名前
あの日、僕はそのまま意識をうしなっちゃったらしい。あとで二人に、すごく心配したよ、そう言われたんだ。だけど、僕が意識的にやったわけじゃないから、許して欲しいと思った。だってほんとうに怖かったから。あのまま兵隊に連れていかれてしまって、僕は殺されてしまうんじゃないかって思ったから。
目を覚ましたのは次の日の朝で、お婆さんが僕のことをまた強く抱き締めたんだ。思ったよりも強く抱き締められて、変な声が出ちゃったのを覚えてる。大丈夫?怖がらせてしまってごめんなさい、そう謝られたのを覚えているんだ。お婆さんのせいじゃないよ、こちらこそごめんなさい、そう言ったら、お婆さんはくすくす笑った。
「優しいのね、でも、お婆さんという年ではないわ」
そういってから、お婆さんは僕の頭を撫でたんだ。
「私はエリサ、エリサ・ケトラって言うのよ」
暖炉のような場所の前に座って、つりさげられた鍋をかき回してたお爺さんも、こちらを向いて口を開いたんだ。
「私はクリスティアン・ケトラ、エリサの夫だ」
「私たちは農民だから、今四十五歳だけれど、随分と年取って見えるわね」
なんでだろう、お爺さんとお婆さんが怖くなくなっている。きっと、昨日のあれのおかげなのかもしれない。昨日は、二人の姿を見るだけで怖かったのに。
そう思っていると、エリサさんが僕を離して姿勢を正す。クリスティアンさんも鍋に蓋をして、僕の近くに移動して座る。それを見て、僕も姿勢を正すんだ。きっと何か大事な話をするんだろうって思って、だから失礼が無いようにしなきゃって思ったから。そんな僕を見て、クリスティアンさんは軽く頷いて、エリサさんのほうを見る。二人は目で話したのか、クリスティアンさんは僕のほうを向いて咳払いをする。
「君は、死ぬのが怖いかい?人間が、怖いかい?」
クリスティアンさんが僕に聞く。その言葉に反応して、僕の頭の中にあの光景が見える。気持ちの悪い人、血の気の引いたロヴィ、逃げる僕たち、黒目黒髪の男、父上、母上……
体が震える。両手で自分の肩を抱いて、それでも震えが収まらない。怖い、怖い、人間は、怖い。父上も、母上も、無事だろうか。ロヴィ、クラウ、死んでしまった。僕は、僕は、死にたくない。人間が怖い、でも、死にたくない。あの、気持ちの悪い男を倒さなければならないから。そう思い出して、僕の体の震えが止まる。怖いけれど、でも、あの男だけは……
そんな僕を見てクリスティアンさんは頷く。そうして、口を開いたんだ。
「ヴァルテッリ、あまりのことに記憶を失っているらしいから、伝えておかなければならない。君の父親は、アスモ。アスモ・ラヴィネンという。」
僕の頭の中に、疑問符が沢山浮かぶ。僕は、ヴァルテッリって人じゃない。それはクリスティアンさんたちも知っているはずなのに、何をいっているのだろう?そう思って、質問をしようとした僕を見て、エリサさんが笑う。口元に手を当てて、黙っていて、そう合図をして。
「君の父親は、私の亡き弟の妻の従弟だ。少し前まで、東のほうで行商をしていた。母親はフローラと言う名前だったそうだが、君が生まれてしばらくして亡くなったそうだ。流行病、それから10になるまで、君は東で生まれ育っていた。」
まるで僕に解説をするような、言い聞かせる様な、そんな口調で伝えてくるクリスティアンさん。その眼は真剣で、冗談で言っているわけではないことがわかる。だから、僕もしっかり聞こうと思った。
「半年ほど前だろうか、東で大地震が起きた。君とアスモは、そこからこちらに逃げてきた。東はもう人が住めるような土地とは言い難いほどの損害を受けてしまったらしくな。ただ、残念なことに、君の父親はここに来るまでに随分衰弱してしまっていた。食料もなく、辛い行軍だったのだろうよ。私たちと会ったときには、もう手遅れだった。君は、ここまで来るのに衰弱してしまっていたのと、肉親が亡くなったショックで記憶をなくしてしまった。な、ヴァルテッリや、ヴァルテッリ・ラヴィネンや、君は、私たちが守る。私たちとて裕福ではないが、君を見捨てはしない。」
クリスティアンさんは、力強く言葉を紡ぐ。その言葉は、僕の胸の中にすっと入っていく。クリスティアンさんが何を言っているのか、何故言い聞かせる様な口調なのか、それもわかったから。だから、僕は口を開く。怖い、人間が怖いけれど、クリスティアンさんとエリサさんが悪い人ではないのは、僕は知っているから。
