第十三章 王子と執事と真なる目的 その一
男女の声が木霊したあと、ぴちゃりと血溜まりに滴り落ちる血の音のみが響く室内。
その静寂を破ったのは、主を抱いた騎士だった。
「……黒犬」
だがその言葉に我に返って反応したのは、執事ではなく姉姫のほうだった。
「ハーシェ! ハーシェ!!」
メノウはハーシェリクに駆け寄り、血だまりに膝をついてドレスが汚れることを気にも留めず、騎士の腕の中の弟に縋りつく。
「メノウ殿下……」
「こんなことになる前に私は! 私は知っていたのに……!」
オランの声が届かない彼女の黒い瞳から、涙が零れ頬を伝い地面へと零れ落ちる。
「メノウ殿下、落ち着いてください」
「ハーシェより私が! 私が死ねばッ!!」
再度オランが声をかけるが、髪を振り乱し己を責め続けるメノウ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな……」
「メノウ姫!!」
オランが声を上げ、ハーシェリクを抱いていない片手でメノウの肩を持つ。
はっと顔を上げたメノウの黒い瞳と、オランの青い瞳がぶつかった。
「落ち着いてください。いいですね?」
オランはそう先ほどと打って変わって優しく囁くと、オランは案山子のように立ったままの執事の視線を向けた。
「黒犬、正気に戻ったな?」
「……ああ」
そうクロは呟くと、己を嵌めた同郷であり、かつての同僚を見据えた。その両手には短剣が握られている。
「責任は、取る」
かつて苦楽を共にした仲間。しかし今は敵。
「拾四番、もうお前の『瞳』は俺には効かない……覚悟はできているな」
志狼の持つ睡眼は、精神操作の魔法に似ている。心に油断や迷いなど隙があれば、そこに入り込み操る力。
かつての綻びがあり、易々と志狼の術中に嵌ったクロはもういない。敵と己への怒りが支配していた。
だがそんなクロを、志狼は鼻で笑う。
「なんだ、裏切り者の拾参番……いや、今は主殺しの拾参番?」
「……殺すッ!」
クロが殺気を放つ。同時に脳内では短剣を投げ、糸を操り、志狼の首を飛ばす算段をし瞬間。
「クロッ! まて!!」
声が響き渡った。その場にいる全員が、声を発した人物に視線を向ける。
ある者は固まり、驚きで見開き、そしてある者はほっと胸を撫で下ろした。
「……え?」
そう呟いたのは誰だったのか。
この部屋で一番小柄な人物は、確かに斬られ、血を流して倒れたのだ。全員が噴き出る大量の血を目撃していた。
だがその人物は今、騎士に助けを借りながら立ち上がり、口についた血を袖で拭いながら、血だらけの自分の姿をうんざりした表情で見下ろしている。
「大丈夫か、ハーシェ」
「吹っ飛ばされたとき、ちょっと意識飛んだみたいだけど、大丈夫」
オランにそう問われ、ハーシェリクは頷いてみせた。
「ハーシェ……?」
「はい、メノウ姉上」
擦れた声で、メノウが血だらけの弟の名を呼ぶ。それにハーシェリクはにっこりと微笑んで応えた。
「本当、に、生きて……?」
「はい。生きています」
「どう、やって」
あの出血量では、成人した者でも助かりはしない。子どものハーシェリクならば、なおのこと。
母親譲りの黒曜石のような大きく綺麗な瞳を見開き、信じられないということが表情でありありとわかった。
ハーシェリクは、血の気の引いてしまった姉を安心させるように、種明かしをすることにした。
「仕掛けは単純です」
と言って、チラリとハーシェリクはクロを見る。自室茫然としている彼にも聞こえるように、ハーシェリクは言葉を続けた。
「クロがメノウ姉上を攫ったと知った時点で、操られていること確信しました」
あの時、オランから伝えられたとき、ハーシェリクはクロが陥った自体を把握した。志狼に宣言したとおり、クロがハーシェリクを裏切るなんて、ありえないことなのだから。
もしハーシェリクが非情なら、主を裏切ったクロを切り捨てる判断をしたかもしれない。だがハーシェリクはそんなことはしなかった。
