第十二章 執事と騎士と血濡れの王子
ハーシェリクの目の前で、剣と短剣の刃が交差したのは一瞬のこと。
クロはすぐに間合いをとり、ゆらりとその場に佇ずんでいた。
「あの様子は……」
オランがギリリと奥歯を鳴らす音を聞きながら、ハーシェリクはクロから視線を外さないまま立ち上がる。
(やっぱり操られている)
ハーシェリクは確信した。
彼でなくとも普段のクロを知っていれば、今の彼が正常ではないと判断しただろう。
まず彼の纏う空気が、あまりにも普段と異なっていた。もともとミステリアスな雰囲気を持つ彼だが、目の前に立つ彼はありとあらゆる感情が消失し、人形のようだ。
さらに先ほどの零れた『守らなくては』という言葉。
彼が守る対象は世界にただ一人、ハーシェリクしかいない。あの発言は矛盾している。
普段から『忠犬』とも揶揄される彼が、主であるハーシェリクに刃を向けること自体、天地がひっくり返るほどあり得ないことなのだ。彼が正気ならば。
だからクロが自分の意思で攻撃したのではなく操られている、とハーシェリクは確信した。
それは己の騎士も同じだった。ゆっくりと短剣を構える彼に、オランが前に出る。
「タツ殿、大丈夫ですか?」
「……問題なく」
龍之丞は片手で腹を押えながら、鞘に納めたままの太刀を杖代わりにして立ち上がる。どうやら打撃をくらったのみで、血は流しておらずハーシェリクは安堵した。
「では、お願いします」
龍之丞が頷くのと同時に、オランはクロとの間合いを詰めた。
鉄と鉄がぶつかる音が、再度室内に響く。
オランが繰り出す鋭い剣を、クロは短剣で的確にさばくと同時に懐に潜りこみ、拳を突き出す。
それをオランはぎりぎりのところで身体を捻って躱し、剣の柄でクロの頭を狙う。昏倒を狙った加減された一撃のため、クロもあっさりと躱し間合いの外へと逃れた。
龍之丞は二人の剣戟を横目で見つつ、ハーシェリクの傍に駆け寄ると周囲を警戒する。
ハーシェリクはその場を動くことができず、ただ二人の戦闘を見ているだけしかできなかった。
(……やや、オランが劣勢か)
武の才能のないハーシェリクでも長年の訓練の成果か、優勢劣勢の違いはわかるようになった。
先ほどと同じに、操られているとわかっているクロに対して、オランは本気を出せないでいる。そのせいでやや押され気味だ。
しかし、やや劣勢程度で済んでいるのはクロにも要因がある。
操られているせいか、クロの動きに精細さが欠けていた。普段のクロなら、手加減をしているオランなどあっという間にあの世逝きである。
武器も短剣一本と素手のみ。彼が得意とする糸を使う様子もない。
(操られていると、魔力操作がおざなりになるからかな?)
