第一章 雪解けと街並みと成長 その一
グランディナル大陸の北方に位置する大国グレイシス王国。
かつて周辺諸国より『憂いの大国』と呼ばれていたこの国は、陰から牛耳っていた大臣が倒れたことにより、徐々に大国の名に恥じぬ国へと変わろうとしていた。それはまるで長き冬を乗り越え、春へと変わる今の季節のようである。
そんな春へと移りゆく証拠のように、雪が解けて泥にぬかるんだ道を進む影が一つ。
朝というには遅く、昼前というには早い時刻に、その道を行く者は珍しい。
なぜならその道はいわゆる花街の道だからだ。夜は夢のような一夜を求める者、もしくは夢を売る者で溢れているが、朝から昼過ぎまでは静かになる、昼夜が逆転したような場所だからだ。
そんな道を小走りに進む影は小さい……子どもだった。
淡い色合いの金髪が揺れて陽光に反射し、宝冠のように輝く。
今や王都で……否、王国で知らぬ者はいないであろう、存在である。
「あれは……」
そんな存在を静まった花街の娼館の二階の窓からみつけた者がいた。
髪は孔雀石を溶かしたような、光りの加減により変わる緑。瞳は暗い茶色で、左の瞳の下には縦に並んだ黒子が二つ。とても整った顔立ちだがどこか軽薄な印象を与える青年だった。
シャツは着ているがボタンは閉めず、その隙間から見え隠れする筋肉が、彼が只者ではないことを語っていた。ただ、窓枠に腰かけ煙草を一服する姿は男娼よりも色気が漏れており、目にした女は悩ましげな吐息を漏らすだろう。
そんな女性を虜にするような容姿や肉体を持つ青年は、道を進む子どもを見つけて、つい口の端を持ち上げた。
顔見知りの子どもだったからだ。
そのまま道を進む子どもを観察していると、彼が雪解けの泥に滑りこけた。
咄嗟に両手を突き出して身体を支えたため、顔面から泥へと飛び込む惨事は逃れたようだが、それでも服は泥まみれとなってしまったようだった。
転んだ程度で泣く子どもではないが、つい心配してそのまま観察していると、彼はゆっくりと起き上がり、服を己の服を見て、大きく肩を落とした。そして慌てて周りを見回す。自分の失態を見られていないかと、確認するためのように。
子どもがゆっくりと視線を上げて、窓枠に腰かけた青年と目が合う。
幼くとも一般人とは一線を画す美しい顔立ちに嵌った春の新緑のような色の瞳が、零れんばかりに見開かれ、数拍ののち誤魔化すように笑った。
青年はその微笑みに返すようににやりと口角をあげ、煙草を持たぬ手で自分の頬をつついて見せた。
それに子どもが己の頬を触ると土がべたりとついていて、慌てて袖で擦るが、袖にも泥がついていたため、彼の白い肌は台無しになる。
「ぶふっ」
つい噴出してしまった青年。
笑ったことに気分を害した子どもが睨んでくると、青年は片手で謝る。
子どもはそれに満足し、手を大きく降って、その場を後にした。
青年は子どもの小さくなっていく背中を見送り、再度煙草を咥える。その口角は上がったままだった。
「朝からご機嫌ですこと」
そう言いながら、昨晩寝台を共にした女が、青年の腕に己の腕を絡ませながら言う。衣服として意味をなすのか怪しい薄い夜着越しに、己の胸を青年に押し当て、彼の空いたシャツの隙間に手を忍ばせ、彼の胸板を撫でた。
「だって君と素敵な時間を過ごせたから……と、君はご機嫌ななめ? 俺では満足できなかったかな?」
女の眉間に微かに皺が寄っていることを見逃さず、青年は窺うように問う。
「起きたら、あなたが隣にいないんですもの……寂しかったわ」
そう可愛らしく、やや芝居がかった動作で胸板をつつきながらいじける仕草をする女。
もちろん本気ではない。彼女はこの娼館の娼婦。これも仕事のうちなのだ。それをわかっていても、青年は彼女の言葉に乗る。
「それは悪いことをした……君を傷つけた馬鹿で哀れな男を、君はどうすれば許してくれる?」
彼も演劇のようなセリフを言って微笑み、彼女のこめかみに口づけを落しながら、煙草を灰皿へと置く。
「君がためなら、王都中の花を買い占めて、跪いて許しを請うよ」
「相変わらず口がお上手ですこと」
ぷいっと顔を背ける女。そんな彼女の耳元に、青年は囁いた。
「口だけ? 君が望むなら……」
そう言いながら青年の手は、女のくびれた腰を撫でと、その手を女はぴしゃりと叩いた。
