12 それぞれの役目、進むべき一歩(3)
ギリスタス領の主、獣の魔族ファブニールの側に仕える使用人は、僅か三名。その数は極端過ぎるほどに少なく、領主の器を示すにも論外と言わざるを得ない。魔界の辺境という地理もあり、そもそも領主の事を知る者はほぼ居ないので、使用人ともなればますます形を潜める。
だが、反逆者の街やら変わり者の街やら、名付けられた渾名が隠れ蓑になって大部分の世間に知られない事が、この場合は幸いしていた。実際に開けて見れば、特殊な立場に身を置いていた者が其処に存在していたのだから。
今より数代前、その昔の魔王陛下に仕えていながら、ただの一度きりの諫言で怒りを買い死霊となった魔族の猛将――――ヴェルゴール。生きたまま肉体と魂を剥離された挙句、生前身に纏った漆黒の甲冑へ閉じ込められ、魔王陛下に逆らった者の末路として長きに渡り見せしめに捕えられていたと云う。ただし本人は全く気にしておらず、空洞の甲冑を物入れに有効活用したり、兜を蹴り飛ばされたり、花を愛でたり、図体と外見に似合わずも非常に心穏やかに過ごしている。
領民と領主の橋渡しを主だって買って出るヴェルゴールが、過去とはいえ魔王陛下に仕えていた事実がある事を。そしてそれを連れ帰ってきたのが領主である事を、恐らくギリスタス領の者たちは知らない。隠すつもりはないが公言して回るほどでもないので、今後も知られる事は無いだろう。
ただ、そういった事実がこっそりと存在していれば、必然的に残りの二名もただの使用人の枠に納まるわけがない。
立場も出会いもそれぞれで異なる歪なものが、集まり暮らす場所。それもギリスタスの一面である。
それだけ歪でありながら、桐子というある日落とされてきた異世界人の存在を中央に置いた時、願うものが似たり寄ったりというのもおかしな話だ。
魔力と魔術の飽和する、強者の世界。其処で生きる者たちは、表面では孤高を好んで弱気を淘汰し感情を第一に置くが、蓋を開けてみれば単純にただの恋しがりと寂しがりばかり。強い者であればあるほどその兆候は極めて高く、ある一つの狂気のように一度でも側に置きたい、側に居てくれるのではと思えば、貪欲にそれを突き詰める。
ぽんと現れた桐子は、何の力もない人間の上に、非常に珍しい異世界人、おまけに性質も温厚で魔界にあるまじき生真面目さ。
この魔界で、一体誰が欲しくないと思うやら。
現状、少なくともファブニール、ヴェルゴール、カーミラは様々なものが崩壊して桐子に情を向けている。
……が、使用人イシュトだけは、桐子に向けるものが少々異なっていた。
多くのものを貰おうとプライドなんぞ放り投げているファブニールらと比べれば、桐子に対するイシュトの接し方は……先輩のような、或いは兄のような、付かず離れず見守る距離を保っていると言える。普段の振る舞いと声の性質だけ見れば桐子よりも年下であるが、精神は成熟して荒事を幾つも経験している。間違いなく、桐子よりも魔界での生き方を熟知していた。それを彼なりに伝えようとしているのは、不器用な言葉から幾らか読み取れる。
あのイシュトがそうするのは桐子の為でもあるのだろうが、正しくは結果的に桐子を手助けする事になっているだけで、大部分はイシュトの勝手だった。
最初に桐子が館に連れて来られてから現在まで、別に桐子を救いたいわけではなかった。人間は確かに此処では珍しいが、特別の興味は無かった。元々、魔界で生まれ育った獣人ではないので。
何となく、ただ何となく、ギリスタスに来る前を思い出した。そして、それを勝手に押し付けていた。ただのそれだけで、礼を言われる理由が無いと思いながらも、気分は良かった。可もなく不可も無かった桐子の存在は、イシュトの中でも確実に根付き始めていた。
西洋館から見下ろしていた街の、その向こうに広がる世界。其処は思っていたよりもずっと美しく、幻想絵画のようだった。改めて此処は元の世界でないと思い知るけれど、それ以上にその美しさときたら。
鮮烈な青空の下、果てまで続く平原と豊かな木々の海。魔力を孕む涼しい風に吹き遊ばれるばかりに惚ける桐子の隣で、耐えきれずくつくつと笑みをこぼすのはファブニールである。
「この景色は気に入ったかな、キリコ」
なびく桐子の黒髪と同じように、ファブニールの深紅のたてがみも風に揺れた。屈強な身の丈と体格を包む黒いコートとスカーフもその裾を泳がせている為に、さながら戦場の指揮を執る魔王が如く。ただし背にした風景が美しい自然なので、妙に滲む貫禄は和らいでいる。
「はい、綺麗です。とても」
「そうか、それは何よりだ。この通りに、此処ギリスタスは田舎の極みだが……私にとっては、今はもう大都市と比べられない宝だ」
逡巡する紅い悪魔の瞳は、親が子を見守るような温かさがあった。数百という長い歳月を生きたという、かの悪魔だからこそなのかもしれない。改めて桐子もその景色を見据え、小さく笑う。
……のだが、ふと桐子が考えたのは、此処がどれほどの田舎であるのかというささやかな疑問である。まあ確かに見渡す限り緑一杯で、文明らしいものは後方の街と街道くらいという、世界遺産レベルの美しい自然に囲まれてはいる。けれど桐子の基準と魔界の基準が、同一であるとも限らないわけで。
そもそも、ギリスタスという領地は魔界でどれほどの大きさなのか。知名度も、人口も、その他諸々。ファブニールが普段から口にする田舎領地という言葉も、桐子にはまだ不透明であったりする。
