第二章 第七王子と第二王女と白昼夢 その一
王城の正門、ではなくほぼ自分専用となった隠し通路から帰還したハーシェリクを待ち受けていたのは、自分の執事と騎士だった。
執事の名はシュヴァルツ・ツヴァイク。艶やかな黒髪に暗い紅玉の瞳を持つ、ミステリアスな雰囲気を醸し出した青年だ。ハーシェリクはクロと呼ぶ彼は、見るからに不機嫌そうに待ち構えていた。
騎士の名はオクタヴィアン・オルディス。橙色に金の筋が混じる、例えるなら夕焼けのような色癖のある髪を緩く結んだ青年だ。やや垂れた蒼い瞳には同情の色が浮かんでおり、ハーシェリクは一言も発することもなく、そして聞くこともなく、自分の置かれた状況を理解したのだった。
居城区の自室のある外宮へと続く石通路を歩きながら、心配性でおかんな執事の小言を大人しく聞いていたハーシェリクは、彼の言葉に自室へと向かう足を止め振り返る。
「え? メノウ姉様……間違えた、メノウ姉上が?」
いつものくせで、つい姉様と呼んでしまい、ハーシェリクは改めた。今春には学院へと入学するため、呼び方を直すこととした。
当初は子どもっぽくするためにあえて父様や兄様、姉様と呼んでいたが、呼び続ければそれが染みついたようで、なかなか直せない。さらに呼び方を変えると家族たちから微妙に寂しそうな顔される始末だ。
一瞬「別に変えなくてもいいかな?」とズボラな自分が囁いたが、末端でも王族の端くれ。恰好はつけなくてはいけない。
そんなハーシェリクには、腹違いの六人の兄王子と二人の姉姫がいる。
メノウとはハーシェリクの腹違いの姉のことで、王都から離れた郊外の離宮で、療養中だと聞いていた。
なんの病気かは知らない……というかここ三歳のときから忙しく、郊外で療養なら安全だと意識していなかった、が正しい。
当時は王都にいたほうが危険だったからだ。特に大臣があの毒薬を持ち出してきたとき、身体が弱い第五王子のユーテルは重篤化した。療養が必要なほどのメノウが王都にいて、毒薬の餌食となっていたら、最悪の事態になった可能性もあったのだ。
「ああ、離宮より本日戻られたそうだ……それよりも」
そうクロは言ったあと、主を睨む。
「あ、あはは、ごめん……」
お小言を聞き流していたことがばれ、ハーシェリクは半笑いしつつ謝った。ただここ最近執事の過保護がマシマシで、つい言い訳も口にしてしまう。
「子どもたちがなかなか離してくれなくて……」
「といいつつ、自分も夢中になって忘れてたんだろ?」
「うっ」
痛いところを突かれ、ハーシェリクは言葉が詰まる。
今日は午後から学院の制服作成のための測定があった。さすがは王族貴族が通う学院。制服もオーダーメイドだ。これも平民が学院への入学の障害になっていることは間違いない。奨学生ならば学費だけでなく制服や教科書などの費用も、国が負担もしくは立て替えしてくれるが、裕福な家でなければ確実に家計を圧迫する金額だ。必要なものでもあるが、その部分も改善が必要だろう。
(お金がすべてじゃないけど、お金がないとできないこともあるんだよなぁ……)
せちがらい世の中だと思いつつも、前世経理畑にいたこともあり、一人暮らしをしていたハーシェリクは、金銭の大切さについて身に染みてわかっている。
現実問題、何事も先立つ物が無ければ、始められないことが多いのだ。
それは置いておき、測定が制服を受注する服飾店の担当者が、繁盛期に時間を割いて城へと来ている。それに遅刻するのは自分の過失である。
「本当にごめん……」
ハーシェリクは素直に謝罪したが、クロの眉間の皺が減る事はなかった。
「それくらいにしてやれよ、黒犬。今まで散々勉強に公務で窮屈だっただろ?」
息抜きだって必要だと、見かねたオランが口を挟む。そのあとハーシェリクに黙って出かけるな、と注意するのも忘れなかったが。
まるで厳しい母親と子どもに甘い父親のようなやりとりである。
クロはその言葉に、さらに眉間の皺が深まった。
(オラン、それは火に油だ……いや、自分が一番悪いんだけど)
クロとオランはいわゆる犬猿の仲というものだ。
互いに実力を認め合い、信頼しあっているようにも見えるのだが、それは別問題らしく頑なに否定する。ハーシェリクはそれさえもお互いにそう思っているあたり、やっぱり気が合うんじゃないのかと思っているが。
今回も自室で正座かな……と遠い目をしていると、クロがふいっと視線を逸らし、舌打ちをしただけで、先に進んでいってしまった。
(あれ?)