まるで前世の時代劇番組でみた某仕事人のように糸を操る彼に、ハーシェリクは興味本位で聞いたことがある。
彼曰く、特殊な製法で作った鉄線に魔力を流し、強度や伸縮、切れ味を操っているということだ。
この国にはない技術のため、易々と話した大丈夫かと問うたところ、「この国でこれを扱えるのは俺くらいだから問題ない」と当然に言ってのけた彼。
曰く、魔力の量や操作能力だけでなく、他に能力と長い訓練が必要となるそうだ。魔法狂いのシロでも、簡単には扱うことは不可能だと言い切った。逆にシロの魔力量に鉄線のほうが耐えられないかもしれないと。
近距離での攻撃手段しかないオランに対し、鉄線での中距離の攻撃を仕掛けないクロ。操られている状態では、糸が操作できないということだろう。
だがそれでも、今の均衡を保つのがやっとだった。
「ッ! 正気に戻れ、馬鹿犬!」
焦れたオランが、感情が失せたクロに吠える。
しかしクロはオランの言葉も攻撃も淡々と躱し続け、彼の急所を狙い続けた。
(このままじゃだめだ)
ジリ貧でオランが負ける。それは確実だ。
(少しでもクロが正気を取り戻せれば……)
そういえば再会してから、自分は彼に声をかけていないとハーシェリクは気が付く。
正気に戻る可能性は低いが気が逸れるかもしれない、と思い口を開きかけたとき、ハーシェリクの足は地面から離れた。
「王子、こちらへッ!」
龍之丞の切羽つまった声についで、ぐえっと首への圧迫感。それも数瞬で、次は彼の逞しい背中に庇われる形となっていた。
どうやら自分は彼に子犬のように襟首を持たれ、背後に移動させられたらしいとハーシェリクは遅れて理解しる。
そして龍之丞と対峙するように、男が一人立っていた。ハーシェリクは龍之上の庇われながらも、背中越しで彼を観察する。
身長は大柄な龍之丞と比べやや低く、筋肉質ではない。全身黒一色の衣装で身を包み、髪もクロと同じ黒。まるで前世の世界の日本人で忍者を連想させる人物だ。視線を合わせないようちらりと見た瞳は、菫色だったが。
「あなたは?」
「初めましてハーシェリク王子。私は陽国に仕える者。名は『志狼』と申します」
言葉は丁寧だが、そこには一片の笑みもなければ敬意がなかった。ただ自分を値踏みしているのだろう、見られていることを肌で感じる。
「……それ以上近づけば、たたっ斬る」
龍之丞が警告を聞きながら、ハーシェリクは現れた人物――志狼の後ろ……戦いを続ける騎士と執事の様子を見る。
オランはこちらを気にしているが、クロは変わらず淡々と騎士の命を狙い続けている。
ハーシェリクはオランに視線で大丈夫だと合図をし、志狼へと視線を戻す。とはいっても視線を合わせぬ様、彼の喉元を見る用注意するが。
「お久しぶりです、龍之丞殿」
「久しいと言われても、拙者には記憶にはないが」
龍之丞は志狼に答えつつ、影の者なら陽国にいたときに監視されていたのだろう、と当たりをつける。自分が追放されたとき、理由も聞かず拘留され、船に載せられ大陸へ捨てられたのだから。
龍之丞の返答に志狼は肩を竦めるだけだった。
「あなたが、クロを操っているんですか?」
ハーシェリクの言葉に、志狼は無言で答える。しかしそれが肯定しているものと同意だった。
「すぐにクロを解放してください」
「なぜですか?」
ハーシェリクの要求に、志狼は問いで返した。要求しても拒否されるだろうと予想していた王子は、言葉を詰まらせる。
そんな彼に、志狼はさも当然のように言葉を紡いだ。
「アレは陽国の人間だ。死ぬまで陽国に尽くす義務がある」
そう言って一呼吸おくと、志狼はさらに続ける。
「それに、アレは光の王子殿にはふさわしくない……罪人だ」
「罪人?」
「国を裏切り、仲間を殺し……さらには親殺しに兄弟殺し。奴は血濡れている」
王子の問いに、唾棄するように、それでいて血反吐を吐くように、志狼は言い捨てる。
ハーシェリクは柳眉を潜めた。
彼の言葉が、真実か虚偽かもわからない。
だが彼の言葉は、ハーシェリクをひどく不快にさせた。
「……私は何があったか知らないし、それをあなたから聞こうと思いません。聞くとしたら、クロからです」