「……こんなに綺麗な景色なのに、此処はそんなに田舎の領地なんですか? ファブニール様」
ファブニールは桐子を見下ろし、その口角を上げた。
「そう言えば君の知る魔界は此処だけだ、分からなくもなるか。ギリスタスは実際、魔界で例えようのないくらい田舎で、しかも小さな領地だよ」
「そう、なんですか?」
「ああ……だろう、イシュト」
ファブニールの頭が、背後へと振り返る。長い足を包むズボンのポケットに手を入れたイシュトは、ファブニールへと視線を合わせ「まあね」と首肯した。
「都市に比べたら、もう全然田舎だよ此処。魔術道具も殆ど無いし、何て言うか自然溢れるし。まあでも、俺はこっちの方が気が楽で良いけどね」
「へえ……イシュトは、その都市の方から来たんだ」
桐子も彼へと振り返った。イシュトは「まあね」と告げ、幻想の風景の遠く果てを見つめる。紫色の丸い瞳には、不思議な感慨深さが宿っているように思えた。
「……正確には、都市じゃなくて、もっと別のところだけどね」
桐子の耳にも届いたイシュトの呟きは、平原から吹きあげる風の音の中へと溶けていった。桐子の口が開きかけたところで、ファブニールの低い声が頭上で響く。
「そもそも、ギリスタスがどれくらいの規模であるかといえば」
言いながら、ファブニールの大きな右手が持ち上がる。20センチ以上はあろう、黒い獣毛の覆う手で、長い指先に生える爪は尖っている。その人差し指が上品に立てられる仕草を、桐子は追いかけた。
ファブニールの指先に、ぽっと光球が浮かび上がる。蝋燭の灯火を彷彿とさせる、ゆらゆらとたなびく小さな光だ。ファブニールは、おもむろにそれを宙に走らせる。さしずめ、透明なキャンバスとでも言おうか。空中に残る光の軌跡を、大雑把に描くファブニールの指先に、桐子の目は奪われる。
「これが、魔界の中央、政治や経済の中心地であり、魔王陛下の居る王城のある大都市としよう」
直径10センチ程度の円を、鋭い獣の爪先が指し示す。桐子がこくりと頷くのを見下ろし、ファブニールは「ギリスタスは……」と呟きながら、円の遥か左隣へ指先を軽く押し付けごく小さな円を描く。「こんな感じだ」
大きな円と、遥か左隣にある豆粒の円。見比べるまでもなくはっきりとした大小の差に、桐子はOh……と感嘆の声を胸中で漏らす。別にそれが悪い事ではないのに、いざ見せつけられると……。
「小さいだろう? しかも、魔界中央からは、容赦なくこれぐらい離れている」
ファブニールは笑って、獅子の尾を楽しそうに踊らす。対する桐子は、なるほど、と神妙に頷いてみせた。言葉だけでは薄ぼんやりとしていたギリスタスの地理が、ようやく分かった気がした。
これは確かに……末端に位置するド田舎と言わざるを得ない。
「ギリスタス領自体はまあ大きいのだが、実際に人が暮らす街が一つのみ。都市と比べれば、これぐらいは差がある。あっはっは、改めて図にすると素晴らしいな」
「笑う要素が何処にあるのか今一つ分かんないけど……それより、ファブニールさん」
イシュトの声に、ピンと緊張が張った。
「――――そろそろ、《仕事》の時間じゃないかな」
告げたイシュトへ、桐子は振り返る。すっと背を伸ばして佇む、しなやかな細身のウサギ獣人は、長い耳を忙しなく揺らしていた。普段は、半ばほどから折れ前へと垂れているそれが、今は真っ直ぐと耳の先端を天へ上向け立てている。風の音を聞き分けている訳では無さそうだと思ったのは、イシュトの紫の瞳が何やら探っているように視線を逡巡させているからか。不意に理解する空気の変化に、桐子は一人オロオロとイシュトを見ていたが、ファブニールは思い出したように「そうだったな」と呟く。指に灯らせたペン代わりの光球を、マッチの火を消す仕草で払い、空中に描かれた簡易地図を手のひらで掻き消す。
「俺は掃除をするとして、ファブニールさんとキリコはどうすんの?」
「お前の邪魔をする訳にもいかないから、私たちは少し離れ視察でもしていよう」
「……それ休憩って言うんじゃ」
「視察だ」
イシュトの呆れた声に、ファブニールは自らの声を被せて遮った。
「という訳だ、キリコ。イシュトはこれから仕事だ、少し離れていよう」
「え、え、あ」
ただ一人、状況に置いてけぼりを食らう桐子は、ファブニールとイシュトを交互に見て疑問符を飛ばす。何かが始まるらしい気配はするのだが、一体何をしようというのか肝心な部分が未だ分からない。
「し、仕事って、イシュトは」
「さあさあ、優秀な使用人に後は任せ、私たちは休憩……じゃない、周辺を視察していよう」
本音が聞こえてんだけど、というイシュトの声を背に聞きながら、桐子はファブニールに手を引かれなだらかな傾斜を持つ平原を上がってゆく。ゆっくりと遠ざかる背を何度も振り返ると、ファブニールが尋ねる。
「気になるか?」
「それは、まあ……自警団がするような仕事を、イシュトがするなんて」
洋館の料理人なのに、と含むと、ファブニールはくっと一度笑い声を洩らした。
「そうだな、確かにあれは普段厨房に立っているのだが、元々料理人として側に置いているわけではなくてな。趣味になった料理が今の状態に至っただけで本来は……」
ファブニールの声が、其処で止まる。同じように彼の歩みも止まり、桐子はつんのめりながら停止した。
「ああ、始まるぞ」
桐子は、ぱっと振り返る。