なら、クロの操られている状態を解除しなければいけなかった。
「でもそれは、クロが自力で勝つか、魔法士がクロの精神に干渉して解くか……方法が限られます」
前者は操られている時点で不可能に近い。後者はまずクロを拘束するのが難しく、さらにそれに気を取られメノウが危害を加えられる可能性も出てくる。
「なので、もう一つ、強いショックを与えることに賭けたんです」
ハーシェリクは一度、洗脳の魔法を受けたことがある。あの時は見せられた夢での中で、段々と違和感を覚え、乙女的にショックが決定的となり、そして彼のおかげで現実に戻ってくることができた。
ならクロも、精神操作の力を上回る衝撃的なことを目のあたりにすれば、正気に戻る可能性が高い、とハーシェリクは踏んだのだ。
クロにとって一番衝撃的なこと。それは自惚れでなく、己が目の前で殺されることだろうと簡単に予想ができた。
そこでハーシェリクは、自分が派手に死んだふりをするために、大急ぎで準備した。
服のなかに血のり入りの袋、奥歯に唾液を混ざると血に見える薬を仕込む。もちろんクロの殺傷能力を考えると、簡単に袋を貫通して死ぬので、血のりの下には研究局が現在研究開発中の強化繊維による防護服を着る。
胴以外の部分の防御は、結界魔法を瞬時に展開できるよう、シロに魔法式と魔力を銀古美の懐中時計に入れておいてもらった。
走りながら使ったので、間に合うか不安だったが、そこはさすがシロの魔法。問題なく作動した。
(いちおう、オランにも準備したんだけどね……)
オランも結界魔法はないが、ハーシェリクと同じようなものを騎士服の下に着こんでいる。むしろそのために騎士服になったわけだが、それは無意味に終わった。
否、いつも「殺試合じゃないよね?」と問いたくなるレベルの稽古しているのを見ていると、オランが血塗れになって倒れてもクロはあまりショック受けないような気がしないでもない。
計画は痺れを切らしたオランが、クロを斬ろうとしたところに、彼を庇うようにして飛び出し、手加減したオランに斬られる予定だった。
『クロの目の前で殺される』が条件なのだから、これで十分果たされる……はずだった。
だがオランは手加減して頃合いを見計らいつつ、自分が斬られる方向に持って行こうとしたのか、もしくは負けたくないという気持ちのせいか、戦闘が長引いていた。
そうしているうちに志狼が出てきて、クロが糸を使用したところで、ハーシェリクは飛び出した。
計画外の突発的な対応だったため、クロの刃が届かなくともなかなかの衝撃だった。
(まあちょっと痛いけど、肋骨まではいってないっぽいし、痣程度ですんだかな)
ただ想像以上の衝撃と噴き出た血の量に、ハーシェリクの意識は飛んだわけだが。
(次はもう少し血のりの量を調整するようお願いしよう……)
今回は至急作成してもらったため、量が適当すぎたのだ。吐血用の薬も思った以上に口の中で膨張して吐き出すことになった。
(さて、種明かしはここまで)
ハーシェリクは、話が聞こえているのかいないのか、まったく動かない執事を見た。
「クロ」
そうハーシェリクが名を呼ぶと、ビクッと肩を震わせる。しかしその場から動こうとはしなかった。
「クロ、おいで」
その声でのろのろとハーシェリクの許までくると、短剣をしまい片膝をついて頭を垂れた。目線をまったく合わせようとしないのが、まるで前世で飼っていた犬のようだ。あの子もいたずらがばれると、顔を背け目線を合わせようとしなかった。
「ごめんね、クロが苦しんでいるのに、気がついてあげられなくて」
ハーシェリクの謝罪の言葉にも微動さえしない。そんな執事に、主人は続ける。
「私は、クロの主失格だね」
その言葉にクロがハッとして顔を上げた。
「ッ! そんなことはッ」
「だ、け、ど」
ハーシェリクは、クロの脳天に容赦なく手刀を落とした。




