異変
走る、走る、走る。倒木の幹を両手使って飛び越えて、目の前を覆う草を右手で払いのけて、小石を踏んで、落ちた枯れ枝を踏み潰して。
木の根や地面にあいた窪みで転ばないように、足を滑らせないように、体をぶつけないように、意識をそちらに集中させて、気を付けながら走ってく。草をかき分けて、地面を踏む音だけが僕の耳に届いてきて、僕はそのまま走り続ける。急げ、急げ、急げ、そんな声が僕の心を占めていって、 踏みしめた足元がぐらりと揺れる。バランスを崩して、まずい、そう思った時にはもう遅い。瞬間的に視界はなくなって、体中に衝撃が走って、頭を何かに打ち付ける。
目を開くと、地面をベッドに横になっているんだ。ひんやりと湿った地面を頬で感じて、鼻には土の匂いが漂ってくる。地面や枝、小石に打ち付けたから体が痛くて、何かにぶつけた頭は酷く痛むんだ。ずきりと痛む頭を両手で抱えて、地面を転がる。
「うぅ……」
うめき声をあげながら、ごろごろ、ごろごろ。ひんやりとして固い地面、小石や枝が体にごつごつと当たるんだ。
しばらく転がって、そうして今度は背中を丸めて蹲る。まるで球のように丸まって、地面に額をつけるようにして痛みをこらえる。砂が額について、ざりざりとしている。痛む後頭部を掻き毟って誤魔化そうとするけれど、痛いものはいたいんだ。
「大丈夫か?どこかにぶつけた?」
少し時間がたって、僕の背中に声がかかる。後頭部を掻く手をとめて、顔を左に向ければ見慣れた足が見える。視線を上げれば、心配そうに見つめるユリウスがいる。
「転んで、どこかにぶつけたんだ……」
笑い声が聞こえてくる。
「そこらへんの石ころが木にでもぶつけたんだろ。今回の勝負は無効だな」
けらけらと笑うユリウスに、僕は少しだけ恨みを込めた視線を向ける。
まだ痛む後頭部をさすりながら立ち上がる。額についた土がぱらぱらと落ちていく。両手をはたいて、服をはたく。そうすると周りに土ぼこりが舞って、ユリウスは少し嫌そうな顔をする。
「ごめん」
軽く謝って、首を回す。
「行くよ」
そう告げるユリウスに、うん、と同意を返す。ユリウスは歩き始めて、僕はそれについていこうとする。けれど、右足を踏み出した途端に足首に痛みが走る。思わず声を出してしまって、ユリウスが振り返る。
「足、くじいたのか?」
それに同意を返して、右足を地面に押し付ける。体重をかけて、抜いて、くりくりと動かしていく。痛みが走るけれど、歩けないほどではない。
「大丈夫、走れはしないけど」
心配そうなユリウスにそう返す。地面に気を付けて歩かなきゃね、そう言うと彼は笑って、僕は少し気が安らぐんだ。彼が落ち込んだままでは、楽しめないから。
配慮のお陰か、ゆっくりと林を進んでいく。村から離れてはいくけれど、そこまで遠くにはいかない。あくまで村の大人の日々の行動範囲内。
しばらく歩き続けて、大樹のもとに辿り着く。幹は太く、ごつごつとしていて、枝も太い。長い間生きてきた木で、がっしりと地面に根を張っている。途中から二股に分かれていて、どちらも僕の体よりも太い。そうして横に上に伸びていく木はまるで空に向かって両手を広げているみたいな形をしてる。
「大きいね、何度見ても」
呟く僕の横で、彼は同意を示す。林のはずれのほうにあるこの木は、周りのそれよりも幾倍か頑丈そうで、大きい。
ユリウスがその幹に近づいて行って、両手と両足をかけて登り始める。幹にできた穴や瘤、枝分かれに足や手をかけて、するすると上へ向かっていく。とはいっても、遥か高いところにいくわけではなくて、僕の視線の範囲内くらいの高さまで。
ユリウスも僕も十三歳、けれど体格はユリウスのほうが大きい。だから木を登るのも彼のほうが得意。しなやかで大きい体を使って登ることができるから。
ユリウスが登りきって、二股に分かれた先に座る。それを見て僕も木に手をかける。両手で幹をしっかりとつかんで、左足を瘤にかける。さっき挫いた右足はもうだいぶ回復してきていて、それを木に絡ませるようにする。あとは瘤や穴、段差になりそうなものを探してそこに手足を持っていくだけ。力強く腕で体を引っ張って、足で体を押し上げて、時には勢いをつけたりして登っていく。
