第七章 月影と拾参番と十宮 その二
任を受け五日後、闇夜に紛れクロは十宮の敷地内に侵入した。
陽国は群島諸国であり、各十二華族が治める島へいくには、船以外の手段がない。急ぎではあるが、猶予のある今回の任務に、特別に船を出しては相手に悟られる可能性があるため、通常の運航に紛れてクロは上陸することを選んだ。
情報収集するときは、目だった行動は厳禁である。日常に紛れ、相手に情報が漏れた事さえも悟らせないのが、一流の仕事だとクロは自負していた。
手入れされた庭園を音もなく駆け抜け、屋敷の壁へと背を預ける。すぐ傍には窓掛けが下ろされた窓がある。
(さて、どう調べるか)
屋敷の外観は、昼間のうちに調べた。だが間取りは難しかった。国内のあらゆる情報を収集蓄積する月影でも、十二華族の屋敷の内部の最新情報は少ない。古いものはあっても、調べたとしても改装や改築されては意味がない。
それに十宮は陽国ができてからこれまで、内偵が一切入ったことがないほど、清廉潔白な一族だ。
武を主とする他華族と比べ派手な功績がないは、医療や農耕分野での研究成果は著しく、神子姫からの信頼も厚い。
(なのになぜ、謀反の疑いが?)
普段の任務なら、疑問にも思わない。だが今回の任務は、いつもと何かが異なる気がしたのだ。
クロの脳裏に疑問が過った瞬間、足元で枝が折れる音が響く。クロがはっとした時、壁を隔てた室内から、人が動く気配がした。
「……誰かいるのかな?」
男の声だ。疑問の体をしているが、第三者がいることを確信している声音だった。
(どうする? 一旦退くか? それとも口封じするか?)
どちらにしても、任務は失敗であることは間違いない。
「ああ、黙っているということは、影の者か。私を殺しにきたのかな?」
クロが決断する前に、男が言葉を紡ぐ。殺されるかもしれない、と思っている割には声に恐怖を帯びることはなく、むしろ暢気な声音だった。
「これも黙して答えるか。困ったな……」
すぐ傍の窓掛けが上げられる。
「とりあえず、姿を見せてくれないか。大丈夫、ここには私しかいない」
その言葉にクロは観念した。既に相手にばれているなら、内偵などできるはずもない。相手は既に影の者ということを確信している。ならば逃げ帰るなど許されない。この場で処刑されるか、自害するかだ。捕縛されて組織に迷惑はかけられない。
ここで自分が死ねば、組織への被害は最小限で済む。
(驕りがあったか)
内心、自嘲する。番付に拘っているつもりはないが、どこかに驕りがあったのだろう。
諦めの境地で、クロは壁から背を離し、窓の前へと立った。死ぬにしても、自分の存在を見破った男の顔を見たかったからだ。
年は四十代中頃の壮年の、質のいい生地であつらえた着物を着た男だった。さらに月影の存在を知る者は神子姫、神子付きや本島で要職に着く者の一部、そして華族の当主やその側近のみである。
クロは彼が十宮の当主『神無月』だと確信する。
その男――神無月はクロが薄く雲を纏った月を背に姿を現すと目を一瞬だけ見開き、だがすぐに目を細め微笑んだ。
「……やはり、影の者だね」
確かめるように言い、神無月は部屋へと戻る。そしてクロに手招きをした。
「外だと誰かに見られるかもだし、とりあえず入りなさい。お茶でも飲むかね」
そう言うクロに背を向け、机の上に用意してあった茶器に手を伸ばし、手際よく準備をはじめた。
クロは躊躇いつつも、窓枠に手をかけ、部屋へと入る。
「散らかっていて悪いが、適当に座ってくれ。これは海を渡った先にある、グレイシス王国という国のお茶だ。我が国は緑色の茶が多いが、彼の国ではその茶葉を発酵させているため、こういう赤い色になるそうだ。この国の茶もいいが、外国の茶もなかなか美味だ」