これまでクロは己の過去を話そうとしなかったし、ハーシェリクも聞きだそうとはしなかった。
その必要がなかったからだし、待っていたともいえる。
「それに私は、クロが裏切るなんて思えない」
過去を知らずとも、彼は出会ってから数年、誰よりも傍に存在した。
見返りも望まず、虚弱で何も持っていない自分に、誰よりも真摯に仕えてくれた。
それを侮辱する彼に、ハーシェリクは怒りを覚え、敬語をやめ見据える。彼の瞳の危険性も恐れず。
「でも、現に裏切った。あいつは、皆を殺した」
志狼も敬語をやめ、どこか自分に言い聞かすように言い、ハーシェリクを見下ろす。だがその瞳には若干の動揺の色が浮かんでいることを、ハーシェリクは見逃さなかった。
(……ああ、この人は、クロと近い存在だったんだ。だから)
「あなたもクロが裏切るなんて、微塵も考えていなかった。だから裏切られたと思ったとき……」
誰よりも絶望し怒りを覚えた。
最後までは言葉にしなかったが、伝わったのだろう。志狼の表情が強張る。
「もしクロが裏切ったと言うなら、先に裏切ったのは相手だ」
だからハーシェリクは断言した。
クロは冷静冷徹に見えて、その実は忠義に重きを置く人間だ。多少不当に扱われたとしても、簡単に忠義を覆すことはしない。それがハーシェリクから見た、自分が名を贈ったクロの本質。
ならば、彼の忠義という心の芯を折った、なにかがあったはずだ。
「……それは、我が国への侮辱か?」
怒りを含んだ志狼の言葉。だがハーシェリクはそれを鼻で笑う。
「さあ? でも先に侮辱したのは陽国だ。私の国と家族……そして配下を」
その覚悟ができているのか? と問おうとしたとき、背後の二人の均衡が崩れる。
「ぐッ!」
呻き声をあがった。
ハーシェリクが志狼から視線を移すと、オランの袖が裂かれ膝をついていた。間合いの外にいるクロは、それを冷めた瞳で見ている。そして短剣を持つ手の逆には、きらりと何かが光った。
(糸を!?)
操られて使えなかったんじゃない。あえて使わず、相手の隙を窺っていたのだとしたら……ハーシェリクは自分が読み違えたことを知る。
「オラン!!」
ハーシェリクは反射的に騎士の名を呼び駆け出す。
「王子!!」
龍之丞が手を伸ばすが寸でのところで届かず、ハーシェリクは志狼の横を通り過ぎ、騎士と執事の間に割って入る。
「やれ! 拾参!!」
志狼の言葉に、クロが短剣を煌めかせ、ハーシェリクに迫る。
「クロッ!!」
執事の主の声が響く。だが彼には届かなかった。
ハーシェリクは、それがスローモーションのように見えた。
クロの短剣が、容赦なく上から振り下ろされ、自分の胴を斜めに切り裂くのを。
「……あ」
自分の胸から血が吹き出し、言葉ともに口からも溢れる。そして支え切れなくなった身体は、背中から冷たい床に崩れ落ちた。
誰もが言葉を発しないなか、幼い王子から血が流れ続け、床に血だまりを作る。
「ハーシェ!!」
騎士が主の名を叫び、その身体を抱き起す。
淡い陽光のような金の髪は赤く濡れ、春の新緑を思わせる碧眼は固く閉じられている。元々色白だったが、顔色はまるで漂白された布のように真っ白だった。
己の騎士に抱えられた彼の腕は、力なく、地面へと投げ出されている。
オランは止血しようと切り裂かれ赤く染まった主の胸を押えるが、血は細い手を伝い、血だまりを作り続ける。その血だまりが、白い騎士服の裾を、赤く染めていく。
誰も動かなかった。遠くで扉が開く音がしたが、誰も気に留めない。
ただ血が流れれば流れるほど、クロの瞳が光を取り戻していく。
「なぜだ……」
オランが主を抱えたまま、かつての同僚に問う。
「なぜ、なぜ裏切った、シュヴァルツッ!!」
騎士の問いが、執事を正気に戻した瞬間だった。
しかし正気に戻ったにも関わらず、クロは目の前の光景に狂っていた。
己の守りたかった者が、己の手で赤く染まっていたのだから。
「あ、あ、あ……あああああああ!!!」
「……いやあああああ!!」
彼の絶叫と重なるように、少女の声も地下室に響き渡った。




