1話1 プレリュード
月がきれいだな。誰かに愛を伝えたいんじゃなくて、ただそう思った。
吸い込まれるような黒い空に、ぽつぽつと小さな星が灯り、月は煌々と輝いている。眠らない街に負けない冷たい光は、さすが古代から人間が慕い続けるお月様という具合だ。白いコートに着ぶくれている私は、月の光をささやかに受けながら、暗くなっていく帰路に溶けていく。
ビル群から抜けると、静かな商業地と住宅街が混ざった道に入る。どの建物の窓も光っていない。いいな、みんな眠っているんだ。この辺りを歩いていると私の頭は、労働は終電を過ぎるまで、と、日が沈めば床に入る、どちらが幻なんだろうという問いを始める。どっちだっていい。生きていくために、社会から締め出されないために、このくらい耐えなきゃいけないんだ。
私は帰る。帰って、シャワーを浴びて、少し眠ったらまた同じような明日が始まる。働いて、怒られて、泣くのをこらえて。会社にいると家に帰りたくてしょうがないけど、帰ったところで楽しいことはない。
気が付くと、私は池の前で足を止めていた。歩道のすぐ横にある自然の池で、鉄のフェンスで囲われている。コーヒーゼリーのような水面にクリームを垂らしたような月が映っている。弱い風に揺られて、月がゆらゆらと波打つ。じっと見ていると酔ってしまいそうだ。
堅いつるつるとした床、眩しい明かりの中で目を覚ました。花の良い香りがする。夢の中だと思って目を開けると、やけにはっきりした天井が見えた。ドームのような形で、梁は金色、紺碧の壁面にはプラネタリウムのように星が描かれている。窓の外はほんのりと暗く、夕方のようだ。私は体を起こす。
「人間……人間でございます!」
「成功したのですわね!」
高低様々な歓喜の声が上がる。そこにいるのは、美しい人たち。動物のような耳と尻尾が生えていたり、髪の色がピンクや水色だったりする。特殊メイクかな?
「世界は救われた!」
へ?
「人間さま、ようこそおいでくださいました。ここは妖精界。あなたさまが召喚されたことにより、妖精界と人間界は救われました。妖精女王の私が、お礼申し上げます」
目の前には、私よりずっと背の高い女性が立っている。背中には蝶のような半透明の羽が生えていて、髪は刺繡糸のようにきらきらしている。衣装はそう、例えば月の国にでも住んでいそうな、上品で華やかなドレス。
「妖精、女王……?」
私が聞き返すと、彼女は微笑んだ。オレンジ色の唇も、豪華なまつ毛も輝いている。
「人間界に、妖精の情報はないと伺っております。ですから驚かれるのも無理はありません。しかし本当なのです。証拠に魔法をお見せしましょう。――サハル・ルンジーエ」
彼女の言葉に反応するように、私の体は光に包まれて、コートとスーツがローブとドレスに変わった。魔法使いのような衣装だ。おまけに四角い帽子まで被っている。なるほど、魔法かも?
「ここは妖精界の王宮。妖精界には妖精や魔法生物が暮らしています。私も、控えている者たちも妖精です」
従者や大臣らしき妖精たちが羽を現し、私に頭を下げる。羽は出したりしまったりできるが、羽を出すのは最上級の礼儀作法のようなものなのかもしれない。
「妖精界と人間界は暮らす者によって分かれていますが、本来は一体です。繋がりがなくなってしまうと、二つの世界はバランスを崩してしまいます。現に今も、妖精界では異変が起きています。じきに人間界でも何かが起こるでしょう」
夢の世界って急に話が進むなあ。いや、待って。私は帰宅途中だったはずだ。まさか歩きながら眠ってしまうなんて!
「しばらく前に妖精を人間界に向かわせていたのですが……彼が行方不明になってしまいました。三年間、限界まで捜索していたのですが見つからず、今日、人間界にいたあなたをこちらへ召喚致しました。事前のご説明ができず、申し訳ありません」
「申し訳ありません」という言葉に私は震え上がる。夢の中でまでそんな仕事みたいな言葉が出てくるなんて! 私は自分の頭を叩いた。
「どうか、なさいましたか?」
女王さまも臣下たちも心配するような、奇妙なものを見るような目になる。すごく恥ずかしいので、早くこの夢から覚めようと頬をつねる。
「人間さま?」
妖精たちの様子は変わらない。
「あの、私では力不足だと思いますので、他の人間に替えた方が良いかと」
「あなたは力不足ではありません! それと、人間を召喚するには膨大な魔力が必要なので、早々儀式は行えません。成功確率も低く……」
女王さまはハンカチで涙を拭うような動作をする。かわいそうだけど、そんな開発中みたいな技術を採用しないでほしい。
「ですから、あなたさまにこの世界にいらしてほしいのです。儀式に選ばれたあなたに!」
女王さまは強く言葉を発した。想像ができないような大きなものを背負っているような女王さまに、逆らえないと感じた。でも家族も、友達も、知り合いもいない別世界で、私は生きていけるだろうか。誰かに迷惑をかけないだろうか。
「お詫びと歓迎のご挨拶として、パーティーを開きます。もう準備は整っていますので、よろしければ、いらっしゃいませんか?」
会社の付き合いのパーティーを思い浮かべて、私は肩を落としてしまった。失礼だと思い直して、笑顔を作るが遅かった。
「ご気分がすぐれなければ、お部屋の準備もしてありますので、お休みになられますか?」
出張のときに泊った格安ホテルを思い浮かべ、ため息がでる。これも失礼だと思い直すが、やはり遅かった。
「お疲れのようですので、お部屋にご案内を」
女王さまに命じられて、小学生くらいの女の子が出てくる。はちみつレモン色の髪を二つのお団子にして、ふわふわの前髪をすだち色のピンで留め、くりくりとした丸い目で私を見上げる。そして、柔らかい桃色のメイド服の裾を持ち上げてお辞儀した。
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