室内には神無月の落ち着いた声と、茶器が微かにぶつかる音が響く。
クロが周りを見回せば彼の言う通り、机だけでなく椅子にも本や書類が積まれ、棚にはこの国では見たことのない道具や飾られている。床が見られるだけマシだと思えるような有様だった。
「なんだ、まだ座っていないのか」
準備ができた神無月が呆れた物言いをすると、椅子の上の本をどかして、クロの傍に置き茶も机に置く。そして自分もクロと向かい合うように席に着いた。
クロは混乱の渦中にいた。どう対応すればいいかわからずにいた。生まれて初めてのことだった。
「ん? どうした、飲まないのかね。とりあえず立っていられても気になるから、座ってくれないか」
それでも座らないクロに、神無月は少し考えたあと、にやりと笑う。
「……それとも、私が怖いのかな」
クロは若干片眉を顰める。その表情に気がついているだろうに、神無月は続けた。
「こんな武器も持たない老いぼれを怖いと思うほど、組織の者は軟弱になったのかな? そうじゃなければ余裕を見せたまえ」
クロは言葉に数拍置いたあと、どうせ死ぬのだと思い、席にどかりと座った。その様子に神無月は笑いを堪えつつ、茶を進める。
「とりあえず、茶でも飲んでみなさい」
そう言って自分も茶を啜る。しかしクロは茶器に手を伸ばそうともせず、神無月は小さくため息をついた。
「砂糖代わりに毒なんて入れてないから安心しろ。それに影の者なら毒の耐性もつけているだろう? なんなら私が口を付けたのを飲めばいい。それともやはり私が怖いのかな?」
明らかな挑発に、クロは怒りが湧いてくる。もちろん全てが己の失態のせいなのだが、この男相手には今までに感じたことのない感情ばかりが湧き出てくる。
死ぬなら自害も毒殺も変わらない、とクロは茶器に手を伸ばし、一気に呷った。
陽国にはない、さわやかな味わいと香りが口内を見たし、胃へと流れていく。
(……うまい)
空になった茶器を凝視したまま、初めての味にクロは固まっていた。
「ふふ」
そんなクロの耳に笑い声が届く。睨みつければ、正面で神無月が口元を手で隠していたが、その目を見れば彼が笑うのを堪えているのがわかった。
「いや、笑って悪いね……夢が一つ叶った」
そう神無月はぼそりと呟く。クロが訝しげな視線を向ければ、彼は微笑んでそれを躱した。
「さて、君の用件は私の暗殺でなければ、謀反かどうかの内偵だね?」
その一言でクロに緊張が走り、片手には音もなく短刀が握られた。
「そんなに驚かないでくれ。武器もしまってくれればありがたい」
「……なぜだ」
クロが武器を仕舞わず、低い声で問いただす。だがクロの表情とは対照的に、神無月は相好を崩した。
「ああ、やっと声が聞けた」
笑顔だが、今にも泣きそうな表情だった。クロは射貫けるような厳しい視線と短刀を向ける。
「ふざけるな」
「ふざけてはないよ……二つ目の夢が叶った」
ぼそりと呟くと、神無月は己の茶器に残っていた茶を口に運び、一口含むと再度口を開いた。
「まあ、なんとなく想像はつくよ。きっと二宮のあたりからの密告だろう。即暗殺とならなかっただけ、組織の公正な部分には感謝だ」
無言のクロに、神無月は茶器を置いて続けた。
「君は、この国が三つに割れていることを知っているか?」
クロは態度には示さなかったが、そのことは知っていた。
この国は三つの派閥に割れている。鎖国状態をよしとしない開国派、現状を維持しようとする保守派、どちらにも属さない中立派。今はどちらかといえば、開国派が有利だ。
