この広い空のしたにいる君に告ぐ(三十と一夜の短篇第22回)
学校が休みの朝。朝ごはんを食べて歯磨きをして、上着を片手に玄関を飛び出した。
「いってきまーす!」
駆け出した勢いそのままに向かうのは、同じ町内に住むサコの家。
白い息を吐きながら山茶花に囲われた家の門をめがけてかけ込めば、白いジャンパーを着たサコが玄関先で待っていた。囲いに咲いた花を一輪、手の中でいじっている。
「おはよ! 行こうぜ!」
おれがそう声をかけて、サコがにっこり笑って「うん」って答えるのはいつものこと。
どこへ行こうか、なんて言葉はおれたちのあいだに必要ない。ふたりがそろったら、あとはなんだって楽しいから。昼までめいっぱい遊んでどっちかの家で昼飯を食べて、また日暮れまで遊ぶのがいつものこと。
だから、今日はおかしい。
サコが返事をしないのもおかしいし、その眉毛がしょんぼりと垂れ下がっているのもおかしい。
「……なんだ、サコ。熱でもあるのか?」
サコはときどき風邪をひいても、黙っておれと遊ぼうとすることがあるから、おれが気をつけてやらなきゃいけない。逆に、おれが熱出てるのに気づかないで遊んでるときには、サコが気づいてくれる。
だから聞いてみたのだけど、サコはふるふると首を横にふる。ためしにおでこをぺたり、と触ってみるけれども別に熱くはない。
だけど、どう見ても元気がない。首をかしげるおれ
に、山茶花の花を足元に放ってサコがぽつりと言った。
「……あのね。桜、いっしょに見られなくなっちゃった」
サコから言われた言葉におれはますます首をかしげた。
桜の季節はもうすこし先。
たしかに、桜を見ることは、おれとサコが必ず迎える未来。約束するまでもない予定だ。
それは、おれたちふたりの年中行事のようなもの。正月に並んでこたつに入りテレビを見るような。通学路で水たまりに張った氷を踏み割った数を競争をするような。花火大会に行ってあっちこっちの出店をはしごするような。
そんな当たり前な行事の中のとくべつなひとつが、ふたりで桜並木を歩くこと。
おれもサコも、桜の枝を見上げてその時が来るのを楽しみに待っているけれど。
まだつぼみすら見当たらない今のうちから、もう見られないとはどういうことだろう。
「なんだよ。もしかして、だれか他のやつと見に行く約束しちゃったとか、か?」
いつだっていっしょに過ごしてきたおれたちだけど、小学校の高学年になってから、おれには仲良しの男友だちができた。サコだって学校で仲良くしている女ともだちがいる。
もちろんいちばんの仲良しはサコだ。だけどおれだって男友だちと遊ぶときがあるから、サコも仲良しの女友だちと遊ぶのかもしれない。
だったらそいつと遊ばない日にいっしょに桜を見に行けばいいんじゃないか。おれがそう思ったのがわかったのか、サコが首をよこにふった。
「ううん、そうじゃなくて」
うつむいたサコは、靴先で足元に落ちた山茶花の花びらをいじっている。
「あたし春にはね、この町にいないんだ。引っ越すんだって」
ぽつんと言われた言葉に、おれの意識はがつんとぶたれる。踏みにじられる鮮やかな花色に気を取られていたおれは、真っ白になった頭のままサコに目を向ける。
「え……。引っ越しって、いつ……?」
「一ヶ月後。なんかお父さんが転勤って言われたらしくって、四月までにお仕事の引き継ぎしてほしいんだって」
うつむいたまま、早口に告げられたサコの言葉が頭の中でぐるぐるまわる。
転勤ってなんだよ、とか引き継ぎとかそんなの大人の都合だろ、とかいろいろと頭に浮かんだけれど、おれの口から出たのは違うことだった。
「じゃあ、もう虹を探しに行けないんだな……」
つぶやきながら頭に浮かぶのは、サコとふたりで歩く桜並木。
家から近い河原沿いにあるその並木は、おれとサコが毎年楽しみにしている場所だ。
だからといって、おれたちは花だけを楽しみに通っているわけじゃない。花びらをいっぱいにつけた木はもちろんきれいなのだけれど、そこを歩くおれたちの視線はいつだって木よりもっと上にあった。
虹を探していたんだ。
いつかの曇り空の下。なんでだったかけんかしたおれたちは、ふたりで黙ったまま足元ばかりを見ながら、桜並木を歩いていた。
そのとき、ふと、おれたちの上に光が射した。雲の切れ間からこぼれた日差しが。
光につられて顔を上げたおれの目に飛び込んできたのは、空にかかる虹。気分が良くなることなんてありえない、と言っているかのように暗く垂れ下がる雲の下、きらめく七色。
そのきらめきを目にしただけでもおれの心ははずんだけれど、それだけじゃなかった。
雲の切れ間から地上にこぼれる優しい日差し。
そこから届く光に濡れた桜の花びらは曇りガラスのように甘く透けて、暗色の空を引き立て役にした虹がその向こうに輝いていた。
その景色があんまりにもきれいで、おれたちは思わず互いの名前を呼んだんだ。
このきれいな景色を相手に見せたくて。けんかしているのも忘れて。
そうしてお互いに顔を見合わせて、笑ったんだ。きれいな景色をふたりで見られたことが嬉しくて。仲直りするきっかけを見つけられたことが嬉しくて。
それから毎年、桜の季節になるとふたりで空を見ながら歩いてきた。これからもずっと仲良しでいられるように。