野草の生い茂る傾斜で、一人静かに佇むイシュトはおもむろに手を後ろへ回し、ポケットから何かを引っ張り出す。それを手早く、白い柔らかな獣毛の覆う自らの両手へと装着した。黒革の手袋だった。ぐっぐっ、と数回手のひらを閉じたり等し、「よし」と呟く。何の準備をしているかは分からないが、彼は長身な背をやや前へ倒し、何をするかと思えば、音が聞こえるほどに深く深く息を吸い込む。
桐子の隣に並ぶファブニールが、さっと両手を上げ、自らの長く垂れた獣の耳を押さえ付ける。それは、音が聞こえないようにと耳を覆う仕草だった。
「ファブニール様?」
「耳を塞いだ方が良い」
強烈なのが来るぞ、と言われたが、桐子は要領を得ず疑問符ばかりを浮かべる。それでも、とりあえずは主人に習うべきかと、彼女も両手を上げぺたりと手のひらを耳に覆い被せる。ただでさえ静かなのに、余計に雑音が減った。
背を曲げ息を吸い込んでいたイシュトは、徐々にその背を真っ直ぐと戻してゆき、顔を天へと上向ける。深く深く、体内の底にまで空気を取り込む動きが、ぴたりと静止する――――その瞬間。
物言わぬ静かな大気を鳴動させるほどの甲高い咆哮が、イシュトより解き放たれた。
耳を塞いでも意味のない、身体の芯を揺さぶり震わす咆哮。暢気に身構えていた桐子は突如襲いかかる轟音に、声にならない絶叫で震えあがった。吃驚し過ぎて動けない桐子とは対照的に、ファブニールは慣れた様子で静かに黙す。
彼の肺には、拡声器が十個ほど仕込まれてるのだろうか。あのしなやかな細身の何処から押し出してんだと言いたくなるそれが、数秒間鳴り響いた後、ようやく途絶える。それでも大気は未だ震え続けており、其処に漂う余韻が言葉にし難い不穏な気配を残していた。依然として、桐子も耳を塞いだ姿勢のまま硬直している。鼓膜に張り付いて、絶えない咆哮が鳴っているようだった。
「さてキリコ、次が来る」
呆然として立ちつくす桐子の手を、ファブニールの手がベリリッと耳から引き剥がす。動き出した時間と共に、桐子の小さな心臓が思い出したようにドコドコと跳ねる。
次が、来るとは。
目の前でクラッカーを鳴らされた猫のような顔をし、桐子は声のない言葉で尋ねる。喉からは情けなく空気が抜けてゆくばかり、魚のようにパクパクと動く口だけが忙しなかった。その様子にファブニールが思わず和んでいた事を、桐子本人は気付いていない。
桐子が彼の言葉の意味を理解したのは、その直後である。
桐子の足元が、ずん、と重く揺れた。元の世界で何度も味わっている、地震の前触れかと反射的に思ったが、じわじわと強くなるそれは……地響きだ。何かが激しく大地を踏みつけ揺らしながら此方へ向かっていると、桐子は察した。イシュトの爆音じみた咆哮が招き寄せているのだろうか、だとすれば一体何が。徐々に強まる足元の揺れ、凄まじい勢いで近付いてくる気配と地鳴りに、相変わらず桐子は硬直したままである。けれど、嫌な予感だけは加速して募っていた。
そして、地響きの正体が目の前の木々の隙間から現れ出でた瞬間。桐子はようやく、《掃除》の意味を理解した。
地響きを伴い姿を見せたのは、四足の獣であった。形状自体は犬や狼のそれと合致するが、ただしとても……愛玩には不向きな外見をしている。陽射しのもとへ我が身を晒すその獣は、体毛はなく滑らかな黒い表皮に覆われた体躯をしており、しかも非常に筋肉質で浮き上がる筋がよく見える。裂けた口から覗く牙は唾液に濡れ、大地を踏みつける四肢はあまりに太い、爛々とする眼は獰猛に狂おしく煌めき……ただの一言で言えば、まごう事無き魔物である。
ドーベルマンの犬種を、もっと凶悪に歪めたらああなるのだろうか。ヴェルゴールにも匹敵する巨大な体長。桐子くらいならペロリと一口に丸呑み出来る大きさが、敵意を向け近付いてくる。
そんな、そんな生き物が、だ。
ぞろぞろと十頭ほど横に広がり、豊かな緑を絶望的なまでに黒く塗り潰している。
「…………ふぁぶにーるさま、あれはなんですか」
「言語と高度な知能は持たぬ、下級魔獣の群れだな。所謂、魔界生物というもので、暮らしを脅かす害獣だ」
いつも以上に舌が回らない桐子の隣で、ファブニールは冷静さを保ったままである。彼女にとっては衝撃映像も、彼らには何の驚きも感じない日常風景だった。
「イシュトの声が、縄張りを荒す敵だと思えたのだろう。最近、新しく住み着いた魔獣がどうにも怪しいと苦情が寄せられたものでな。そういう存在を排除するのもまた、領主の仕事だ」
過ぎったのは、ヴェルゴールの差し出した一枚の羊皮紙。其処に書かれてあった事が、今この目の前に広がる風景であるならば、では。桐子は、もしかして、と確認の意を込めファブニールを見上げる。漆黒の獣の顔ばせに、悪役じみた笑みが浮かんだ。
「要するにイシュトへ頼んだ仕事というのは――――ギリスタスの街に有害と判断した害獣の、物理的大掃除という訳だ」
平原に吹く風が、緊張を帯びて横切った。
現れた巨大な魔獣の群れから、何処か嘲るような響きのある唸り声が漏れる。爛々と凶暴に歪む眼の先には、領主の館で調理を主だって担当している――――と思っていた、ウサギ獣人の青年だ。全体的に細長いし、何よりその頭部が示す通りにウサギという草食生物、一見すれば何の脅威もない《ご飯》なのだろうが。
けれどこの場合、間違いなく《ご飯》にされるのはイシュトではなくて――――。
グルォォオオオオオ!