先代神子姫の命により、一宮の一姫が外の国、大陸一の王国に嫁いだ。それにより、王国のみ交易をしている。その窓口となっているのはこの十宮だ。
「まあ言わずとも、この部屋の有様を見ればわかるだろうが、私は開国派だ」
芝居がかったように、神無月は盛大にため息を漏らす。
「開国派でも、一宮には手を出しにくい。武闘派揃いの八宮に手を出すのは、報復が怖いのだろう」
一を姓に持つ家に喧嘩を売ることはできない。
八宮は以前、別家に理不尽な事をされ、その華族に報復した過去があり、恐れられている現在は神子姫の取り成しにより表面上は穏やかだが。
「なら十二華族でも下の十宮に嫌がらせをしようというわけだ。御三家の当主とあろう者が情けない」
やれやれ、と神無月は首を振り、少なくなった自分の茶器に茶を注ぐ。ついでにクロの茶器にもそそいだ。
「……下界の国に媚びることは、神子姫様の忠臣として恥ずべきではないのか」
開国派は他国に媚びる売国奴だ、と組織内でも囁く者がいる。彼ら曰く、王国より仕入れた外来品は珍しく、高値がつき市井に出回ることはほとんどない。
開国派は王国に媚び諂い、神子姫様を蔑にして、利益を独占しているのだと。
「媚びる?」
クロの言葉に、神無月は首を傾げつつ、茶を飲み干す。
「媚びるとは、己が下だと思っているからこそ出る言葉だ」
そうからかうように神無月は言い、茶器を机に置いた。ふとクロが目を吊り上げているのを見て、机に立て肘をつき呆れてみせる。
「怒るな怒るな。まだ子どもだな」
「俺は……!」
今にも飛び掛かろうとするクロに、神無月は犬を追い払うように片手を振った。
「今日はもう遅い。君にも任務があるのはわかるが、老体にはきつい。続きは明日以降にしよう」
「あなたに指図されるいわれはない! それに老体というほど年を取っていないだろう!」
「怒鳴るな怒鳴るな。家の者が起きてしまう。それは君も都合が悪いだろう?」
神無月が言う通り、遠くから足音が近づいてくる音が聞こえる。
「ほら、家の者が起きた」
「ちっ」
クロは舌打ちすると身を翻し、窓から外へと出る。そんな背中に神無月は言葉を投げた。
「内偵の任務があるだろう。また明日くればいい」
当主本人に聞けば話は早かろう、と神無月は笑いを含んだ声音で言葉を続ける。
「この時間なら、私は大抵この部屋にいる。茶と菓子でも用意しておくよ……そういえば、君の名は?」
「影の者に名などあるわけないだろう」
クロは当然のように答えた。番付はあってもそれは名でない。それに短期のうちに変動もする。月影に所属する者にとって、名は重要ではない。
「……そうか」
クロは駆けだし、神無月の答えが微かに聞こえただけだった。
彼は知らなかった。当主が悲しそうな表情をしていたことを。
クロが闇に溶け消えた頃、十宮家の家令が現れる。
「お館様、声が聞こえたのですが、どうかなされましたか?」
「庭先に『子犬』が紛れこんでいただけだ。問題ない」
神無月は庭に視線を向けたまま、そう家令に素っ気なく告げた。だが主の言葉に、家令は眉を顰める。
「子犬……野犬でございますか?」
「ああ、黒い可愛らしい子犬だ。もう住処に帰ったみたいだが」
能天気な主の物言いに、家令は首を横に振った。
「子犬でも野犬が屋敷に入り込むのは問題かと。明日にでも壁の点検や警備を……」
「必要ない。それから屋敷の皆に通達しておけ。もし見知らぬ『子犬』を見つけても、無視するようにと」
当主の言葉に、家令は察した。その『子犬』は、ただの野犬を指していないことを。
「……お館様」
「命令だ……ああ、それと明日の夜、夜食に茶と菓子も用意しておいてくれ」
咎める声音の家令に、神無月は当主らしく厳かに言った。