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フォーチュン・キャンディ ~サンセット・アット・ワイキキビーチ~

作者: 青海 緑風

この小説に登場する人物・企業等は架空のものです。

《決意の旅立ち》

永年の習慣でいつもアメリカ方面に旅立つ時は日本を日曜日の午後に発つことにしている。それだと日本で週末の用事をこなしてから出発することができるし、アメリカには時差を活かして日曜日の内に到着して現地で月曜日からの活動に備えた準備をする時間が作れるからである。それがビジネスで何度もアメリカ方面に出張した経験を持つ純一流の慣わしだ。今回もしっかりと金曜の夜まで会社で残業をこなし-もっとも緊急で終らせなければならないほど納期が迫った仕事があるわけではないが-、土曜日の午前中はいつものように大学で英語通訳講座を受講し、午後から近所の大学生や社会人相手に英語を教えて、ある程度は身体を楽させず疲れさせた状態で日曜日の午後から成田に向かった。


その体調から言っても行き慣れたハワイだし機中で寝付けない事はなかろうとタカをくくり、機内で熟睡するために使うアイマスク・耳栓・エアピロー・スリッパ等は全く用意せず普段どおりに気軽に機中の人となったのだが、成田を発つ時には思いがけない安眠妨害行為に対して準備不足の為に無防備なまま殆ど一晩中一睡もできずに過ごす事になり、ハワイ到着後にいつも以上の時差ボケに悩まされる事になろうとは想像だにしなかった。


思うに任せないことごとが心を占めた時にどういう身の処し方をするかで、その人間の器量とか人間的な幅が他の人間から垣間見られるように思えるが、近頃では自分たちが子供の時代に比べて、周囲にそういう余裕のある大人が自分を含めて減ってしまったと嘆かわしくなることが多々ある。今回の安眠妨害事件には自分の未熟さを悟った純一だったが、逆に、まだ大人と呼ぶには躊躇してしまうほどの若い成人層世代の行動に目を向けると、何かを心に留めて躊躇する事もなく自分たちの気持ちの赴くままに行動してしまい、周囲の雰囲気が壊されているのも全く目に入らぬが如き振る舞いを続けて、傍にいるこっちが呆気に取られることも昨今では珍しくなくなった気がする。そういう現場に立ち会って違和感を覚えること自体が純一にとっては年を取ったかなと思わされる瞬間でもある。


 彼らに対して実害がこちらに及ばない限りにおいては逆に周囲の目を気にせずに無神経な行動をとれる世代に対して羨ましく感じることもあるし、一方では周囲の目線を全く意識せずに振舞う人達がこのまま増えたとしたらどうなるのだろう、という取り越し苦労ともいえる不安感が日々いやが上にも増してくる。とは言え自分自身日常の言動を振り返ってみて自分では年を取ったとは思わない。むしろ内面的には純粋だった青春時代のままの青さが残っているし、同年代の周囲の連中を見ていると意識的に自分自身で老化を促進させているのではないか、とさえ思える場合も多く却って違和感を覚えたりもする。


純一にとっては仕事柄航空機を利用して海外を旅することも多く、サービスなんてハナから期待せずエコノミークラスの格安チケットを提供してくれるという魅力だけで毎回利用している、アメリカ資本のこの航空会社の飛行機では甚だしい遅延が起きた時などの木で鼻をくくったような態度の乗務員とモメた事はあっても、同乗の乗客の態度にハラワタが煮えくり返る思いを経験したことは今までなかった。ところが、流石に今回は乳幼児を連れている若い親達が離陸直後からリゾート地への旅行に浮かれたか、同年代の周囲の連中とアルコールで乾杯を繰り返した挙句に、その騒ぎにつられたか連れの子供の興奮が収まらず騒ぎ続け、到着まで一晩中一睡もせずに嬌声を上げ続けたのを目の当たりにしては「親としての自覚」なんて気の利いたことまで期待はしないものの、周囲への配慮の欠如に対して、旅の出だしから疲れ果てさせられる、とんだ体験をさせられたと痛感した。


 航空機から空港ビルまで移動する連結バスで近くになった問題の乳幼児の親に、

「お子さんは一晩中ハイテンションでしたね。」と嗜めたつもりが、

「えぇ、一晩中興奮して寝付かないなんてこんなことは初めてなんですよ。大人の方がへとへとですよ。」

と、まるで自分たちも一方的な被害者のような口ぶりの当事者意識はゼロで、全くキッカケ作りをしてしまったことに対する周囲への反省の一言もない。ともあれ団体旅行の彼らとは一先ず空港ビル内にある税関手前出口で別れて清々した純一はホノルルの青空のように晴れやかな気持ちで背伸びと深呼吸をした。まさかゴールデンウィーク明け一週間後の、おのぼり日本人観光客にとってシーズンオフのこの時期に、家族連れに旅の雰囲気を壊されようとは想像だにしなかった。以前に同期入社でシンガポールの支店長の友人から聞いた話では、日本で見かけるようなやりっ放しで躾けがなっていない子供や無責任若年親は現地では全く見かけないし、目上の人に対する尊厳を失ったような変な事件はないという事で、実際のところ欧米への出張の多い純一もこういう変な場面に遭遇した事はない。そういう点も純一が今回日本を離れてハワイに移住しようと考え始めたキッカケの一つだった。


