第九章 忠義と決別と金の瞳 その一
陽国本土、神域にある隠密組織の見張りの高台。その日の見張り番は手すりに組んだ両足を置き、椅子の背もたれに体重を預け、大きな欠伸をした。
もしこの場に、教育係りの先輩がいたならば叱責ものだろうが、生憎任務のためいない。むしろ見張り番の仕事は、教育係りがいない時に振られることが多い見習いの仕事だ。
見張り役はそれなりに重要だが、同時に暇な仕事でもある。
隠密組織というだけあって、ここが襲撃されたことは過去一度もないからだ。
ここで過ごす見習いの様子は様々だ。真面目に任をこなす者、瞑想する者、書物を持ち込み勉学に励む者……そして彼のように怠惰に過ごす者。もちろん怠惰に過ごすとしても、周囲への注意は怠らないが。
今日も暇で楽な任に着き、沈みかけている夕日を眺めながら、夕飯のおかずに思いを馳せていた見張り役は己の目を疑う。
茂みが少し揺れたかと思うと、一つの影が現れ、組織の門扉の前で倒れたのだ。
見張り番は目を凝らすと、影の正体が見習いたちのなかで一等憧れを集める人物だとわかった。
能力が十二分にあり、歴代最高とも言われる糸括りの能力。若くして時期幹部確実と言われ、長や幹部たちからも信頼厚い。さらになんだかんだいいつつも、後輩の面倒見もいい良き先輩なのだ。
見習いになる前、誰もが彼に憧れ、彼が教育係りになってくれるのを願っていた。それが叶わず落胆し、彼の下についた者に嫌がらせをしたこともあったが返り討ちにあい、その彼は既に最下位だが幹部候補に格付けされている。
もし自分が彼の元についたら、自分がなっていたかもしれないと思うと、嫉妬心に駆られるが、それが彼の成長を妨げていることを、彼自身は気が付いていない。
そんな憧れの先輩が倒れていることで、本来ならまず組織への連絡することが鉄則なのに、それを失念してしまったのが彼の失敗だった。
「拾参番さん、どうしましたか!?」
「……十宮領で、不測の事態が……すぐに、嶺様にお知らせしないと」
そう言った彼の顔色は青く、微かに血の香りがした。
月影の者の衣装は総じて黒が基本だ。それは隠密という任につき、闇夜に紛れるためである。
そのため血を流していても、わかりにくい。
泥で汚れ血の匂いのする彼に、まだ任務についたことのない見張り番は気が動転する。
原則、任務は長と上位の幹部、そして任務を拝命した者しか、内容はわからない。優秀な彼が任務に失敗した上傷を負ったとは、どれだけ困難な任務だったのか。
「いそが、ないと……ッ!」
「! 僕に掴まってください!」
無理にでも上体を起こそうとし崩れる彼に、見張り番は慌てて手を差し伸べる。
彼に肩を貸し立ち上がると、すぐ傍に憧れの彼の整った顔立ちがあった。
「ありがとう……」
そう微笑まれ、つい見張り番は嬉しくて頬を染める。憧れの人に感謝されれば、嬉しくて誰でもなるだろう。
そしてふわふわした気持ちのまま、彼と門扉を潜った瞬間、見張り役の意識は途切れた。
気持ちよさそうに寝息を立てる見張り番に、クロはため息を漏らす。
彼が自分に憧れて、弐拾四番にもちょっかいを出していたことは知っていた。実力も精神も未熟で、経験値も低いため騙すことはできるだろうと踏んでいたが、ここまで簡単だと今後が心配になった。
そこまで考えてクロは自嘲する。
同僚に手をかけた自分が、なぜ組織の心配をするのかと。
まだ自分は組織を信じているのか。己から親も国への忠義も奪った月影を。
頭では分かっていた。これが無駄な行為だと。だが心がついてこなかった。
脳裏にチラつくのは、長年親代わり、兄代わりとなった長の顔だ。
もしかしたら無鹿の独断で、十宮や月影を嵌めようとしているのかもしれない。そう考えてしまうほど、クロは彼への信頼を捨てることができなかった。
(……確かめる)
クロは怪我を偽装するための血の匂いがする匂い袋を捨てる。
施設内で血の匂いがすれば、それに気が付く者もでてくるだろう。自分の侵入が発覚するのは、できるかぎり遅い方がいい。
クロは見張り番を木陰に隠し、自分は音を立てずその場から離れた。
数分後には、誰にも気づかれず、音もなくクロは嶺の部屋へと侵入を果たす。
ただしそれもここまでの話だった。
「……許しもなしに部屋に入るな、拾参番」
机の上に広げた書簡を見たまま、嶺は言う。
それは感情の欠片も感じとることができない抑揚のない声だった。