ハーシェリクは首を傾げる。いつもの彼らしくない行動だ。
己の筆頭騎士に目を向ければ、彼も同感なのだろう拍子抜けした顔をしたあと、主に困惑した視線を送ってくる。
ハーシェリクは、オランから己の執事に視線を戻し、大股で進んでしまう彼に小走りに駆け寄ると口を開いた。
「クロ?」
「なんだ」
視線を向けず返事をする己の部下。もし短気な上司だったら激怒したかもしれないが、ハーシェリクは短気ではないし、部下の機微に気づかぬほど疎くもない。
「クロ、もしかして疲れてる?」
「は?」
ハーシェリクの言葉に、足を止め豆鉄砲を喰らった鳩のように目を開いて、己の主を見下ろす。
そんな彼にハーシェリクは言葉を続ける。
「それとも体調? 熱ある? もしかして恋煩いとか? ……ないなぁ」
クロは出会ってから体調を崩すところなど、一度もみたことがない。どちらかといえばハーシェリクのほうが季節ごとに一度は体調を崩し、看病される側だ。
恋愛面も彼は泣くよりも泣かすタイプで、加害者側である。
でも今日……というか、このところ様子がおかしい。無言で眉間に皺を寄せていると思えば、ぼんやりとしている。仕事ではミスがない。だがふとした瞬間の表情が今まで見せてきた表情と違う気がするのだ。そして一つ気がつけば、あれもこれもと違和感を覚える。
「だっていつもとなんか違う」
「なんかって……なに言ってる?」
呆れた表情になるクロ。だがそれでも瞳は動揺した光が浮かんでいることを、ハーシェリクは見逃さなかった。
「何かあった?」
ハーシェリクの言葉にクロは数回瞬きしたあと、わざとらしくため息を漏らした。
「……確かに疲れが溜まっているのかもな。いつも目を盗んで脱走する主のせいで」
「うっ」
痛いところを突かれ、ハーシェリクは再度呻く。だがそれも彼の誤魔化しだとわかり、ハーシェリクが言葉を続けようとしたところ、足音が聞え視線をそちらへと向けた。
一人の姫君がこちらへと歩みを進めている。
身長は筆頭たちの肩ほど、濡羽色の髪は真っ直ぐと腰よりも長く、衣装は落ち着いた色合いの物だ。
その姫君はハーシェリクたちの存在に気が付くと、やや歩調を早め三人の前で立ち止まり、貴族令嬢の完璧な礼をする。
「ハーシェリク、お久しぶりね」
「メノウねえさ……メノウ姉上! お久しぶりです!」
ハーシェリクは彼女――グレイシス王国第二王女メノウに、応えつつ内心首を傾げる。
メノウの顔が頭から肩まで隠れる黒い紗で覆われていたからだ。
それでも美貌の王と国内外で称えられる父の子。紗で細かな表情までは解らなくとも、その造形が美しく、陽国の出の母の血を引いた神秘的な顔立ちをしていることがうかがい知れた。
「でもまだお加減が……?」
ハーシェリクの言葉に、メノウははっとして紗を押えた。
「……ええ、ちょっと……でも身体はもう大丈夫よ」
歯切れの悪い言葉に、ハーシェリクが心配になったが、だが本人が大丈夫だと言われれば、それ以上追及することは憚れた。
そんなハーシェリクの気持ちを察してか、メノウは明るい声で言葉を続ける。
「心配してくれてありがとう、ハーシェリク……ふふ、まだ呼び方は変えなくてもいいじゃないかしら? お父様もお兄様たちも、残念に思っているわよ」
「いえ、学院にも入るので……」
呼び方を指摘され、ハーシェリクは恥ずかしさを誤魔化すため、照れ笑いしながら答える。
「本当に立派ね……私とは違って……」
