第七章 月影と拾参番と十宮 その一
自分の意思と関係なく己を、クロは遠くから眺めているような感覚だった。
機械的に命じられたことをこなし、息を吸うことさえ他人ごとのように感じる。
「おい、姫様を屋敷へ運んでおけ。丁重にな」
その命令に、クロは首を縦に振る。ただしそれは己の意思に反していた。
意識を手放し横たわったメノウの横に屈むと、彼女を担ぎあげ馬車から音も立てず降りる。
そこは王都から半日ほど馬車でかかる、郊外の貴族の別荘が密集している地区だ。緑が多く小さくも湖があり、昔は賑わっていたのだろう。しかし先の事件で少なくない貴族たちが粛清された今、手放したり管理されず放置されたりという屋敷も多く、庭も荒れ放題の物件が多い。
馬車が止まったのはその中でも別荘地域から外れた屋敷だった。
クロは先導されるまま、屋敷の中へと入っていく。
(俺は……)
クロはちらりと視線を動かす。その先には自分を嵌めた、年月相応の年をとっている懐かしい顔が眉間に皺を寄せて部下に命令を下していた。
(そうか、やつの……)
彼は拾四番。自分がかつて拾参番と呼ばれていた頃の同僚であり友だ。今は部下から志狼と呼ばれている。それは彼が組織で四番目の地位にいるということを指す。
彼の能力や性格や年月、そして『睡眼』という『瞳の力』を考えれば、納得のいく地位だった。
『睡眼』は視線があった者に催眠をかけることができる能力だ。精神操作の魔法に近いが、瞳の力は普通の魔法より性能が上なのが常だ。
標的を一瞬で催眠状態にし、己の意のままに操る。かかった者は操られている自覚なく、またかかった時に自覚しても、次の瞬間にはそれを忘却するよう暗示をかけられる。
そして対象者は自覚のないまま、彼の手先となるのだ。
『睡眼』を防ぐ方法は一つ。彼と視線を合わせない他ない。
クロもわかっていた。かつての古巣には、そういった厄介な能力を持つ者がほとんどだ。
だが陽国の使者が大広間から退出するとき、初めから一団の最後尾で頭を下げ続けていた男と目があった。
菫色の瞳が己を射貫いた瞬間、クロは己の失敗を悟った。それもすぐに忘却したが。
そして自分の意思とは裏腹に陽国の手先となり、情報を渡し、メノウの誘拐に加担させられた。
今、その自覚ができるのは、睡眼の支配が薄れてきたのだろう。それでも自力で打ち破ることはできないが。
睡眼を含め、陽国の民が持つ瞳の力は決して万能でも永久でもない。神子姫という例外を除いて。
屋敷に入ろうとしたとき、背後でかつての同僚の声が聞こえる
だが怒りと絶望が支配されたクロには、雑音でしかない。
(……俺は、やはり逃れられないのか)
脳裏には、現在からかつて朧げになりつつあった過去の記憶が遡り蘇る。
一番鮮明な記憶は、侵入した王城で出会ったハーシェリクだ。
なぜこんなにも彼に惹かれたのか。
それは笑顔が、ある二人の人物と重なったからだ。
(あいつは、二人に似ている)
年齢も性格も容姿も違う。だがどことなく似ている。
殺してしまった彼らに。
だから、贖罪をするかの如く、彼に依存してしまったと自覚がある。
自覚があっても、やめることはできなかった。
ハーシェリクは唯一の主だ。
しかしそれは罪悪感からくる錯覚なのかもしれない。
(俺は、もう戻れない……)
笑顔を向け、信を預けてくれた主の許に。
扉が閉まると同時に、クロは諦めたように己の瞳を閉じる。
そして自分では何も考えず決断もしない、命令を聞き任務を遂行するだけで、国を護っていると信じて疑わなかったかつての愚かな己を思い出した。
陽国は本島とそれを囲むように十二の属島からなる群島国家である。
政の中枢である本島には神子姫がおわし、それを守るように十二華族が各島を統治する。その島の配置が、まるで玉を守る龍のように見えた。
神子姫を主とし統治される国家。だが決して戦乱がなかったわけではない。
初代神子姫が身罷られると、時が経つにつれ、内乱反乱専横等難が国を襲う。神子姫という絶対的な権力の権化が存在してもなお、人は己の欲のために乱を起こした。
そこで時の神子姫は、どの政治的勢力にも十二華族にも属さない、隠密組織を創設した。
陽である神子姫の治世を守るための影の組織『月影』である。
組織に属すると定められた者は生まれた瞬間に決し、存在しない者とされた。そして親元から引き離され、組織で育てられる。現在は約五十人が所属している。
定められた者は条件があった。
