2話3 猪目の市場調査
「先生、そろそろ休憩にしねえか?」
私は猪目さんに教えてもらいながら『妖精界辞典』を読み、授業で扱いたい内容を書き起こしていた。鹿の子さんは買い物に出ている。
「いえ、もう少しキリの良いところまで……」
「一時間経ったら休憩するって言ったよな?」
「ううん……でもこの章の最後までは……」
私が一向に顔を上げないでいると、ペンが取り上げられ辞典が閉じられた。
「先生は苦労性だな。根詰めすぎてぶっ倒れそうだから、ちゃんと俺が見張ってないと」
猪目さんはそのままノートも取り上げて、リビングの棚の上に置いた。私の背じゃ届かない。
「ずっと座ってたし、散歩にでも行くか?」
私が返事をする前に、猪目さんは鹿の子さん宛ての書き置きをしている。猪目さんの行動は気が利くし、スマートだ。私より年下っぽいのに、仕事のできる人というか、頼りになるというか。猪目さん本人は性格で選ばれたって言ってたけど、多分それだけじゃない。
外は穏やかな晴れ模様で、優しい風がパンや花の香り、陽気な音楽を届ける。うちの周りは静かだけど、もう少し城とは反対の方向に行くとにぎやかな街になるらしい。
「ずっと向こうの南の方には港があって、各地方からの産物が届く。王宮が買わなかった分がここらに流れてくるんだ。先生、人混みは平気か?」
「はい! 大丈夫です」
「じゃ、行きましょうか。離れんなよ」
私は猪目さんの後にぴったりくっついて、にぎわう通りに入る。店先で芸をして気を引く妖精、地面を歩いて品物を眺める妖精、テラス席で談笑する妖精、空を飛んで急ぐ妖精、この狭い通りの中で一秒ごとに景色が変わる。鮮やかな街の中でみんな、心の底から生きてるって感じだ。
商品はきらびやかではないけど、どれもとても良いものに感じる。一つ一つ形の違う野菜、パン、服。手作りなんだろうな。瓶入りのジャムにも、ビニールのカバーなんてついていない。お客さんらしきおばさんが、店員さんに空の瓶を渡す。買って食べきった後は瓶を返すことになっているんだ。繰り返し、繰り返し、大事に使われた瓶に、お店とお客さんの信頼が宿っている。
「先生、甘いもの好きなのか?」
私は何も言わず立ち止まっていたのに、猪目さんは気づいていた。
「はい。色々なジャムがあるんですね」
店先には、紫、赤、ピンク、橙、黄、白と、グラデーションになって並べられている。
「人間界のジャムだったら、どんなのが好きだった?」
「いちじくのジャムが好きです。粒々の食感と爽やかな香りが良くて」
「よかった。いちじくだったらこっちにもあるから。好きな食べ物があればちょっと落ち着くんじゃねえか?」
猪目さんはピンク色の瓶を取って店員に渡した。猪目さんは仕事中だからと軍服姿で、腰には帯刀している。本人は全く気にしていないけど、かなり目立っている。店員さんはびっくりしながらお会計をしてくれた。
「騎士さまなんて珍しい。お仕事中ですか?」
「ああ。市場の調査中だ」
単に散歩に来ただけと言えばそうだけど、市場の調査とも言えないことはないし、そう言った方が格好がつく。猪目さんは頭もきれるなあ。
「あらまあ! じゃ、うちのジャムは美味しいって報告なさってくださいませ」
「本当に旨かったらそう書くよ」
「まいどあり!」
猪目さんだからそうなのか、妖精界の騎士全体に言えることなのか、軍服と帯刀にびっくりはしても、怯えあがるようなことはないみたいだ。そうだ。戦争がなくて、内政もあの女王さまだから平和に行っているんだろう。そんな国なら、騎士を怖がる理由なんてないはずだ。悪い妖精なんてどこにもいなさそうな気がするけど、そうじゃないから騎士っていう職業があるのかな。紙袋を提げた猪目さんが戻ってくる。
「ありがとうございます」
「いいって。でも、黙って立ち止まるなよ。なるべく気を付けるけど、うっかりしたら見失うかもしれない」
「すみません」
「不安だな。お手を繋ぎましょうか?」
猪目さんは優しい顔で、黒い手袋の手を差し出す。触れてみたいという思いと、そうできない恥ずかしさで心臓がばくばくする。
「冗談だよ、大人だもんな」
緊張が解けて笑いがあふれてしまう。
「ん?」
猪目さんは何かに気づいたようで、私もそちらに目を向ける。