「僕は、ヴァルテッリ……」
「そう、君は、ヴァルテッリ・ラヴィネン。記憶が戻るかどうかは知らんが、君は、この村で暮らすといい」
僕は、アーデルベルト。父上と母上の子供、魔王の息子、人間の王家の子供……けれど、僕はヴァルテッリ、アスモ・ラヴィネンとフローラ・ラヴィネンの間に生まれた、ごく普通の人間の子供……クリスティアンさんは、僕にそう告げている。
僕は彼らを信頼できる気がする。エリサさんは僕を優しく抱きしめてくれた。怖くて怖くて、本当に怖かったときに、優しく抱きしめてくれた。母上と同じような、そんな気がしたんだ。クリスティアンさんは、僕を兵士から守ってくれた。力強さは感じないけれど、でも、父上に似た空気を感じる、そんな気がしたんだ。本当に信頼していいのか、それは僕にはわからない。けれど、でも、彼らは優しいから。父上と母上に似た雰囲気が、僕は好きになってきている。だから……
「クリスティアンさん、僕は、僕はア……」
僕が名前を言おうとしたら、クリスティアンさんが咳払いをする。首を少しふって、口を開く。
「クリスティアンさんなんてよしてくれ、クリス、でいい。エリサのこともエリサでいい。さんづけなんてしなくていい。君はヴァルテッリ、私とエリサと一緒に住む、ヴァルテッリなのだからね」
「そうよ、私たちに遠慮はしないで。私たち夫婦二人で住むには、この家は広すぎるもの」
「ありがとう、クリスさん、エリサさん」
クリスさんは、僕がそう呼ぶとにこやかに笑った。僕には、これが正解かわからないけれど、でもクリスさんたちに甘えよう、そう思った。僕はヴァルテッリ、アーデルベルトで、ヴァルテッリ。
「ここらには、君の部族の人間などいやしない。君によく似た子供が君の父親についてきていたが、彼も衰弱しきっていて、父親のあとを追うようにすぐに亡くなったよ。同じ場所に眠っている」
クリスさんは、僕に似た人を知っている。ヴァルテッリである僕にきっとそっくりなんだろう、そう思う。
「ヴァルテッリや、おまえの目は赤い。東ではきっとその目の人が多いんだろう。東は大地震で何もかもわからなくなっている、今となっては調べる手がないのが残念だ」
クリスさんが少し笑う。ほら、じゃあごはんを食べましょう、エリサさんが声をあげる。火のついた鍋をまたかき回し始めて、そこから汁を食器によそっていく。クリスさんにまず渡して、次に僕に渡してくれる。スプーンと、お椀。そこによそわれているのは、粥なのかな?
エリサさんが自分のぶんをよそったら、クリスさんが食べなと声をかけてくれる。少しばかり躊躇して、もらっていいのか迷ったけれど、エリサさんの笑みを見て気分が楽になる。スプーンを口に運んで、粥を啜る。甘い、凄く甘くて、暖かい。美味しいな、心からそう思う。そう思ったら、何故か涙が出てきてしまう。スプーンも涙も止められない、暖かい粥が口の中に広がるたびに、涙が出てくるんだ。
「ヴァルテッリ、今日この時から、君は私たちの家族同然だよ。一緒に過ごそう。安心して、ゆっくり食べなさい」
涙が止まらない。粥は凄く美味しい。エリサさんが何時の間にか僕の近くに移動してきていて、その暖かい手が僕の頭を撫でる。その度に僕は涙が一際強く溢れてくる。
粥がだんだん、塩気を帯びてくるような、そんな気がした。
食事を終えて、少しだけ体を動かす。座って、ゆっくり体を伸ばす。体中の骨が音を鳴らして、心地よい。クリスさんとエリサさんはそんな僕を優しい目つきで見つめているんだ。
「ヴァルテッリ、この村のことを知っておきなさい」
クリスさんが僕に言う。教えてあげるから、覚えなさい、そう告げるんだ。僕はそれに素直に従う。確かに、知っておいたほうがいいと思うから。僕は、何も知らない。人間の国のことさえも、僕はアーレンくらいしか知らないから。
その日は、クリスさんが僕に色々と物事を教えてくれた。そうしているうちに、お昼になっていたんだ。お昼を食べて、クリスさんは山にでかけるっていっていた。エリサさんは、家で縫い物をするんだって。
「ヴァルテッリ、村の人に会ってみるかい?」