陽国の人間は黒髪黒目である。しかし稀に瞳に色彩を持って生まれてくる者もいる。
その者は例外なく、強力な『瞳の力』を持つ。
瞳の力が過去の乱で悪用され、多くの命を奪い、その者も散っていった。
月影は瞳の力を持つ者を悪用される前に保護する役目も担っている。
そんな陽国の隠密組織『月影』は、本島の神子姫がおわす本宮の傍、神域と呼ばれる森の地下に本拠地を構えていた。
「兄貴―!」
そう食堂に響き渡る少年の声に、食事をとっていた黒髪に暗い赤い色の瞳を持つ少年……拾参番と番付され、後に幼子を主と仰ぐこととなるクロは、ため息を一つ零しに箸を置く。
うんざりしたように視線を向ければ、己より二つ年下の黒字の布で目隠しをした少年が、食事が載った盆を片手に、空いている手を振りながら小走りに駆け寄ってくるところだった。
目隠しをしているのに、若干混雑している食堂の人ごみを危なげなく避けてくると、許可も取らず兄貴と呼んだクロの横の席についた。
そして手を合わせていただきます、というと目の前の食事に取り掛かる。
今日のメニューは、焼き魚に汁物、葉野菜の和え物に漬物だ。もちろんクロも同じ物である。
「兄貴、食べないの?」
なら頂戴、と首を傾げる少年。配給される食事の量は決まっているため、育ち盛りの彼には少ないのだろう。
そんな彼に、兄と呼ばれたクロは首を横に振る。
「……弐拾四、兄貴と呼ぶなと何度言ったらわかる。俺はお前の血縁者じゃない」
そもそも、この組織に身を置くと決まった時点で、縁者の情報も消去される。幹部以外は、番号で呼ばれるのが常だ。
現に兄貴と呼ばれるたびに、周りの同僚からは彼だけでなく自分も怪訝な視線を向けられる。
だがそんな視線を者ともせず、彼はにかっと笑った。こういう笑い方をする者はこの組織では珍しい。いやその明るい性格自体、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせる組織では稀有な存在だ。
その性格も相まって、組織に正式に加入して日が浅いというのに、弐拾番代の格付けをされ、一部の者にやっかまれている。
組織は実力主義だ。年下だろうが、能力が高ければ番付は上がっていく。さらに上下関係や年功序列にも厳しく、同僚同士の競争も激しい。
彼はすでにいくつもの任務をこなしており、瞳の力が普段は押えるために目隠しをしなければならないほど強力であり、冷静に考えれば彼が番号を駆けあがっていくことも納得だろう。
だが、それを理解しない者も多い。ただ年若いというだけで、馬鹿にされることも多々ある。
クロも若くして幹部候補の首位になるまで、いくつもの嫌がらせにあった。その倍のお礼をし、今ではちょっかい出してくる者は皆無となったが。
彼も嫌がらせもされているらしいが、本人は軽く回避してやり返したり丸め込んだりしているらしい。
「だって俺の最初の相棒だったじゃん! それに任務じゃ呼ばないからいいじゃん!」
「煩い。あと相棒じゃなくて教育係だ」
「ひっどーい! つめたーい!!」
そう冷めた視線を投げたクロは食事を再開し、少年は頬を膨らめて抗議した。
そんな二人のやりとりを背後から苦笑して聞いていた者がいた。
「いつも仲がいいな」
二人よりも年上で背が高い、菫色の瞳を持つ青年がいた。
「あ、拾四の兄貴。仕事お疲れさまー」
少年がそう言い、食事を再開する。彼はクロに対して人懐っこいが、それ以外には興味ないのか素っ気ないのだ。彼をとってつけたように兄貴と呼んだのも、彼が年上でクロと親しいというだけだからだ。
「煩わしいだけだ」
拾四番の言葉に、クロは肩を竦めて答える。
「……拾参、今回も活躍だったらしいな。嶺様が話していたぞ」
「任務をこなしただけだ。それにさほど難しい任務でもなかった」
クロはさも当然のように答えた。
だが彼にとってそれが当然でも、他の者にとってはそうではない。本人は奢っているのではないが、その言い方に反感を持つ者も少なくない。
「……次の名持ちはお前だな」
名持ちとは、拾弐番以上の『月影』の幹部たちのことを差し、名を与えられる。組織の長は零番――『嶺』と呼ばれる。
幹部は実力や能力だけでなく人格も査定される。また幹部ごとに役割もあり、嶺を筆頭に、一番から三番までが同格、その下に四番から十二番が同格で、名は十二華族のように代々引き継がれる。
欠番が出た場合のみ、拾参番から二十四番の幹部候補から補充されるのだ。