巨体の魔獣が一斉に吼え、大地を蹴りつけ走り出す。再び起こる地響きが、今度は悪意を以てして周囲を揺らした。
イシュトはそれとほぼ同時にしなやかな長躯を低く屈め、黒革の手袋をはめた両手で地面を叩くや、魔獣などよりも遥かに素早く疾駆した。向かう先は当然――――突撃してくる黒い獣たちの只中である。
それはもう、至極楽しそうに、魔獣と同じくらいに爛々と紫色の目を輝かせ、全身をフルに使って戦い踊る白いウサギ。牙を剥く肉食獣と真っ向から対峙する彼を見て、この日も思う。あれの何処が草食系のウサギか、と。
私に根付いていた常識は、一体何だったのだろうか。甚だ疑問に抱く桐子の頭上で、暢気に広がる鮮烈な青空だけが穏やかであった。
此処は本当に、魔界――――人ならざる者たちの世界である。
誰の手も付かなかった無名の魔の森を拓かれて造られたギリスタスは、まだまだ発展の途上にある上に、常時人手不足、問題事がわりと直ぐに発生する。大都市では大都市特有の問題が起きるけれど、小さな領地も小さな領地なりに問題が起き、日々解決に尽力しているのだ。
ファブニールは、宙にぷかぷかと浮きながらしみじみと語る。その隣で、同じくぷかぷかと浮いている(浮かされている)桐子は、うんうんそうなんですね、とレスポンスも出来ず気もそぞろにソワソワしていた。
「領主というものはな、治める地の規模、街の数、重要性、後は領主の持つ魔力の強さなどから優劣が付く。ギリスタスは下から数えた方が早いくらいには、世界政治にはさほど影響力のないごく小さな領地だ。名前だけは有名になっているが」
――――キャインッキャインッ!
「とはいえ、どの領地にも等しく問題は課せられ、其処に優劣は付けられない。田舎の場合は魔獣やら何やら流れ着いては周辺を度々脅かされる、今回のようにな。防衛に力を入れたいところだが、小さな地では数に限度がある。自警団には何かしら頼みごとをしているから、追いつかない場合が多くてな」
――――さあ、次はどいつだ! かかってきなよ、その牙全部へし折って口の中に刺してやるからさァ!
――――ギャンッ! ヒャインッ!
「そういう時に、イシュトに出て貰っているという訳だ。イシュトの力は元々、厨房向けでもただの喧嘩向けでもない。一対多数の乱戦時に才を発揮する、腕利きの兵だ。実力だけなら魔王陛下に献上しても恥ずかしくないのだが……如何せん、あの性格だしな」
ふう、と漆黒の獣の顔ばせに似合わぬ上品な溜め息をつくファブニールへ、桐子は落ち着きなく視線を彷徨わす。文字通り浮いているのに、さらに中腰になって気を散漫させる。
ご教授頂いてありがたい、ありがたいのだが、しかし。
バックグラウンドミュージックが、あまりにも血の香り纏う大乱闘模様で、おちおち聞いてもいられない。
ファブニールの浮遊魔術で浮いた桐子と、彼は、地上から二十メートル程度離れたところで、ギリスタス郊外の幻想的な自然風景を見下ろしていた。ファブニールの持つ低い声が桐子へ分かりやすい説明を施してくれるものの、その真下では……白ウサギの青年と、毛皮無しの巨大な獣の群れが、暴れ狂っているから気が気でない。いや主に暴れ狂っているのは、全身を使って戦うあの白ウサギの獣人であるが。
当初は派手に登場し威圧感が満ち溢れていたはずの獣たちだったのに、今や丸裸の尻尾を丸めて泣き叫び、苛められる仔犬のようだった。
誰だってそうだ、自らよりも小さな生き物を見れば気が緩む。ましてそれが、ウサギという万国共通で名を馳せる草食系ならば、尚の事。何の武器も持たぬ丸腰の細身な彼が突っ込んできた時、獣たちは間違いなく「殺れる」と思っただろう。だがそいつは、魔界在住歴一ヶ月と少しの桐子ですら絶対に喧嘩しちゃいけない相手と覚えたほどの、肉食系で。
実際、先頭をきって飛びかかった獣の顎を、あのウサギは迷うことなく跳び蹴りで粉砕した。
仰け反って宙を舞い、弱点の腹を見せて気絶した巨大な獣。その時一瞬流れた空気が、「マジで?」と驚愕した彼らの心境を雄弁に物語っていた。
其処からは、お察しの通りである。自らよりも巨体な肉食獣の群れに乱入したウサギによる、一方的な制裁が開始された。
かの獣たちが街や領民を脅かすものと言えど、相手が誰に対しても容赦ないイシュトと思えば……憐憫の情を抱かずにいられない。
心の中で合掌する桐子は、ビクビクと肩を揺らし祈る境地である。
心臓に悪い獣たちの泣き声が止まったのは、それからもう間もなくの事であった。
不意に途絶えた、喧騒の音色。恐ろしいほど静まりかえった空気に、恐る恐ると見下ろす桐子と、パチリと片目を開くファブニールの下では。
漏れなく倒れ伏す毛皮のない黒獣たちの真ん中で、埃を払って身なりを正す、イシュトが居た。
「ふう、仕事おーわり」
特に怪我もなく平然とする彼へ、何度目になるか定かでない戦慄を桐子は覚える。
イシュトが蹴散らした魔獣たちは、ひとまず一か所へ集められ積み上げられた。浮遊魔術を解除し降り立ったファブニールは、それを見やりながら自らの獣の顎へ指を添え思案する。
ちなみにその後ろで、桐子は地面にへたり込んで胸を抑えていた。未だドコドコ鳴り響いている己の心臓は、緊張が解けた今ようやく落ち着こうとしているが、それでも目の前でアクション映画の枠を大いに飛び越えた本気の大乱闘に付いていけていない。
「……ちょっと、あれだけで死にそうな顔するなよ」
「……むり、ちょっとまって、いましんぞうどこどこいってるから……」
「はァァ……」
黒革の手袋は付けたまま、イシュトはいつもの調子で肩を竦め佇む。普段の格好からエプロンを取り除き、代わりに白い手を包む黒の手袋が増えただけなのに、整った肉体の造りも相まってむかつくぐらい格好いい。頭はウサギであるが。対する桐子は、彼の足元で胸を必死に抑え幾度も深呼吸を繰り返す。実に見苦しい事は、桐子が承知している。
大体、そうは言ってもテレビの中でしかああいった戦いを見て来なかっただけに、目の当たりにすると震えあがるくらいには緊張するのだ。しかも……人間同士ではなく、かたや細身の青年と倍以上の巨躯を持つ獣だから、尚更である。
「と、ところで……その魔獣は……全部、し、し、」
「は、死んでるかって? 気絶だよ気絶、手加減する方が神経使って疲れるんだけどねー、ファブニールさんに見て貰わないといけないし」
ぐにぐにと肩を回すイシュトを、桐子は足元から見上げる。
「手加減、してたの?」
「でなければ今頃、この辺全部血肉で赤くなってるけど」
比喩なくそのような光景になるだろう事は、真っ青になる桐子も理解した。恐らくイシュトならば、本当にやりかねない。やだこの子、本当にただの料理人じゃないの?