掌に木屑が付いて、幹の模様が写ってきたころにユリウスのところまでたどり着く。手を叩いて、彼の隣に腰かける。落ちないように枝をしっかりとつかんで、太い幹にどっしりと腰を下ろす。僕たち二人の体重くらいじゃ古木にはなんともなくて、安心感のある座り心地なんだ。
目の前には葉をつけた枝が合って、それを払えば景色が見えるようになる。林のはずれ、大きな木の上、だから林が途切れた先が見えるんだ。何回か見たことのある景色を楽しむ。
青い空に少しばかり雲が浮かんでいて、深緑の香りが鼻をくすぐる。それが心地よくて、だから目が冴えたのかもしれない。ふと、僕は目の前の光景のおかしな点に気が付く。
「ね、ユリウス、あれを見て」
隣で同様に景色を見るユリウスの肩を叩いて、指で指す。
「あれは……」
ユリウスは僕の指し示す方向に目を向けて、その目を細める。
一面に広がる林に、それを分断するように点在する草原が綺麗だ。そのなかに、僕が指差すそれはある。遠く遠く、ぎりぎり見えるところに村があって、そこから煙がでてる。もうもうと空高く立ち上がっていて、途中から雲と同化してるんだ。
「あそこ、たしか村があるんじゃなかった?」
僕の言葉に、ユリウスは頷く。火事かな、そう言うんだ。村から煙がでるなんて、そうそうあり得ないんだ。枯れ草を燃すことはあるけれど、あんなに大きな煙はでないと思う。それに、今は枯れ草が出るような時期じゃない。火事かもしれないけれど、燃えても家1つだから、こんなに遠くから見えるほど大きな煙はでないと思う。
「何が燃えてるんだろう」
僕の言葉に、ユリウスも首を捻る。
「家がたくさん燃えてるんだろう」
「そりゃあ、それしかあり得ないけど、何で?」
ユリウスに疑問を投げ掛ける。それに答えはなくて、風の音が僕達の耳に流れ込んでくる。
しばらくしてから、風を割くようにしてユリウスが呟く。
「親父に、大人に伝えないと」
僕はその言葉に同意して、ユリウスに先んじて木を降りていく。
「気をつけろよ」
「わかってる」
登りよりも降りのほうが危険だってことくらい、僕もわかっている。だから、気を付けてゆっくり降りていく。ざらざらとした幹に指をかけて、滑らないように気をつけて降りていく。登りに使った引っ掛かりをなぞったり、なぞらなかったり。その時その時で安全そうな引っ掛かりを見つけて、そこに足や手をかけて降りていくんだ。
そうして地面に近づいて行って、あと少しというところで地面に飛び降りる。
どさり、そんな音が周りに響いて、僕は衝撃を堪える。手についた木の皮と土埃を払って、服についた汚れを叩きながら木から離れていく。上を向けば、ユリウスが降りてきていて。慌てて木の根元から移動して、ユリウスが降りてくるのをしばし待つ。
そこから二人で村に向かって歩いていく。行きとほぼ同じ道を通って、けれど周りに気を向けることはせずにまっすぐ帰っていく。鳥の鳴き声がキリリと林に響いて、ひんやりとした空気が僕を包む。先ほど見た光景に少しばかり恐怖しているからだろうか、少し寒い。
「どうするのかな」
僕が呟いた言葉にユリウスは反応する。
「多分、誰かが見に行くことになるだろう。ただ、乗り物が無いから時間がかかるだろうな」
「次の行商で子馬が届くのに、タイミングが悪いね」
「ああ、本当に」
村で飼っていた馬が死んだのは二ヵ月ほど前のこと。だから前回の行商の際に村で馬を二頭購入した。それが届くのが次回、だから今は村に何もいない。
誰が行くことになるんだろう、そう呟けば、それは大人が決めるさ、そう答えが返ってくる。僕たちも一緒に見に行きたい、そう思うけれど、何があるかわからないからそれは難しいと思う。好奇心はあるけれど、決して安全な場所ではないだろうから。煙が上がっているのは僕たち以外も見ているから、もしかしたら野盗が見に行っているかもしれないし、獣がいるかもしれない。そんな時に、僕たちでは足手まといになってしまうと思う。
