繍入りのカーテンを開けると、妖精界の夜景が開く。空の端はまだ橙色で、水彩絵の具のように紺色とのグラデーションを作る。もう星がいくつも点いていて、銀色のビーズを散らしたようだ。驚いた。遮るビルの照明もない、妖精界の空はこんなにも美しい! これはきっと夢じゃない、やっとそう思った。こんなにも鮮明な景色を、こんなにもちっぽけな私が夢の中で想像できるはずがない。遠くの大陸で撮られた写真やテレビなんかじゃ分からないものが、この窓から覗く。私の心も体も、この世界の中にあることが噓だなんて、もう思えなくなった。
見とれていると、ドアが叩かれて鹿の子さんが戻って来た。ガラスのティーポットに入っているお茶はピンク色、小さなサンドイッチや果物が、金の縁の小皿にそれぞれ乗せられている。私はうきうきとソファに座って、鹿の子がそれをテーブルに並べる。
「これは何のお茶ですか?」
「赤ばらといちごの花茶でございます」
注がれるだけで、ほのかだが豊かな香りが漂う。癒されるなあ。
「この果物は何ですか?」
「白メロンとさくらんぼでございます」
宝石みたいにつやつやで、とてもおいしそう。気分はマリー・アントワネットだ。
「サンドイッチの具は?」
「きゅうりです」
「きゅうり?」
「きゅうりです。王宮御用達の農園で育てられた一級品のお野菜でございます」
異世界には異世界なりの価値観があるものだ。きっと妖精界でのきゅうりは、人間界で言うところのアボカドみたいなものなんだろう。じっくり考えてみるとおいしそうに見えてきた。
「では、いただきます」
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「他に何かご用などありますか」
軽食を食べ終え、花茶を飲む私に鹿の子さんが尋ねる。
「えっと、明日からは私、どうすればいいでしょうか?」
「今日のパーティーが近いうちに開かれ直されるはずですが、それ以外にご予定はありません。あ、そうだ。朝食の後に、護衛の騎士さまが挨拶に参られますが、そこまでお時間は取らないと思います。それ以降にやりたいことがあれば、可能な限り叶えられると思います」
「例えばどんなことが?」
「サーカスのご鑑賞、景勝地のご観光、遊園地の貸し切りなど……」
「何でもできるんですね⁉」
「はい。大事なお方ですし、おつらいご使命ですので、せめて楽しんでいただきたいと、女王さまが」
鹿の子さんは笑顔になった。この感じだと、私は要人扱いなのだろう。世界を救うために召喚されて、女王と直接話ができて、おいしいお茶を淹れてもらえて、サーカスも観光も遊園地の貸し切りも……。十歳くらいに見える鹿の子さんは、そんな私の世話役になって嬉しいんだろうな。けど、私はむずがゆい。
「元の世界に帰る、とかは?」
鹿の子さんが悲しそうにするので、私は慌てる。
「ここが気に入らないとかじゃなくて! その、家族に会えないのは寂しいな~って……。半年に一回帰省できたりしないかな~なんて」
「心中お察しします。ご家族と離れられるのはお寂しいですよね。先ほどもおっしゃっていましたし」
ああ、そうか。鹿の子さんはこんな時間も働いてるってことは、家族と離れているのかな。
「明日、女王さまにもう一度お尋ねしてみましょう。とりあえず今晩は、こちらでお休みください」
「分かりました」
私は花茶を飲み終える。
「おいしかったです。ありがとうございます」
鹿の子さんはまた笑顔になる。頬が花茶と同じピンク色になる。
「私が淹れたんです」
「そうですか! 明日の朝も鹿の子さんにお願いしようかな」
「ありがとうございます」
鹿の子さんに笑顔が戻って、何だか安心した。