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大江戸犬小屋住まい

作者: 住之江京

 一六九X年(元禄一X年)、江戸は大火の炎に包まれた。

 奉行所は焼け、旗本屋敷も焼け、全ての生物が死滅したかのように見えた。

 だが、人類は死滅していなかった。


「焼けちゃったなあ」


 久吉は昨日までの(ねぐら)であった場所をぼんやり眺めていた。他人の店と、他人の店の間の、ちょっとした空間だ。

 風避けは勿論、双方から軒が伸びているので、雨だって防げる。遅寝早起きを心掛ければ、夜廻りにも見付からない。

 橋の下や寺社の軒下、乾いた溝といった良い場所(・・・・)は既に先達が占拠しているし、最近江戸に上ってきたばかりの久吉が、ようやく見付けた安住の地。


「まあ、そろそろ引き上げ時だとは思ってたけど」


 流石に、長く住める場所だとは思っていなかった。近隣住民に蹴り出されるのも時間の問題だろうとは。

 その近隣住民諸氏は今、煤だらけになって自宅の焼け跡を掘り返している。昨夜の雨で燃え滓は十分に冷え、素手で触っても問題ないらしい。

 寝場所くらいは無断で借りても、流石にまだ、他人の財産にまで手を付ける気はない。短い付き合いとはいえご近所の(よしみ)、煤掘りの手伝いでもして、ついでに駄賃を稼ごうかとも思ったが、どうもそんな余裕も無さそうに見える。

 ちらちらと降る不信気な視線に居心地も悪くなり、ひとまず久吉はその場を後にした。



 平素は棒を振るなり担ぐなりして日銭を稼ぐ久吉だが、今の流行りの日雇い仕事は、大工か材木運びということらしい。高い所が苦手なので大工は論外、気は乗らないが材木でも運ぶか、と人の流れを追い始めた所へ、風に煽られて飛んできた何某かが顔に貼り付いた。


「ぶわっ」


 と、よろけて溝に嵌った片脚を引き抜き、薄っぺらな飛来物を引き剥がす。

 悪態を吐きつつ手元に目をやれば、それは号の古い瓦版の燃え滓であった。糊の跡も見られるし、障子紙なり何なりに使われていたものが焼け残ったのだろう。


「何だこれ、こんなもん尻を拭く紙にも……っと、んん?」


 その内容は田舎育ちの久吉には信じられぬ物であった。


 どうも、江戸には無主無宿の犬を養う屋敷があるらしい。


「ここから一番近いのは、四谷か」


 久吉は今だけ犬になると決めた。




 寝床の焼け跡からは半刻程も歩けば四谷に着くはずだったが、江戸に上ったばかりで不案内な久吉だ。数少ない見知った景色は今や灰の山。おまけに、大火の後始末であちこち通行止め。道に迷うのも道理である。

 日暮れ前にようやく目的地に辿り着き、いざ中へ、といった所で、ふと気付く。


「俺は最早犬になったつもりだけど、傍目にそうと判るかな?」


 如何に犬を養う専門の役人とはいえ、心根が犬であるか否かを判じることのできる者が、そう沢山いるものだろうか。久吉は心根だけなら芯から犬になった心算であったが、外面まではそうとも行かない。


「うーん。一匹取っ捕まえて、皮を剥いで被ってみようか」

「あんた、よりにもよって御上の犬小屋の前で、何てこと言ってんだ」


 思わず口から漏れた計画に、背後から野太い男の声がかかった。振り返ればそれは、腰に刀を差した髭面の大男である。


「犬一匹の犠牲で人間様が一人救われるんだよ? 余った肉も食えば無駄がない」

「ううむ。武士を前に朗々と犯罪計画を語る危険人物の命と、犬の命。どう考えても犬の方が重い」


 悪びれない久吉の態度に、髭面の武士は腰の刀へ手を掛ける。

 実の所、これまで牢にでも放り込んで貰えれば幸いと思っていたそれを見た久吉は、このままでは最悪その場で切り捨てられるやも知れぬ、と自己弁護を試みる。


「命あっての物種と言うじゃないですか、お侍様。それに、俺に犬の真似をやらせりゃ、ちょっとしたもんだよ。アンアン、アオーン!」


 口を開いた頃にもう、これは弁護のし様もあるまいな、と気が付いていた。

 それでも、この言い訳にもならぬ言い訳は、眼前の武士に一定の効果は及ぼしたようである。


「……まあ、なんだ。こちらとて、犬を人より重んじる今の幕府に、思う所が無いでもない」

「お! ということは……?」

「犬として犬小屋に住めるよう、手配してやろう」


 かくして、久吉は犬となった。


「しかし……人としての生を捨て、犬として飼われるだけで、果たして生きていると言えるのだろうか」

「まあまあ、向き不向きはあると思いますが、俺はそういうの得意ですからね」


 その折、久吉は終始、自信気な様子であった。




「おいっ、てめえ、犬の分際で生意気だぞ!」

「ワン、ワンワン!(うるせえ、てめえも犬だろうが!)」


 幕府運営の犬保護施設・犬小屋に犬として住み始めて、しばらくが経った。

 大火の日に会った髭面の侍に引かれて犬小屋を訪れた久吉は、何故だか、誰から見ても犬のように見えていたらしい。特に怪しまれることもなく犬として受け入れられた。誰から見ても、というのは、無論、犬から見てもだ。


 毎食炊いた飯や魚をたらふく食って、腹が膨れれば眠る。献立は毎食汁掛けご飯に魚が一菜。魚は概ね生だが、江戸前の魚は新鮮で旨い。


 隣近所は犬、犬、犬、それも、いずれ劣らぬ猛犬であったが。


「けっ、こんの犬畜生! 人間様の長い御御足(おみあし)を喰らえ!」

「ギャンッ!? キャゥーンワン……(ぎゃあっ!? 参りましたワン……)」


 犬の世界は力が全て。相手は牙も鋭い狂犬揃いだが、久吉にも犬よりは長い足と、柱に上れる二本の腕、奥の手の投擲による遠隔攻撃がある。久吉は人類の身体能力と技術を駆使し、犬の社会でのしあがって行った。


「うーん、何だか、娑婆で無為に過ごしてた頃より、毎日が充実している気がする」


 十分な食事、安全な寝床、犬社会の上位を保つため、努力する毎日。

 生きている実感。自然と温かくなる心身。


「これが命か」


 それは自分の半生で、最も幸福な日々であるように思えた。




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参考文献:

 武論尊/原哲夫(1983-1988)『北斗の拳』集英社


参考サイト:

 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録(2018年アクセス)『勅額火事(江戸の十大火事③ 江戸の大変)』 https://wheatbaku.exblog.jp/26060763/

 ペットシッターSOS(2018年アクセス)『ペットフードの歴史』 https://www.petsitter.co.jp/archives/456/

 Wikipedia(2018年アクセス)『犬小屋 (江戸幕府) 』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%B0%8F%E5%B1%8B_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C)

 Wikipedia(2018年アクセス)『勅額火事』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E9%A1%8D%E7%81%AB%E4%BA%8B

 歴史まとめ.net(2018年アクセス)『江戸時代の年表』 http://rekishi-memo.net/edojidai/nenpyou.html

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