「……やはり、か」
気絶しているとはいえ死んだように僅かとも動かない獣の山を、じっと眺めていたファブニールが呟いた。這うような低音を聞き、桐子とイシュトは揃って振り返る。視線の先では、白目を剥き、手折られ牙のない顎を開き、真っ赤な舌を垂らすという、げにも恐ろしい形相で気絶する魔獣が十頭。ひきつった悲鳴を何とか抑え込み、桐子は出来る限り主人の背に視点を合わせる。
「首輪付きだ、これは」
爪の生え揃う黒い手を、正面にある獣の頭部へとかざす。紅い光が滲んだかと思うと、獣の全身に紅鎖の模様が浮き上がった。まるで、猛獣の動きすら封じる強固な鎖を彷彿とさせる。ファブニールの手が離れると、その模様も消えて無くなってしまった。
「行使者の魔力にのみ従うよう縛りつける、典型的な束縛の魔術。中の上、といったところか」
「要するに?」
「こいつは野性の魔獣ではなく、それなりに腕の立つ術者が調教した魔獣という事だ」
それは、つまり。
「……自然に街の郊外に、流れてきた訳ではないという事ですか?」
呟いた桐子へ、一度ファブニールとイシュトの視線が集まる。
「君は時々、とても勘が良い」
それはつまり、肯定の意。桐子はドキリとして、ファブニールの背と積み上げられた魔獣を交互に見た。
「あの、どうして……」
「……どうして、か」
す、とファブニールの長躯が振り返り、紅の瞳が動く。桐子を見据える眼差しに、先ほどとはまた別の緊張が心臓を跳ねさせる。
「理由は幾つでも思いつくが、この地を害そうとしている事だけは確かだな。まあ、まずはこれらを綺麗に片付けるとしよう。目を覚ましてまた周辺を荒らされてはかなわん」
ファブニールはそう告げると、再び桐子へ背を向けた。ふつりと途絶える、見透かすような眼差し。安堵しながらも思う、誤魔化されたのか、と。困惑にまごつきながら立ち上がる桐子の隣で、イシュトは紫色の瞳を鋭く光らせ、桐子と、ファブニールを盗み見ていた。
積み上げられた魔獣は、一度街の自警団駐屯所へ送られる事となった。一度桐子も見たあの駐屯所の地下には、収容施設があるらしい。
ファブニールが一度パチン、と指を弾くと、目の前に積み重なった魔獣たちは全て消えてしまった。恐らくはもう街へ移動しているのだろう、転移魔術というものは便利だなと思う。
「魔法って、言葉は使わないんですね」
「ん? 言葉、というと」
「こう、難しい……えっと、詠唱っていうんですか? そういうものはないんですね」
指先一つで、ファブニールは桐子へ様々な非現実的な力を見せてきた。魔界にとっては常な風景でも、桐子にとっては未知の領域だ。物がひとりでに動いたり、浮いたり、場所が変わったり、火が点いたり。映画の見過ぎかもしれないが、そういう場合は何か厳かな言葉を紡ぐものではないだろうかと、桐子の印象は強い。指パッチン一つで何でもしてしまうなんて、と桐子が呟きながら自らも指先を鳴らす。
ファブニールは、ああ、と呟くと獣の顔ばせへ笑みを浮かべた。
「いや、魔術は確かに、言語による制御、発動、行使などを行う。安全に、安定させ使うには言葉は必要であるし、難易度の高い魔術になればなるだけ長文になり、やはり必要不可欠。だがまあ、簡単な児戯程度なら私は指先一つで問題ない。要は、慣れと経験が物を言うのだ。年を取ると、そういうものが得意になる」
「へえ……そうなんですか」
「だがまあ、言語での発動は、格好は付くな」
「もう、ファブニール様」
吹き出すように、桐子は笑みをこぼす。しかし、指パッチンで発動、か。未知の異世界の常識は、まだまだ桐子には疎い。それがどれほどの事であるのかは、当然ながら知らない。
しかしもしも知っていれば、イシュトがその時見せた反応の真意も、彼女は気づけたかもしれない。
「……ファブニールさんのその言い方じゃ、誰も彼も出来て当然って聞こえて、誤解招くんじゃない?」
「え?」
「ふ、さあ、どうかな。取り立てて特別な事ではないと、私は思っているが」
イシュトは肩を竦め、半ばから折れ曲がり垂れる耳を、一度揺らした。そんな彼と、意味深に笑うファブニールを交互に見る桐子であるが。
「なに、気にするな。さて、それよりもせっかく外に出たのだ、少し見て回ってみようか。休憩がてら、な」
そう言われ、桐子がそれ以上気を掛ける事は無かった。
果てにまで続く平原から場所を変え、緩やかな流れの河川の側に桐子たちは居た。見た事のない草花の咲く川縁から、透き通るまでに澄んだ清らかなその景色に、桐子は魅入られる。横幅は広く大河のような姿、けれど流れは決して急いて下る事はなく、あくまで穏やかだ。まるで、時間の流れさえも忘却させるような。
「気を付けなよ、それ毒花だから。踏んづけたら足が溶けるよ」
「ギャア!!」
とはいえ、毒を孕む美しい花が足下に咲いているから、油断ならない。薄ぼんやりと告げるイシュトの言葉に、桐子は素早く反応し飛び越えた。
「嘘に決まってんでしょ、花踏んだくらいで溶けてたまるかっての」
「嘘かい」
「まあ毒花は本当だけどね」