つまり、この場にいる三人は、次期幹部となる可能性が高い。
「名持ちになったとしても、やることは変わらない」
そう素っ気なくいったクロに、十四番は沈黙で答えた。
その奇妙な沈黙に、クロは立ったままの彼を見上げる。
「? どうした、拾四」
「……なんでもない。ただお前が羨ましいと思っただけだ」
言葉とは裏腹にやや苦虫を噛み潰したような表情をする彼に、クロは首を傾げる。
「羨ましい? なにがだ?」
「……それは」
拾四番が躊躇いつつも口を開こうとした瞬間、背後に音もなく人が立った。
ひょろりと背が高い黒髪の、『六』と彫られた白地のお面を付けた者。名持ちとなった者はお面を支給される。その面も名と同じく代々引き継がれるもので、顔を隠すために使用する者もいれば、ただ無造作に腰布に括り付ける者、部屋に飾る者など様々だ。
「拾参番」
聞く者によっては男とも女ともとれる、中性的な声。彼、もしくは彼女の性別や素顔を知る者は嶺しかいないのでは、ともっぱらの噂である。
クロはすぐにその場に起立し背筋を伸ばすと、礼をした。
「無鹿様、ご用でしょうか」
「頭を上げろ。ここは公共の場だ。そこまで畏まらなくていい」
頭を下げたままのクロに、無鹿は「本当に真面目な奴だ」と若干笑いを含んだ声で言う。
「急ぎの任務だ。すぐに嶺様の部屋へ向かえ」
「わかりました。言伝、ありがとうございました」
クロは再度礼をすると、食事を片付けようとしたが、十四番がそれを引き受けてくれたため礼を言い、長の部屋に向かいおうと背を向ける。
「……兄貴!」
その背中に、弐拾四番が声を投げる。
「だから兄貴と……なんだ?」
クロが振り返ると、顔色が悪くなった少年がいた。彼のこの表情を見るのは、教育係りだったころを含めても初めてで、いつもの小言を言うのも憚られる。
「……ううん。任務、気を付けてね」
怪訝な顔をしたクロに少年は数拍迷ったあと、ぎこちなく笑いそう言った。
クロは首を傾げつつも、彼らに背中を向け食堂を後にする。
頭の中で長の部屋までの最短の道筋を弾きだし小走りに、だが足音を立てず廊下を進んだ。
月影は隠密組織。全力疾走でも足音を立てないことは基本中の基本である。
すぐに部屋に到着し、クロは一度深呼吸をする。疲れたわけではない。
周りから次期幹部や優秀だともてはやされるクロでも、やはり長の前では若干緊張してしまうからだ。
「拾参番、参りました」
「入れ」
クロが入室すると、白交じりの黒髪の男が出迎えた。彫が深く精悍な顔立ちの、女性ならばつい視線で追ってしまうような人物である。
彼は陽国の隠密組織『月影』の長であり、現『嶺』の名を持つ男である。そしてクロにとっては育ての親でもある。
月影の者は、生後数日で組織に引き取られる。その赤子の世話が、まだ任務についていない、見習いが行うのだ。
クロは長に赤子から育てられ、教育係りも彼だった。クロにとって彼は親であり、兄でもある。もちろん血は繋がっていないが、全く知らない肉親よりも、家族の情がある。
昔は親しくしていたが、今は長と幹部候補。その線引きはしているが、やや寂しいのが本音だ。
「お前に新しい任務を与える」
そう冷めた声に、クロは姿勢を正した。
「十宮に謀反の疑いがある」
「謀反、ですか?」
クロは動揺する。クロでなくとも同じ感情を抱くだろう。神子姫の忠臣である十二家の一つが、謀反を企んでいると聞かされれば。
そんなクロの動揺を無視し、嶺は言葉を続ける。
「ああ。二宮から内々に連絡があった。すぐに内偵に入れ」
「……はっ」
すぐ動揺から立ち直ったクロに、嶺は口の端を持ち上げ、微かに笑った。
「まあ、お前なら大丈夫だろうがな」
その言葉にクロは己の頬が熱くなるのがわかった。滅多に表情を変えない育ての親が笑いかけてくれるのは自分を信頼してくれているだけでなく、彼も自分が家族のような感情を抱いてくれているからだ、と思えたのだ。
それがとても嬉しく誇らしく、そして少しこそばゆい。
ふと、自分のことを兄貴と呼ぶ少年のことが頭を過る。
(次会ったときは、少しは優しくしてやるか)
彼が抱いている感情は、もしかしたら自分が育ての親に抱くものと同じかもしれない。ただ言うと少年は調子に乗りそうな気がするが。
「ただし十宮の当主は、頭の切れる御仁だ。注意しろよ」
「わかりました。すぐに任務につきます」
嶺は微笑みをすぐに引き締め、そう告げる。クロは頷き、部屋を後にした。