村が見えてきて、そこに向かって僕は歩く速度を上げようとする。けれど、そんな僕の目の前に手が出される。
「待て」
「えっ?」
ユリウスの手を見て、突然のことに驚いて彼のほうを見る。彼は目を細めていて、何かを見ている。柵の奥、僕がなんとか見れる景色は大して変わっていないように思える。
「遠くから、馬が見えたような気がする」
ユリウスの言葉に僕も目を凝らすけれど、そんな姿は見えない。二人で近くの木々に少しだけ登って、高い位置から柵の奥を見る。
いつもと変わらない村が見えて、何ともないじゃないか、そう言おうとする。その時、どこかで馬が嘶く声が聞こえてくる。
息が詰まる。馬の鳴き声は聞こえるはずがない。村には馬はいないから。
「行商人じゃないよね」
「違う。広場に馬車がとまっていない」
「じゃあ、あ、あれ!」
次の予想を伝えようとした瞬間に、家の陰から馬が出てくる。それをなだめているのは男の人、見たこともない人。村の人たちの服装じゃない、暗い色の服。
「誰?」
「わからない。他の村の人が来たか、それとも別か」
ユリウスは首をひねる。そうこうしているうちに、男の人は馬を連れてまた家の陰に隠れてしまう。
「まぁとりあえず村に入ろうよ」
僕の言葉にユリウスは少し考え込んで、そうして頷く。誰かわからないけれど、もしかしたら旅人かもしれない。
そうして、僕とユリウスは村に近づいていく。草原を抜けて、扉のほうに。少し喉が渇いた、そう思うんだ。
ユリウスが扉を開いて、村の中に入る。僕はその次に。とりあえず一旦家に帰ることにして、柵を越えてすぐにユリウスとは別れる。
家のほうに向かって歩いていく。畑を見て、たわわに実った稲に心が躍る。僕も手伝ったから、収穫が楽しみ。そう思って歩いていくと、僕の家の前に辿り着く。
三年間も過ごすと、もう自分の家のように感じてくるんだ。クリスさんとエリサさんの家だけれど、二人ともが本当の両親のようにも感じてきている。随分と慣れたと思うんだ。ここに来たころは、三年前は人間が怖くて怖くてたまらなかったけれど、今はそんなに怖くない。村の人たちは優しいし、時折村に来る人たちも皆優しいんだ。エドゥアルド達も昔は嫌だったけれど、この前会ったときはそこまで嫌じゃなくなってた。向こうが優しくなっていたのが一番の理由だろうけれど、皆を信じれるとも思うようになったから。
胸がチクリと痛む。良い人だけじゃない、悪い人はいる。クラウとロヴィを殺したあの男、父上と戦っていた黒髪黒目の男。彼らは許せない。父上はきっとあの男を倒していて、ロヴィを殺した男は多分怪我で死んでる。だからといって彼らを忘れたことはないんだ。ああいう人間族もいるってことを覚えておかないといけないような気がしたから。
家の扉を開けようと手を伸ばした途端、勝手に扉が開く。そうして僕の目の前に知らない男の人が姿を現す。びっくりして、動けない。
「あ、おめえ!」
伸ばしていた手を掴まれて、家の中に引き摺りこまれる。無理矢理ひっぱられて、足がもつれる。居間にその勢いのまま転がされる。ごろごろと転がって、身体が少し痛む。
立ち上がろうとした途端、背中に何かがのしかかってくる。両手を無理矢理とられて、耳元に声がかけられる。
「動くな、殺すぞ」
低い声に驚いていると、両手を背中側で縛られてしまう。喋ろうとした途端に口に何かを咥えさせられる。足も縛られる。
無理矢理縛られているから、身体が痛い。咥えさせられたものは布で、噛み千切れそうもない。そう思っていると、外から何か声が聞こえる。
「大人しくしてろ」
聞いたことのない声、背中にかかっていた圧力が消えて、男の人は家からでていく。僕は手を縛られて、口に布を咥えさせられて、居間に転がされたまま。
何があったのか全く分からなくて、頭が全然回らない。どういう状況なんだろう、答えは中々出てこない。