「あら、もう時間ね。これ以上は追加料金。また財布を重くして夜に会いにいらして」
女はそう言って先ほどの甘い雰囲気とは打って変わり、にやりと笑って男から離れる。
どうやらこの部屋の夢の時間も終わりのようだ。
「あーあ、世の中は金ばかりでせちがらいねぇ」
そう呟やく内容とは裏腹に、青年は笑いながら灰皿に置いてあった短くなった煙草を咥えると、肺いっぱいに紫煙を吸い込むのだった。
グレイシス王国の王都中心部より離れた場所にある孤児院。
その門を通り抜けたのは、仕立ての良い衣装に所々泥がついた、年は学院入学前の少年だった。
彼はこの国の第七王子、ハーシェリクだということを王都中の人間が知っている。
金髪に碧眼、王族の中では地味だと言われても美しく愛らしい顔立ち、身長は低く華奢で、保護欲を掻き立てる。
ただか弱く軟弱な王子かと問われれば、皆が一様に首を横に振るだろう。
彼の王子は見た目とは裏腹に、自ら危険へと先陣を切って飛び込んでいくような王子だからだ。
現に彼のおかげでこの国は救われたのだから。
ただ王子の腹心たちは「少しは自重してくれ」と嘆いているが。
そんな王子ハーシェリクには、人には言えない過去がある。正確にいえば、過去ではなく前世だ。
この世界とは別の世界の、地球と呼ばれる星の日本と呼ばれる島国で、とある会社に勤める事務員だった。
現実より空想を好む、三次元の異性より二次元のイケメンに懸想する、どこにでもいそうな三十代のオタク干物女、早川涼子だった。
そんな涼子がついにアラフォーとなる三十五歳の誕生日の前日、交通事故に遭い、気がついたら剣と魔法があるこの世界の、大陸一の大国の王子に生まれ変わっていた。
性別が変わってしまったが、流行小説の王道のような事態に、涼子もといハーシェリクは宝くじが当たったが如く、文字通り第二の人生を謳歌しようとしたが、そんな都合のいい話ではなかった。
生まれ変わったこの大国は、貴族たちの専横により食い荒らされ、父である国王は家族や大切な人を人質に操り人形と化していた。そして国民は圧政に苦しみ、その不満や憤怒は王族へと向かった。
もしこれが小説ならば、生まれ変わったハーシェリクに天分の才能や膨大な魔力に恵まれ、国を救うことができただろう。
だが彼にそんなお約束はなかった。
運動能力は人より劣り、武技のセンスは皆無、魔力は欠片もなく、容姿は整っているが王族のなかでは地味で残念という、ゲームの難易度でいうところの難しいモードを飛び越え、超激難モードで転生したのだった。
だがそれでもハーシェリクはやらなければならないことがあった。
ハーシェリクは前世の知識や事務員スキル、そして持ち前の行動力で、国と家族を助けるために行動を起こした。
そして頼りになる腹心たちとともに、様々な困難を乗り越え、国を救い、現在の平和を手に入れたのだった。
誰もが認める大団円だろう。
まだまだ問題は山積みだが、それでも国や家族の危機は脱した。
そんなハーシェリクの日課でありお楽しみは、城下町へと出かけることだった。
本日も城を抜け出して、途中ずっこけつつも懇意にしている孤児院へと訪れた。
「おはようございます!」
門を通り抜けると人影があり、ハーシェリクは元気よく挨拶をする。
挨拶は人間関係を円滑にする基本だということを、彼は前世での経験を元に身に染みて知っていた。もちろん打算など関係なく、大きな声で挨拶することに抵抗はないが。
そんな彼を出迎えたのは、孤児院……創設者の男爵の名をとりアルミン孤児院の管理をオルディス侯爵家から任されている初老の男性である。元は王国軍の隊長職を担っていたが、年を取って古傷が痛むことから退役、オルディス侯爵家に雇われて妻とともに孤児院の管理をしている。
元隊長ということもあり武技に秀で学もあり、貴族ではなく性格も温厚なため子どもたちにはすぐに受け入れられた。結婚はしていて子どももいるが、すでに成人しているため家にいない。そのため我が子の幼い頃を思い出し、孤児院の子どもたちを我が子のように接している。子どもたちも最初は緊張していたようだが、今は彼の妻も同様懐いていた。
退役してもなお『烈火の将軍』と国内外で恐れられているオルディス家当主、ローランドの軍の精鋭であり、昔はやんちゃだったと聞いたがその面影はない。