足下こそをよく見ていた方が良いかもしれないと、桐子はそっとスカートを摘んだ。
「ところでアンタ男みたいな悲鳴出すね」とイシュトから静かにこけ下ろされた事が、若干桐子の心を抉った。仕方ないだろう、此処に来てからほぼ毎日驚愕の手に汗握るエンターテイメント状態なのだから。嫌でも女らしさが消えてゆく。
と思った瞬間、桐子はよく生きているなと一人溜め息をつきたくなった。
川縁から興味深そうに周囲を見渡す桐子と、その後ろについたイシュト。ほんの少し離れた場所では、彼らを見ながら吹き上げる風に紅いたてがみを揺らすファブニールが居り、短時間ながらゆったりとした各自の自由が其処にあった。
「ねえ、ところで」
桐子はイシュトへ振り返った。
「イシュトって、本当に強いんだね」
「何が?」
「だってほら、さっきの大乱闘。あれって本当は、自警団が受けるものだったんでしょ?」
《掃除》の意味を理解した、先刻の景色。真新しく記憶に残る、イシュトの日常の非でない暴れっぷりは桐子を驚かせた。同時に寿命も縮ませたが。
イシュトは特に照れたりもせず、ただ淡々と「ああ」と反応するだけである。
「まあね、常時人手不足だし、元々俺はそっちの方が仕事だし」
「そっか……」
ふと、桐子はイシュトを見つめる。白い体毛を持つ、ウサギの獣人の彼。しなやかな長躯で、足もすんなりと伸び、それでいてヒョロヒロな軟弱さは決して見当たらない。細身の印象は強いけれど、その手に、足に、身体に、桐子が僅かでも敵うところなんてありはしない。獣と人が合わさったような種族、獣人。強い獣性を持ち、屈強で逞しく、獣の力を秘めるという事を、桐子はようやく知った気もした。造形自体は人に近くとも、人間とは比べてならないのだろう、とも。
「……イシュトは」
桐子は、きゅっと手を握りしめる。勇気を振り絞るように、躊躇いながらも言葉を紡ぐ。
「戦う事の方が本当の仕事なら……今までは、そういう立場にあったって事なの?」
ヴェルゴールの経緯があるならば、もしかしてイシュトも、兵、或いはそれに準ずる役職に身を置いていたのだろうか。先のあの戦いぶりを見れば、素人である桐子とてそう思ってしまう。
イシュトは、恐る恐ると尋ねる桐子へ顔を向ける。紫色の丸い瞳はじっと、視線を落としていた。
「別にビクビクする必要なんか無いでしょ」
「あ、うん、そうかもしれないけど……」
「ま、答えを言えば、そういう立場にあったよ。俺も」
よっ、と声を漏らし、イシュトは軽やかに倒木の上へ立つ。
「もっとも俺の場合は、ヴェルゴールのおっさんみたいに魔界に尽くす為じゃなくて……喜ばす為の存在だったけど」
イシュトの持つ、青年の声が、微かに陰った。
ファブニールの紅の瞳が、ひっそりと閉ざされる。
「――――こないだの話、覚えてる? その昔、魔界が隣り合う世界に侵略しようとしてしっぺ返しを食らったってヤツ」
芯のあるしなやかな背を、桐子は見上げた。河川から吹き上げる風に、黒髪と、エプロンやスカートがはたはたと揺れた。うん、と頷きを返した桐子へ、イシュトは言った。
「勇者とかいうのとやりあった魔王は、魔界で最後の暴君となって葬られた。長きに渡る侵略戦は終わり、めでたしめでたし。
けど、戦いが終わっただけで、魔界はしばらく荒れに荒れたんだって。その次に現れた魔王は、侵略を掲げた古株の魔族だとか、あちこちを荒らす悪魔やら何やらを全て断罪して大掃除を始めた。大々的な粛清を執り行って、魔界を変えようとしたんだよね」
イシュトは、倒木の上から軽くジャンプし飛び降りる。
其処までは、桐子も聞かされたところだ。その昔、《門》と呼ばれる世界を繋ぐ入り口を造り上げ、侵略の発端を起こした魔界。そして侵略された世界も同じように門を造り、長い戦いが始まった。終盤は、勇者なる存在が送り込まれ、暴君と呼ばれた魔王は倒れた、と。確か、その次に現れた魔王が侵略戦を二度と繰り返さないよう明言し、当時のその戦いを掲げた魔界の者たちを断罪。他の隣り合う世界と友好関係を結ぼうとし、現在も試行錯誤している、とか。
だけどね。桐子の思考を不意に遮ったのは、イシュトの声であった。
「多くを断罪したって、早々に改善なんかされない。その魔王は当時、処刑王なんて呼ばれるくらいにはめちゃくちゃ恐れられたけど、まだ中には侵略戦のあった時代を求める奴らも居たわけだ。そいつらは闘技場を隠れ蓑にして、色々やらかしていた」
「闘技場……」
「そ、アンタの世界にもあったかな」
闘技場。
戦う術を持つ者たちが競い合い、観客を喜ばせる場所。時に試合に対し金銭を掛けたりもする、施設の事だ。
聞き覚えはある単語で、こくりと桐子は一つ頷く。
「ただ単純に試合をするだけなら、別に良かった。娯楽だし、処刑王も其処までは潰さなかった。だからそいつらは、闘技場に裏側を作って色々やっていた。裏闘技場、なんて呼ばれてたっけ」
「裏、闘技場……?」
「表の闘技場では決して見せられない、地下で行われる過激な見せ物」
淡々と語っていたイシュトの声に、険しさが混じった。
