光と影の物語
昔、昔のお話です。
まだ国が一つにまとまっていなかった頃、とある小さな村に、一人の少年がいました。
少年は早くに家族を亡くしていましたが、だからこそ、家族の分まで永らえるのだと懸命に生きていました。
村の誰よりも早く起き、田畑を耕し、瓶の水を汲み換え、蒔きを割り、時には狩りや釣りをして、村の誰よりも遅く床に就く。 少年は、これ以上無いくらい真面目な働き者でした。
けれど少年は、村の誰からも嫌われていました。
それは、少年に家族がいないからです。村人たちは、いつか騙されたりはしないかと、村に病を流行らせはしないかと、そんなことをいつもいつも疑っていました。
小さな村には医者がいませんから、病を治療してくれる人はいないのです。
もし少年が病で寝込んでしまったとしても、看病してくれる人は誰もないのです。
だから、どんなに少年が村人たちを慕っても、村人たちは誰一人として少年を慈しむことはありません。 虐げられることさえ、珍しくはありませんでした。
毎日毎日、必死に働いて、時には怯えて、そして不安を抱えたまま床に就く。
そんな、変わることの無い日を、少年は繰り返していました。
ある日のことです。
少年は、石を投げてくる子供たちから逃れるために森の中へ入りました。 村の外れの、あまり広くはない、けれど浅くもない森です。
中らほどまで走って、少年は倒木に腰掛けました。
そこは、そこだけぽっかりと拓けていて、唯一森の中から空が見上げられる場所でした。
森は、少年にとっての隠れ家でした。
森に入れば、誰も追いかけては来ません。 森は、少年が安心して穏やかに過ごせる唯一の場所でした。
しかし、誰も追ってこないということは、森では少年はいつも一人ということです。
村人たちの中にいて悪し様に扱われるか、森の中にいて一人寂しい思いをするか。
どちらが良いのか、少年にはわかりません。
少年は俯きました。
人間じゃなくてもいい。誰でも、何でもいいから、傍にいてほしい。
そう少年は願いました。
ふと、少年は自分の足下に気づきました。
太陽が差して少年に当たり、人が丸まった形の影ができています。
少年は、それが嬉しくなりました。
影はずっと自分の傍にいる!
少年は嬉しくてたまりませんでした。
それから、少年は毎日自分の影に話しかけました。
晴れた日の日中はもちろん、天気の悪い日や夜には明かりを灯して影を作り、影に話しかけました。
影は何も話さないけれど、話を聞いてもらえるというだけで少年は幸せでした。
それが、何年もつづきました。
少年は逞しく成長し、立派な青年になっていました。
何年経っても、村人たちの反応は変わりません。
しかし影は変わりました。
影は青年が成長するとともに大きくなりーーずっと話しかけられていたからでしょうかーーいつしか知能を持つようになりました。
影は、いつも自分に親しげに話しかけてくれる青年が大好きでした。
青年が何を言っているのか理解したいと望んで、そのための知識を得ました。
青年の役に立ててくれればと、影から影を伝って様々な情報を得ました。
けれど口のない影は、青年に返事を返すことはできませんでした。 何かを教えることもできませんでした。
影にはそれがどうしようもなく悔しくて、もどかしくて。
影は、存在を望みました。 青年に、返事ができる存在になりたいと願いました。
青年はやがて老いていき、壮年を超え、老人となりました。
老人はついに妻を持つことも叶わず、当然子供もおらず、一人きりでした。
寄る年波に逆らえず患ってしまった病と、一人きりで戦っていました。
老人は、寂しさを紛らわすように、たくさんたくさん、影に話しかけました。
そして、あるとき老人は言いました。
影に体があればいいのに、と。
その時です、影が体を得たのは。 影は老人の望んだ通りーー言葉の通りーー本当に人と同じ体を得たのです。
日の光のように白い温かな肌と、それとは正反対の闇色のような黒い髪と瞳。
綺麗だ、老人はぽつりと呟きました。 応えるように影が老人に寄り添います。
老人は年老いてようやく、初めて、本当に孤独ではないということを感じ、それを喜びました。
ありがとう、影がまず口にした言葉です。
老人が毎日話しかけてくれたから、体を得られたのだと影は言いました。
老人の言葉が、影の体の素となったのです。
しかも、影はもうただの影ではありません。
影は、人でもなければただの影でもない、精霊に近い存在となっていました。
話しかけられることで送られる老人からの信頼と愛情。
それが、影の体を構築していました。
それが、影の力の源でした。
信頼と愛情から生まれた影には、何かを傷つけるような力はありません。
けれど、慈しむことはできます。
安らぎを与えることはできます。
そして、傍にいることができます。
影はずっと老人の傍にいました。
だから、老人がもう永くはないことも知っていました。
貴方が永い眠りにつくそのときまで、僕が貴方の傍にいます。
僕は、貴方の影ですから。
老人は喜びました。 たとえ残り短い間だとわかっていても、それでも老人は喜びました。
影は、言葉通りずっと老人の側にいました。
馴染まない体でありながらも、毎日老人と話し、毎日老人に尽くしました。
それが、影にできる唯一の恩返しでした。
けれど、どんなに影が頑張っても、そんな日々は長くは続きませんでした。
老人は、影が見守る中苦しげに呻いています。
ついに、永い眠りに就く時がきたのです。
老人も、影も、お互い何も言わないながらも悟っていました。
影を老人は掠れた声で呼びました。
もしも、自分がいなくなったら。
もしもだなんて言い出す老人に、影は初めて話を聞きたくないと思いました。
もうどうしようもないのだと、影もわかっています。
それでも、老人の口からそんな話は聞きたくありませんでした。
それでも、老人は話を続けました。 どうか最後の願いを叶えてほしいと、話し続けました。
もしも自分がいなくなったら、どこかにいるかもしれない自分と同じ目を持つ誰かの影になってほしいと。
どうか、誰かの側にいて、孤独から誰かを護ってほしいと。
影は泣きながら頷きました。
護ります。
影として、必ずその誰かを護ります。
貴方の、僕の初めての光の願いを、僕は必ず叶えます。
影は誓いました。
ーーーありがとう。
声も出せず、ただ最期に優しく微笑んで、老人は静かに息を引き取りました。
安らかに眠りに就いた彼に、影はさらに涙を流しました。 もう彼は、影にどんな言葉の一つも与えてはくれないのです。
ずっと傍にいた人を、見送らなければいけないのです。
影は、彼の体を森に運びました。
森は、彼が初めて影に気づいた、彼の隠れ家です。
森の真ん中のぽっかりと穴の開いた場所。その地面に穴を掘り、その中に彼を横たえて、少しずつ土で覆っていきます。
彼が幸せに自然に還れるように、彼の好きなこの場所に埋葬しました。
埋葬した場所には、一本の苗木を植えました。
苗木はやがて大木となります。
その育った苗木が、いつか再びこの場所を訪れる時の目印になってほしい。
なにより、彼の側を離れなければならない自分の代わりに、彼の側にいてほしい。
そんな願いが、苗木にはこめられています。
影は、植えた苗木の根元を優しく撫でました。
ありがとうございます、
最後に初めて彼の名前を呼んで、影は立ち上がりました。
絶対に、約束は守ります。
だから、安心してください。
影はゆっくり、彼のもとを離れました。
彼との約束を守るため、新しい誰かを護るために。