願いを込めて何度も空を見上げたけれど、あんなきれいな景色をおれたちはまだ見つけられていない。
けれどいつかまたふたりで見られると信じて、今年もいっしょに探せると思っていたのに。
その思いが急に断ち切られると知って、おれは呆然とした。
「ごめんね。またふたりであの虹を見ようって、言ったのに」
ようやく顔をあげたサコは、悲しげな笑顔で言う。
「遠くに行っても仲良しでいてくれる? 虹が見えたら、ちょっとだけでいいから思い出してね」
寂しげに微笑むサコに、おれは胸がかっと熱くなる。なんでそんなこと言うんだよ、っていう怒りみたいな気持ちが湧いてきて、だけどそれをサコに言ってもどうしようもないってわかってるから言えなくて、抑えきれない気持ちのままに口をひらく。
「いつだって……いつだって、虹が見えるようにしてやる! サコがさみしいとき、かなしいとき、つらいとき、いつでも見たいと思ったときにあの虹が見られるようにおれ、なんとかするから!」
そう叫んでかけ出したおれは、落ち着かない心臓に急き立てられるまま手当たりしだいに虹の作り方を調べた。
学校の図書室はもちろん、市立図書館にも行った。虹と名のつく本は片っ端から読んだ。虹の作り方が載っていそうな本も何冊も読んだ。インターネットでも調べたし、理科の先生にも聞いてみた。
虹の作り方は、たくさん見つかった。
太陽に背を向けてじょうろの水を撒く方法。これは晴れた日じゃないと難しい。
CDのキラキラした面に懐中電灯の光を反射させる方法。簡単だけど、これじゃ空には映せない。
水の入ったペットボトルで作る虹も同じ理由で却下だ。
ほかにも瓶の中に虹色の水を作る方法や、虹色をした宝石なんかも見つかったけれど、そうじゃない。
おれがさがしているのはこれじゃない。
サコに見せたい虹はこんなものじゃない。
焦って走りまわるおれを残して、時間だけが過ぎていく。
そうして迎えた引越しの日。
寒さの和らいだ空のした、明けてほしくない朝が来る。ぐずぐず降り続く雨の切れ間に、おれは上着も持たずに玄関を飛び出した。
そこいらじゅうに濡れて散らばる山茶花の花びらを越えて、サコの家にかけ込む。
門をくぐるとこちらに背を向けて立っているサコがいて、おれは立ち止まった。見納めになる家を見ているのだろうか。話しかけるのを待ったほうがいいだろうか。
むしろ、こんな半端なまま声をかけていいのだろうか。もっとやれることがあったんじゃないか。そっと引き返してまた改めて伝えてもいいのじゃないか……。
焦りと迷いでのどがつまる。
だけど言わなければ。サコはもうすぐ行ってしまう。届かなる前に、伝えなければ。
決心がつかないまま、焦る気持ちに急かされて声が出る。
「サコ」
呼びなれた名前は、思った以上にすんなりと口から出てきた。
おれの声に振り向いたサコと目があう。サコは薄く笑っておれのそばに来てくれた。
正面から向かい合うのは久しぶり。引越しを告げられたあの日以来だ。
「……大丈夫?」
泣きはらした顔をしているサコに心配されてしまった。
サコと向き合うおれは、きっとひどい顔をしていたんだろう。調べもので何日も遅くまで起きていた上に、きのうは寝ずに朝を迎えたから。
「ん。だいじょぶ」
短く答えたおれは、同じ言葉をサコに返すのはやめておいた。
大丈夫なわけはないから。
サコは、きっときのう学校でやったお別れ会で泣いたまま、あのあと家に帰っても泣いていたんだろう。真っ赤に腫れた目元も、充血して辛そうな目もすこしも大丈夫には見えない。
ぎりぎりまで足掻いていないで、サコのそばにいたほうが良かったのだろうか。いいや、そんなことを思ってもそれは後悔にしかならない。探しものをしている間も、なんどもやめてサコの元に行こうと考えてはやめた。その後悔はもう飽きるほどにしている。
これ以上の後悔を増やさないために、おれは腹に力を入れる。
「ごめんっ!」
大きなこえで言って、ぶん、と音がしそうな勢いで頭を下げる。
「虹を作る方法、探したけど、だめだった。見つけられなかった。ぜったい見つけるって言ったのに、ごめん!」
頭を下げたまま言い切って、下げたときと同じ勢いでがばりと体を起こしてサコに腕を突き出した。
「その代わり、にはならないかもしれないけど。これ、作ってきたんだ。いつでもサコが虹を見られるように。いつでもサコがおれのこと忘れないように」
戸惑いぎみのサコが、おれの手から受け取ったのは薄っぺらい板。
透明なその板を黙って空にかざしたサコは、鼻をぐすっと鳴らす。
「あは、へったくそな虹……」
泣きはらした目を細めるサコの顔に落ちるのは、七色の光。
サコに渡したい虹を作れなかったおれが持ってきたのは、透明な下敷きに油性ペンで描いた、いびつな虹。
同じものをもう一枚、おれの分も空にかざす。
「こんなもんしか作れなかったけど、でもおれもこの虹を見てサコのこと思い出す。いや、ずっと忘れない。虹が見えなくたって、いつだってどこだって、ずっとずっとサコが大好きだ!」
おれの渾身の告白に、サコはひどい顔できれいに笑う。
そうしてサコが何か言おうと口を開いたとき。曇り空から、明かりが射してきた。
ところどころに切れ目が入った鉛色の空には、きっともうすぐ、虹がかかるだろう。