その様子にメノウはやや顔を伏せぽつりと呟いたが、ハーシェリクの耳がその言葉を拾う事はなかった。
沈黙してしまった姉に、ハーシェリクが首を傾げる。
「メノウ姉上?」
「ハーシェリク……いえ、ハーシェと呼んでもいいかしら?」
ハーシェリクはメノウの言葉に頷くと、メノウは深々とお辞儀をした。高貴な身分の令嬢がドレスの端を持って前屈み程度の会釈をするのではなく、両手をお腹の前に置き直角のお辞儀だった。
目を丸くするハーシェイクが言葉を発する前に、メノウが口を開く。
「国が大変なのに、何もしかなった無力な姉でごめんなさい……」
そう言って頭を下げたまま、メノウは動かない。
ハーシェリクは面喰らったが、一旦呼吸して己を落ち着けると、顔を上げて欲しいとメノウに言い、言葉を続ける。
「メノウ姉上、私は自分の我が儘を通しただけなんです」
ハーシェリクの言葉に、今度はメノウが面食らう番だった。
そんな姉に弟は続けた。
「だからメノウ姉上が、謝ることも後ろめたく思う必要もないんです」
この世界に転生して、ルゼリア伯爵が冤罪で死刑に処され、この国を変えたいと思った。
ただただ耐えるしかない父を助けたかった。
母を亡くした己を、優しく愛してくれた家族を守りたかった。
己の利益のみを求め、弱者を犠牲にして傷つけことを厭わない強者が許せなかった。
そして『自分に嘘をつかない』という彼女との約束を守るため。
誰かのためではない。諦めることができない、すべてが自分のためだ。
「だから私は、メノウ姉上に謝罪してほしくないんです。それよりも別の言葉がほしいです」
「……ハーシェ、ありがとう」
「はい!」
やや泣きそうな、それでも喜びを含んだメノウの言葉に、ハーシェリクは子どもらしく返事をした。
「それに私は、メノウ姉上が元気になって、城に戻ってきて嬉しいです」
療養していた家族が元気になって帰ってくる。それも身体が弱いという兄の第五王子ユーテルは、体調崩しても王城の自室での療養だが、郊外に行かなければならいほどの病気だったメノウがだ。
異世界は、前世の世界より医療が発達していない。治癒の魔法は存在するが、教会が占有しているし、万病に効くわけではない。前世では治療できる病気もこちらでは死者を出すこともあるのだ。
心の底から喜んでいるハーシェリクの言葉に、メノウがビクリと肩を震わせる。
「メノウ姉上?」
ハーシェリクの呼びかけにメノウは沈黙で応え、場の雰囲気がなぜか重くなり、ハーシェリクは疑問符を浮かべる。
(な、なんか地雷踏んだ……?)
前世の経験も相まって、空気を読むことに長けているハーシェリク。あえて空気を読まないこともあるが。
「そ、そういえばメノウ姉上! 私の筆頭たちとは初対面でしたよね!」
手を叩き、ハーシェリクは背後に控えていた二人に視線を向けた。
「黒いほうが執事のシュヴァルツで、ちょっと軽そうに見えるのが騎士のオクタヴィアンです」
「軽そうってなんだよ」
場を明るくするようにボケをするハーシェリクに、すかさずオランがツッコミを入れる。
とはいってもオランも空気を読むので、あえて乗ってくれただろうとハーシェリクは予想するが。
オランに振り返りながら、にやりと笑って見せる。
「見た目がね! あ、でもメノウ姉上、本当はすごく真面目なんで……」
まったく反応のなく、ハーシェリク首を傾げつつ視線を戻すと、メノウは紗越しでもわかるほど目を見開いていた。