「……侵略戦の時代のような感覚欲しさに、色々する場所さ。例えば、何の武器も持たない人間を一人、真ん中に放り投げる。で、その倍以上ある魔獣を放り込み、ゆっくり嬲り殺す。そういう見せ物をするんだよ、裏闘技場はね」
桐子は、顔を歪ませた。言葉からも想像の容易い、惨たらしい光景が浮かび上がった。
「特に其処の一番の見せ物が、ただ一人で百匹以上の魔獣や数頭の竜を倒させる試合だった。何の武器も持たせず、身一つで、全て倒すんだ。まあ、倒さないと死ぬだけだし」
ふう、とイシュトは溜め息をつく。まるで思い出すように。
桐子はハッとなって、イシュトを見上げた。視線を向ける紫色の瞳が告げたい事を、桐子は分かったような気がした。
「……ま、要するに俺は、その法外な掛け金と虐殺が飛び交う裏闘技場で、剣闘士やってたってわけさ。一番の見せ物専用の」
イシュトは、ふっと鼻を鳴らし笑った。普段の仕草であったけれど、今はそれが、妙に物寂しく桐子に見えた。
「俺が魔界に居るのは、裏闘技場の為だけに隣り合う世界から連れてこられた駒みたいなもんさ。其処で死にものぐるいで勝ち続けて生きてきて、ある日ようやく魔王の耳に入って解放された。一斉に連れてかれるあれはスカッとしたね、せめて一発ずつくらいはあの魔族たちの顔ブン殴ってやりたかったけど」
イシュトは、手袋に覆われた自らの手のひらおもむろに握りしめ、拳を作る。彼へ掛ける言葉が見当たらず、躊躇う桐子へ、イシュトは浮かべた険しさを緩めた。
「で、裏闘技場から解放された俺は、此処に拾われて現在さ」
イシュトの声が普段通りであっても、桐子はそうもいかなかった。沈み込み、そのまま埋まってしまいたい気さえあったくらいだ。数分前、自分は何を言った。強いだの何だの、イシュトにとってはそんな単語、嬉しくも何ともないくらいは想像つく。或いは、もっとも彼を傷つける言葉を告げたのかもしれない。
すっかり暗くなって俯く桐子を、イシュトは一瞬ギョッとして見やる。
「ちょっと、何でアンタの方が泣きそうになってんの」
「だって……」
「あのさあ、言っとくけどただの昔話だし、今更哀れまれる理由がないよ」
ピシャリと頬を打つように告げられる。それも、そうだ。此処で桐子が悲しんだってわざとらしいし、あまりに無責任で腹立たしくもなるだろう。滲みそうになった涙をぐっと堪え、桐子は顔を上げる。
「俺はさ、別に昔の事はどうこう言わないし、開けっぴろげにする話題じゃないけど隠しているつもりでもないし。だからさ、アンタが気に掛けるようなもんじゃない」
頭の後ろを掻きながら告げる彼の声は、不器用ながらも、気にするなと桐子へ伝えていた。胸の何処かに食らいついたまま離れない感覚があったけれど、彼がそう言うのであれば桐子も……強がって、常と変わらないよう小さく笑みを浮かべる。うん、と頷いて見せる桐子から、イシュトの視線が外される。
「俺は、見せ物の為だけに魔界に連れて来られ、ガキの頃から大人になる間ずっと裏闘技場で生きてきた。使えるものは全部身につけて、死に物狂いで試合に勝ち続けて、で今はこうして好きな事を此処でしてる。悪くはないよ、今も昔も。この姿だと絶対初見で騙されてくれるから、何かと便利だし」
「……そっか」
イシュトの瞳が、今一度桐子へと向いた。
「……アンタも、そうしたら良い」
「え?」
「使えるもんは使うくらい、図太く、厚かましくしたら良い。それで堂々と自分のやれるもんを最大限に売り出して、好きなようにやれば」
吹き上げる風が、少し強めに過ぎ去った。泳ぐ髪の向こうで、イシュトはその時珍しく真剣に見下ろしていた事を桐子は気づいたけれど、照れ隠しなのか彼は直ぐに背を向けてしまった。
「あーあ、柄じゃなくて気持ち悪いや。忘れて良いよ、アンタにとってはしょうがない事だろうし」
早口に、イシュトは捲くし立てる。踵を返して桐子から離れてゆく彼の手を、咄嗟に桐子は掴んだ。手袋の向こうに、長く筋張った指の存在を感じる。声だけは年下の青年、けれどその手の硬さや大きさは、異性のものだ。そして、桐子などよりも壮絶な生を歩んだ、証そのもの。
ぐっと掴んでくる桐子の指を、イシュトは振り払わずに顔を下げる。どちらかと言えば困惑し、振り払えない、といった感情が強く浮き彫りになっている。
「ごめん」
唐突に告げられ、イシュトは小首を傾げる。それと、と付け加えられ、開き掛けた彼の口は閉じた。
「やっぱり、ありがとう」
向けた笑みは、ひきつっていて不器用であったかもしれないが、それは桐子の本心であった。
思い出したのだ、最初、桐子は彼に殺されるかもしれないと本気で思った。けれどあの時も、これまでも、今も、彼が言おうとしている言葉には、彼が身をもって学んできた事そのものが含まれているのだとようやく知った。まだ何の術も持たない自分を、彼なりに、押そうとしてくれている。
複雑な感情が満ちてゆく胸、イシュトの長い指を握る桐子の指に力が増す。
イシュトはしばらく、ぼんやりと桐子を見た。が、ハッと意識を戻すと慌ててその手を振り払った。
「礼を言われるような理由がないよ。俺が勝手にした事だし」