クリスさんは家を出る前に、僕にそう聞いてきたんだ。きっと、クリスさんは僕が少しでも早くこの村になれるようにって思って行ってくれたんだと思う。けれど、僕はそれに頷くことはできなかったんだ。なぜなら、他の人、その言葉が凄く怖かったから。ほかの人、他の人間、それに会う。その言葉を聞いただけで、僕の体は震えて、顎ががちがち音を鳴らすんだ。今でも、他の人に会うって思っただけで寒気がして、身体が震える。怖いんだ。クリスさんたちは違うけれど、クリスさんたちが仲良くしてるからいい人なんだろうけれど、でも、怖いんだ。ロヴィを殺したあの男がいる様な気がして、涙が出てくる。そんな僕を見て、ここで休んでいなさい、すまなかったね、そういってクリスさんは山に行ったんだ。震える僕は、エリサさんに抱きしめられていたんだ。
そのうちに何時の間にか寝てしまっていたんだ。起きたら、布団の上。隣でエリサさんが縫い物をしていて、僕が起きたのに気がつくと声をかけてくれた。
「気にしないで、ゆっくり、ゆっくり慣れていきましょう?時間はいくらでもあるのよ」
そういってくれて、ほっとしたんだ。やっぱり、人間は怖いから。だから、今僕は毛布にくるまって横になっているんだ。エリサさんはずっと服を縫っている。僕の服なんだろう、少し古くてごめんなさいね、ほつれや穴は繕っておくから、そうエリサさんは言っていた。こんな僕のために、本当に嬉しい。休んでいなさい、まだ疲れているでしょう?そんなエリサさんの言葉に甘えて、僕はゆっくり休むことにしたんだ。
毛布にくるまって、朝の話を思い出す。クリスさんは、僕に人間のことを色々教えてくれた。村のことも、国のことも、歴史の事も、そして、魔族のことも。私はただの農民だから、そんなに詳しくはないけれどね、そんなことを言いながら。まず、国の話をしてくれたんだ。僕が今いるのは、ベルスム王国らしい。その南端にあるのが、この家があるフェッケンシュテットという村なんだって。家族が十組住んでいて、子供は七人いるんだって。アーレンのことはよく知らないらしい。そんな国があるのは知っているけど、行ったこともないって言っていた。遠いからね、そうクリスさんは言っていた。とりあえず、クリスさんがいったことある大都市は、ベルスム王国の王都ウェールデくらいだって。他の国にはいったことないらしいけれど、いくつかの名前は教えてくれた。
ここらへんで一番大きな国がベルスム王国で、周りにはいろんな国があるらしいんだ。その中でも、西の騎士国家ハレ、北のロシェ王国、東のエールスニクク公国って国が大きいそうなんだ。アーレンは、ハレの西側にあるらしい。フェッケンシュテットの南側には、大きな山脈があるんだって。名前はないけれど、誰も通り抜けることができないほど大きな山脈だって言ってた。
そこで、クリスさんは大きく息を吸い込んだ。
「そこには、“人ならず”が住んでいると言われている。長らくの戦乱は終わったけれども、人とは違うそれとは、決して関わってはならない。そういうお触れが去年この村にも来た」
その言葉を聴いて、僕は怖くなったんだ。僕は、その“人ならず”が何かを知っているから。僕は、その“人ならず”だから。息を吸い込んで、上手く吐きだせなくなった。そんな僕を安心させるようにクリスさんは言ったんだ。
「“人ならず”と関わりを持った場合、重い罰が待っている。そういうお触れだった。しかし、私たちは“人ならず”を見たことがなかったからね、関わりをもっているかどうか何て知る術はない」
それを聞いて、クリスさんは僕が“人ならず”だってことを知っている、そう思ったんだ。“人ならず”は人型をしているけれど、羽が生えていたり、尻尾がはえていたり、人間とは全く違う生き物だ、そうクリスさんは言っていたんだ。ベルスム王国の周りにたくさんの国があるのは、“人ならず”と人間の戦いが終わってから人間がこっちに移住してきたからだって、そう言っていた。クリスさんたちも、ここに来たのは10年前だって言っていたんだ。
「ここらに住む人で、“人ならず”を見たことがあるのは、先の大戦で兵士として生きていた奴らだけだろうよ」
クリスさんは、僕の目を見てそういったんだ。それは、僕を安心させるには十分だった。クリスさんたちは、僕が魔族、“人ならず”だってわかっていて、知らないふりをしている。関わったら罰せられるとわかっていても、僕を守ってくれている。だったら、僕は、クリスさんたちを信頼しよう、そう思うんだ。クリスさんたちは信じられる。優しい人たち、僕を守ってくれる人たち。父上、母上、今どこにいますか?ご無事ですか?いつか、会いにいきます。だから、どこかで生きていてください。