「おはようございます、殿下。なぜそんなお姿に? まさか……」
地味ではあるが生地は上物のポンチョを泥で汚した幼い王子の姿に、彼は首を傾げつつも眉間に皺が寄った。
自分の子どもは彼くらいの年頃のときは、外で遊んでは汚したり破れたりして帰宅し、毎日のように妻から大目玉をくらっていたが、ハーシェリクはそんな子どもらしい子どもではない。
だが己から危険に飛び込んでいくという、知る人は知っている事実、というよりは前科がある。
もしハーシェリクが何らかの危険な目に遭いそうならば、すぐに元上司に報告せねばと思ったのだ。
彼の思考を察してか、ハーシェリクは慌てて首を横に振った。
「ここにくる途中で、ちょっと転んじゃっただけだから! 怪我もしてない大丈夫だよ、本当に!」
実際は七歳。中身は三十路をすぎているため、いい歳をして転んだことが恥ずかしく、色白な頬をやや染めるハーシェリク。
(本当に恥ずかしい……)
前世、三十を過ぎたころに廊下に置かれた物を跨ごうと足を上げたが高さが足りず、引っかかって盛大にこけ、それを元上司の社長に目撃されたとき並みに恥ずかしい。
「それよりもみんなは?」
早く話題を変えようと、ハーシェリクは視線を動かしながら問う。
「朝食を終えたところで、まだ家にいると思いますよ」
「わかった、行ってみるよ。ありがとう!」
お礼を言ってハーシェリクは建物へと向かうと、彼の言ったとおり食事を終えた子どもたちが建物から出てきた。朝食と勉強や稽古事が始まるまでの自由時間である。
自由時間といっても、年嵩の子どもは片付けなど孤児院の手伝いを自主的に行っているため、飛び出してきたのは年少の子どもたちだけだ。
「あ、リョーコくんだ!」
一番初めに飛び出してきた少年が、ハーシェリクを目ざとく見つけ駆け寄り、後から出てきた子どもたちも続く。ハーシェリクはあっという間に子どもたちに囲まれた。
「おはよう!」
「リョーコくん、おはよ!」
「今日はどうしたの?」
「お仕事?」
「遊んでくれる?」
「ご本読んで!」
我先にと言葉を紡ぎ、逃がさないとばかりにハーシェリクの腕や泥のついた服を掴む子どもたち。
かわいらしい行動と、王子と知っても仮の名で呼んでくれる子どもたちに、ハーシェリクは嬉しいような、こそばゆいような気持ちになる。
「おはよう、みんな。今日は午前中いられるから、遊ぶのはあとでもいいかな?」
その言葉に子どもたちは渋々手を離し散っていく。だがすぐに笑い声が聞えてきて、ハーシェリクは笑みを浮かべた。
理想にはまだ追いついていないが、創設者が望んだ風景が広がっている。
だがその創設者であるアルミン男爵は、もうこの世にはいない。
約三年前、この孤児院は経営難に瀕していた。アルミン男爵はその難を乗り越えるために、金を欲し、悪事に加担し、口封じに殺された。ハーシェリクもその事件に関わり、男爵が殺害されるときもその場にいた。
誰もがハーシェリクに責はないと言う。事実、ハーシェリクが孤児院の現状に気がついたときは、すでに手遅れだった。
アルミン男爵は事業が傾き貧窮し、孤児院の経営も行き詰まり、薬物の売買に手をだしてしまった。
ただ後々調べれば、それはすべてが巧妙に仕組まれたことだった。
事業が傾いたことも、国からの補助金が支給されていなかったことも。補助金は担当者が横領していた。担当者はすでに法的罰を受けているが、僅かでも補助金があれば、彼は悪事に手を染めずに留まることができたかもしれない、とハーシェリクは考えてしまう。
数拍後、鬱々とした気持ちを振り払うかのように、彼は頭を振る。
(過去を悔やんで止まったら意味はない。今やれることをやる)
あの時ああすればよかったこうすればよかった、と思うことは大切だ。その思いは、未来への糧と楔になる。だがそれに囚われてしまっては意味がない。
(アルミン男爵、必ずこの孤児院を……いや、私は子どもたちを必ず守るよ)
これはこの孤児院だけの問題ではないのだ。王国の潜在的で根本的な問題でもある。
子どもだけでなく、王国の未来を守るために、ハーシェリクは動かねばならない。
ハーシェリクは決意を新たにし、建物へと入って行った。