憎まれ口を叩くイシュトの、裏腹な優しさ。桐子は小さく笑い、その手を後ろへ回す。とっと、と軽く小走りになってイシュトの後ろへつくと、彼は煩わしそうに急に小言を言い出したのだが、それが照れ隠しにしか見えなくて桐子はちっとも怖くなかった。例え彼が、その裏闘技場なる場所の剣闘士であったとしても。桐子にとっては生意気な、それでいてよく出来た弟のような存在のままだった。
「ね、イシュトはやっぱり優しいね」
「はあ? 頭腐ってんじゃないの」
「ふふ、えい!」
歩くたびにぴょんぴょん揺れる耳を、横からぐっと掴んでみる。桐子の頭の天辺にイシュトの平手が飛んできて大層良い音を奏でたが、今は痛みも気にならなかった。
過去は過去。実際に我が身に降りかかったあった出来事でも、今や手の届く事のない過ぎた記憶だ。
イシュトは、そう口にして強がった。けれど実際は、今でも幾度と無く思い出される、凄惨な記憶であった。表の闘技場の地下深く、閉鎖された薄暗い地下世界。夜毎始められる、狂ったような血の饗宴。自らの欲望を満たす為だけに、多くの凶悪な魔界生物を集め、ただ中に放り投げられた子どもたちや必死に足掻く者たちの叫びは、慟哭は、今も離れずイシュトを苛ます。
ただの子どもが、あのような環境で生きていける訳がなかった。それでもイシュトが死なずに今日まで生を歩んでいるのは、あの時名の知らぬ同じ立場の獣人が救ってくれたからだ。彼は魔界を教え、闘う術を教え、生き延びて足掻く事を何度もイシュトへ説いた。その獣人は確か……何かの拳法の流派を修めた師範とかで、イシュトはそれを貪欲に学んで身につけた。その彼も、裏闘技場で最も人気を集めたという、かの一対大多数の非常な試合で命を落としてしまった。イシュトはその試合の一番人気の剣闘士になるまで戦い続け、生きた。処刑王と謳われ恐れられた魔王の耳に入り、闘技場が根本から作り直された時、彼はようやく剣闘士の呪縛から逃れる事が出来た。
月日が流れ、ギリスタスに身を寄せたイシュトの前に、桐子という異世界人が現れた。
その時、イシュトは別に彼女を助けたいだなんて思わなかった。だがその昔にあった自らの立場と、その人間の立場があまりにも酷似していて、何かに突き動かされた。
元の世界から家族と引き剥がされ、無理矢理魔界へ連れてこられ、裏闘技場で最悪の見せ物にされた己と。
見ず知らずの世界に落とされ、魔界で暮らす事を余儀なくされ、その立場と性質は魔界にとって涎ものの存在となって、呆然とするばかりの人間。
勝手に、押しつけただけだ。あの頃イシュトを救った名の知らぬ獣人がしてくれた事をして、勝手に押しつけて、満足していただけだ。
――――……別に、ただ、何となく思い出しただけだよ
――――似てるどころの話じゃない。外見は違うのに、中身とか境遇とか当てはまり過ぎて、そのものに見えるよ最近は
彼女に礼を言われる筋合いはない。けれど言われると、満足もする。
その勝手に押しつけさせたイシュトの感情が、《救いたい》という名のつくものであったのかは今も実際分からないけれど。あの時出会った獣人がしてくれた事は、感謝している。あの獣人も、そう思ったのだろうか。
(許してくれ、などとは言わん。私がしようとしている事も、お前にとっては偽善でしかないだろう。だから、もしも私がこれからする事が気に入らないならば、この首を持ってゆくと良い。喜んで私は差し出そう。それでも、僅かでも信用に値すると思ってくれるのであれば、この役目を終えた後は私と共に――――)
不意に過ぎった、処刑王と呼ばれた《魔王》の言葉。
あれの首は結局取れなかったっけ。恩人の敵討ちより、恩人の分も生きる事を選んだ、なんて事は言うつもりはないけれど、ともかく。
今のイシュトには、昔の己そのものである桐子を勝手に手助けする事がわりと、結構、大きくなっていた。
そんな事は絶対に言わない、と意地になっているイシュトの隣で、桐子は笑みを深めて歩調を合わせている。彼らの姿を、ファブニールは寛ぎながら静かに見守っていた。ある意味では似た立場だからか、また少し近付いたような気もする。ほんの一瞬だけ安堵を浮かべ、彼は再び瞼を下ろした。
その昔、ただ一度きりの諫言により現在の姿となった魔族の将――――ヴェルゴール。
侵略戦の後の世で、過激な試合を必死に勝ち続けてきた裏闘技場の剣闘士――――イシュト。
彼らには彼らの昔話があって、そして現在はその過去を受け入れ、このギリスタスの地に貢献している。
ならば私は。私には何が出来るのだろう。彼らのような強さは持ち得ないし、今後も持つ事はない。身一つで落とされたただの人間、魔界の事を知ってゆくその先で、私は何が出来るのだろう。もっと具体的に、もっと確かな恩返しは……何が、出来るのか。
桐子の中に芽吹きつつある決意の種は、まだ小さいが、形となって咲く時を待っている。
過去は凄くても、わりとその辺は設定の無駄遣い。重きを置くは現在です。
と言いつつ、主人公もそろそろ動かし時だなと思うこの頃。