その声音にクロは覚えがあった。まだ嶺が幹部候補で自分の教育係だったとき、失敗した己に叱咤するのではなく、そう静かに声をかけたのだ。他の者が教育係に怒鳴られているよりも、背中を這うような恐怖を感じた幼き頃。
「嶺様……お話があります」
当時の頃を思い出し、後ずさりそうになるのを堪え、クロは絞り出すように声を出す。
「なるほど」
その一言に、クロの肩が一度震えた。
まだ何も言っていないのに、すべてを理解したかのように嶺は言葉を続ける。
「無鹿は死んだか」
嶺はそう言うと、見ていた書簡を片付け、机の脇に積まれていた書簡に手を伸ばし、広げて目で文字を追う。
そして、何事もなかったように言った。
「で、なんだ?」
「……なんだ?」
いつも通りの、何事もなかったような声。普段なら通常なのに、今は異常としか思えない言葉だった。
この言葉に、クロはすべてを悟った。
だがそれも、問いを口にする。
「十宮の件は……当主暗殺は、神子姫様の采配を受けてのことだったのですか?」
クロの問いに、嶺は呆れたように小さくため息をつく。
「神子姫様に、このような些細なことを報告し、心労をかける必要もない」
「!!」
それは、神無月……父が言った通りだった。
十二華族の当主暗殺を、神子姫の裁定なしに行うことは、越権行為である。
だがそれよりも、クロはそれよりも衝撃を受けたことがあった。
「なぜ!? 俺は、十宮に叛意なしとッ!!」
自分の報告を無視し、嶺は十宮暗殺の実行に踏み切った。
クロにとって、嶺はこの世で一番信用していた人間だ。この任務に立つ前に信頼の言葉をかけてくれた人間だ。
だが、その時点で、彼は自分を偽っていたのだ。
その事実が明らかになり、クロは自分が思っていたよりも、動揺した。
だがそんなクロに、嶺は鋭い視線を向ける。
「我らを否定する者が、叛意なしだと?」
室内に音が響く。それが怒りのまま、嶺が拳を机に叩きつけた音だと理解するのに、クロは数秒を要した。
「我らが長年、どれだけの犠牲を出して、陽国を守ってきたことか!!」
過去に見たことがない、憤怒の感情をむき出しにし、嶺は言葉を続ける。
「なのに、十宮当主はそれを否定した。十二華族の当主という安全な場所で胡坐をかき、我らの滅私奉公を否定したのだ!」
ちがう、とクロは否定したかった。だが、嶺の怒りにのまれ、口からは空気が通り抜ける擦れた音しか出なかった。
「血も流さない口だけの男に、我らを否定されるいわれはない」
そう言い、感情を抑えるかのように、息を吐きだす嶺。そしていつもの、感情の読めない冷めた視線でクロ見て、言葉を続ける。
「先人たちは国に殉じた。我らも国に殉じる。それが定められた我らの運命だ」
それがすべてだと嶺は断言し、その言葉にクロはすっと覚めるように、動揺が消えた。
(……ああ、そうか)
『それは私たち、十二華族の罪だ』
父の言葉が今になってわかった気がした。
(嶺様のような人間を作り出してしまったことが、父上は罪だといったのか)
誰が悪いでもない。しいていえば、時代が悪かったのかもしれない。
『月影』は国を維持するために、生涯忠義を尽くすために、そして危険な能力を持つ者に首輪をつけるために作られた。
赤子から『それが正しい』と育てられた皆は、それを疑うことをしない。それが自分たちの存在意義だと。
だからそれを否定し新しい時代へと進もうとする開国派は、組織の存在意義を否定する悪なのだ。
(ちがう、ちがう、ちがう……)
クロは心の中で否定する。
「……ちがう」
それはいつしか声となった。
真っ直ぐと嶺を見て、クロは断言する。
「父上は、俺たちを否定していなかった」
父は国の現状を憂いていても、国の全てを否定していなかった。組織を否定することはなかった。
「国の行く末を本当に憂いていた」
ただただ国の行く末を、そして子どもたちを心配していた。
そしてそれを変えようとしていた。権力でも暴力でもなく、他国との交流と知識を得ることによって。無血で国を変えようとしていた。
「あなたは、否定されるのが怖いから、父上を私欲で殺したんだ」
二宮にそう唆されたのかもしれない。だが、それでも父の暗殺を決定したのは、目の前の男だった。
「……残念だよ」
そう嶺が漏らした瞳を細めると、彼は蝋燭の炎のように揺らめき、吹き消すように掻き消える。
「ぐっ!?」
次の瞬間、クロの背後から伸ばされた腕に羽交い絞めにされ、喉を圧迫された。
クロは嶺の腕を掴みもがくが、彼の腕はびくともしない。
(しまった……ッ!)
