九.記憶の海─序─
雨が粗末な屋根を打つ音が、一層激しくなる。
椿は堅い床に仰向けになって、天井を眺めていた。雨はどうも苦手だ。気分が滅入ってしょうがない。
──雨は全てを洗い流してくれる
頭の中に、ふとそんな言葉が浮かぶ。あァ、そんなことを言うやつも居たかと、少し笑って眼を閉じる───
※※※
目が覚めると、そこには見知らぬ男が居た。状況が理解できない。確かに私は昨日、母さまと一緒に寝たはずだ。
私が一人であたふたしていると、男は無言で飯の入ったお椀をこちらに突き出した。食え、と言うことなのだろう。腹は空いている、これ以上無いくらいに。しかし見るからに怪しいこの男が、何か毒を盛っている可能も無いではない。そんな事を考えながらぼんやりと突き出された飯を眺めていた。食べたい。本音を言えば、食べたい。だって昨日から何も口にしていないのだから。耐えろ、耐えるんだ、私。
「ほぅ、なかなか賢い童っぱだな」
その言葉にきょとんとしていると、男はにっと笑って見せた。結構若いのかもしれない、ぼんやりとそんなことを思う。
「食え、安心しろ。何も盛っちゃあいない」
「……」
そう言われても、怪しいものは怪しいわけで。つい手を出したくなるのをこらえながら、私はお椀の中の飯を睨み付ける。睨み付けていると、急に男の手が私の視界から飯を連れ去ってしまった。
「あ」
男はお椀の飯を食べだした。私は泣きそうな顔でそれを見る。どうやら話は本当であったらしいと悟り、激しく後悔する。
「ほら、大丈夫だろ。そんな顔すんな、まだ飯はある。さぁ、食えよ」
言って置かれたお椀に、私は飛びつくようにして飯を口の中に掻き込んだ。男がそれを見て笑っているらしかったが、そんな事はこの際関係なかった。私は一心に飯を貪った。
「そんなに急くな、飯は逃げん。時に小僧、名は何と言う」
私は手を止め、男を睨む。
「……こぞう、ではない」
「えッ、お前、女か」
男が目を見開くのに対して、私は首を縦に振る。確かに私は髪を短くしているけれど、れっきとした女だ。小僧と呼ばれるなど、心外だ。
「つばき」
「え──」
「わたしのな《・》」
男はそうか、とだけ言って無邪気な笑顔を見せるて、私の頭をわしわしと撫でた。
「俺は神夜」
「……かなや」
「今日からお前は俺の弟子だ」
「……で、し」
私が小声で呟くと、彼は嬉しそうにまた私の頭をわしわしと撫でた。そのせいで髪がぐしゃぐしゃに乱れた。
彼の笑顔を見ながら、私は頭の片隅で自分は売られたのだと確信した。その思考は驚くほど冷静で、客観的だった。生家の金銭状況を考えれば、何ら不思議なことではない。余所の村では家族全員が食べられるだけの食い扶持が無くて、山に捨てられる子供も居ると言う。自分はそうならなかっただけマシだと思う。
「かなや、わたしは……ここでなにをすればいい」
問うた瞬間、頭を撫でていた手がぴたりと止まった。
「お前、聞かないのか。自分がどういう状況に居るのか」
神夜の驚きとも哀れみとも取れぬ真っ直ぐな瞳を見返す。
「わかっている。だからいわない」
神夜は寂しそうに笑って、私を抱きしめた。神夜の体温が心地良くて、私は目を閉じた。抱きしめられるのなんて、久しぶりだ。父さまや母さまは田の世話や他の仕事で忙しかったから、帰ってきてぐったりと眠るばかりで、話す暇さえ満足に無かった。
「お前がそう言うのなら、俺は何も言わない。でも、今から俺が言うことをよぅく聞いてくれ。お前はこれから俺と伴に」
神夜は私を自信の身体から優しく離すと、私の眼を真正面からひたと見据えた。
「“人を殺す仕事”をするんだ」
真剣な顔の神夜に、私は少し微笑む。神夜のきょとんとした顔が面白い。
「いいよ、おしごと……わたし、なにをすればいい」
この人について行こう、そう思った。何故だか、神夜は自分を捨てはしないと確信している自分が居る。
痛みを堪えるような彼の顔が、少し悲しかった。