嶺の能力『幻視』
視線を合わせた者に幻覚を見せる能力だ。ただ幻覚を見せるだけではない。視覚だけでなく、聴覚や嗅覚、触感も惑わせる。
怒りを露わにしたように見せて、その実は視線を合わせるように誘導されたのだ。
クロは戦闘能力だけなら、長ともいい勝負が可能だろう。だが、経験値に圧倒的な差があった。
「十宮の血筋は、神無月……神の字を持つ血筋。多くの瞳持ちを輩出する。いい手駒になると思ったんだがな」
そう残念そうに嶺は呟く。ただそれも落胆という感情を毛程も感じ取ることはできなかったが。
「は、はじめから……」
首を絞められて息が苦しくなり、視界が狭まりながらも、クロは呻く。
それに嶺は鼻で笑った。
「ああ。とはいっても魔眼などありきたりな能力だったお前には、あまり期待していなかったが、思ったよりも使えた。ただこうなっては、弟も処分するか」
(弟……希流!)
嶺の言葉に、弟が生きているとクロは確信した。しかし、嶺の首を絞める腕にさらに力が入り、意識が遠のいていく。
「今までご苦労だった、拾参番……いや、十宮紅蓮」
そう耳元で囁かれた瞬間、クロの脳裏には走馬灯が映る。
嶺との思い出、同僚たちのとの切磋琢磨の日々、幾多の任務、父と母の顔……そして、なぜか弐拾四番の顔。
「兄貴!!」
幻聴まで聞こえたと思った瞬間、首からの圧迫が消え、クロは前のめりに倒れ込む。膝を付き手をついて、なんとか身体を支えたが、身体が求めていた空気を急に得たため、咳き込んだ。
「くはっ、はっ、はっ……」
背後では、刃と刃が重なる音が響く。
「なぜここにっ!?」
「全部視えているからだよ、クソ野郎!!」
普段なら注意するだろう言葉遣い。だがそれが、なぜか懐かしく、心地よく聞こえた。
「うわっ」
弐拾四番の声と同時に、吹き飛ばされたのだろう激しい音が響く。
「これだから……ガッ!!」
嶺が何かを言い終わる前に、クロの糸は彼を絡め取った。
四肢はもちろん、己がやられたように首を絞める。
「嶺様」
クロは立ち上がりながら、彼と向き合った。
ギロリと彼が睨んだが、クロは動じない。
すでに嶺の生死を握るのはクロだ。幻視を使われようとも、嶺の身体を捕まえた感触は、糸を通してわかるし、幻が入り込むような動揺はすでにない。
「長い間、お世話になりました」
クロは嶺に最後となる言葉を投げ、お辞儀をする。
嶺は諦め瞳を閉じた瞬間、クロは小刀を投げつけ、彼の眉間を射た。小刀には致死毒が塗ってあり、嶺はすぐに動かなくなった。
(俺は、生みの親を見殺しにし、育ての親も殺したのか)
自分の命を守るには、仕方のないことだった。
しかし相手が自分を利用しようとしていただけだとしても、過去、彼と共に過ごした日々に抱いた感情は消えない。
ただ今は虚しさだけが残った。
(俺は……)
「ああ、痛かった……兄貴、大丈夫?」
クロの思考を、弐拾四番の声が遮る。
「ああ……弐拾四は、なぜ……」
立ち上がる気配がしてクロが振り返り、なぜここにいるのか、なぜ自分を助けたのかを問おうとした瞬間、クロは言葉を失った。
弐拾四番の目隠しが取れ、彼の瞳が露わになっていた。