純一にとってハワイ旅行の一番の楽しみはホノルル空港から一歩外に足を踏み出して深呼吸する瞬間である。どこからともなくハワイアンミュージックが聞こえてくるようで、日本で心身を磨り減らして仕事や家族の問題に苦しめられてきた自分を解放できる瞬間だ。考えようによっては日本を発つまで悩み続けた移住への不安が、機内の騒動で余計な事に思いをめぐらせる時間がなくなったことで何処かへ吹き飛んでしまって、ハワイ到着と同時に純粋にハワイでの生活を楽しもうと言う気持ちになったのだから怪我の功名とも言えた。空港の税関手続きから漸く煩い団体客から解放されて、いつものワイキキシャトルバスの日本のそれとは比較にならないほど柔らかすぎるシートに身を沈めると、純一は車窓を流れる見慣れた青すぎる海と突き抜けるような青空に包まれた風景に目をやりながら、ゆっくりと長年企み続けてきた残りの人生を賭けるハワイへの移住計画を胸の裡で反芻してみた。時期としてはピッタリで早すぎも遅すぎもしない好機に思えた。


ほどなく視界に見慣れたワイキキの街路樹の光景が飛び込んできて、バスはクヒオ通りに滑り込み純一がここ最近は定宿にしているコンドミニアムの前でゆったりと停止した。黒人女性ドライバーのキャサリンが太い腕でシャトルバスの客席下の物入れから旅行カバンを引っ張り出してくれ、

「サンキュー・マハロ!」

とお礼を言って純一はバスを見送った。スタジオタイプのコンドミニアムの受付では顔なじみになった日系人フロントのKeikoの手際よい手続きで、思わぬほど早い時間に到着したにもかかわらずスムーズにチェックインを済ませると、当面の活動拠点となる一室にキャスター付の旅行カバンを運び込んだ。


一人で泊まるには思ったよりも充分すぎる広さの部屋に一安心し、ドアの閉まる音を合図にするようにタバコを吸わない純一はコーヒーメーカーをセットすると、ソファーに寝不足の身体を投げ出し束の間がんじ搦めの日本での人間関係から脱出できた安堵感と、これから先の生活設計を考えた時の不安がない交ぜになって、フーっと一つ大きくため息をついた。純一には心ひそかに永年思い描いてきた将来計画があった。それは過去30年近くも従事しているコンピュータのシステムエンジニアリングという頭脳労働に、これから先も仕事として取り組むのなら、とりわけ技術用語は殆どが英語が主流なのだから、どこで仕事をしようと変らないし、コンピュータシステムに関する仕事の性質上、特に精神力を伴う生活を強いられるのだから、どうせなら自分にとって最も肌に合う仕事以外で最もストレスが少なく過ごせるハワイに移住して生活したいという夢だった。幸い仕事をするうえで困らない程度の英語力はある。それでもネイティブが早口で囁く悪口などは理解する英語力は無いが、却ってそれは日常生活でストレスを生まない効果があると思う。


エアコンの効いた部屋で横になると今頃になって寝不足が堪えてきた。純一にとって今回で15回目になるハワイ・オアフ島への来島が、初めて観光目的を伴わない将来の移住を見据えた旅になろうとは、彼自身が初めて当地を訪れた25年前には夢にも思わなかったことである。とにかく今回の来島目的は仕事を探して決めること、そして居住地を決めることが第一目的であり、観光や高価な買い物などの贅沢は許されないと気を引き締める。


 ポコポコと音を立ててコーヒーメーカーが心地よいコナの香りを部屋中に送り出し純一の眠気を覚ます。いつも遅れがちな米国資本の航空会社のフライトも、日本人旅行客の観光シーズンを過ぎて一段落したせいか今日は不気味なほど定刻通りにホノルルに到着した。

   

 日本に帰る便のリコンファーメーションで立ち寄った出発カウンターでの手続きに若干手間取ったものの、フラワーレイのサービスを受け記念写真の撮影に時間を費やす団体旅行客を横目にシャトルバスに乗り込むと、朝の10時過ぎにはワイキキの外れに位置する、このコンドミニアムに到着してしまったのだった。持ってくる着替えを間違えたか、まだ5月中旬の朝なのにやけに暑くて眩しい。意外なほどカンカン照りなのに驚かされた。


アーリーチェックインが出来ないこの宿泊先では、通常なら早く着きすぎるとフロントのロビーで荷物を抱えて何時間かは待つしかないかので覚悟していたが、幸運にも親切な日系人スタッフが

「まもなく部屋の掃除が終わります。」と、

30分も待たせずにチェックインを済ませてくれたのだ。飛行機の中では傍若無人な若者と連れの子供の騒動に悩まされた純一だったが宿泊先には恵まれたようで幸先良い。ハワイは好きだが未だに毎日沢山は飲めない苦いコナコーヒーを一口飲みながら純一は無理にでも今回のハワイ旅行を良い方向に考えようとした。だが今はまだ何が何でも滞在期間中にこれから先のここでの生活の方向性を全て決めてしまわなければならない、というほどの焦りも切迫感もない。


 ハワイでは毎度の事だが到着直後の時差ボケは厳しいものがある。取り敢えず初日はひとまず旅装を解いたら昼食まで眠らないためにも、行きつけの店に変わりないか確かめながら生活必需品を買い物しつつ近辺を散策することにしている。コーヒーをすすりながら当座の生活に必要なモノの買い物リストを書き出し、不動産や仕事関係の連絡先を確かめる。今日は日曜日だから明日からの行動開始に備えなければならない。足周りの確保も必要だ。日本から国際運転免許証は持参したかので次はレンタカーの手配だ。備え付けのでかいマグカップになみなみ注いだコーヒーを半分だけ飲むと、純一は東京から着てきたチノパンとポロシャツを脱いでシャワーを浴び、丹念に歯磨きと髭剃りをして短パンとアロハに着替えた。まだ少し眠い。このままソファーに横たわっていたら睡魔に襲われそうだ。グズグズしたくなる誘惑を断ち切るようにメモを胸ポケットにねじ込み立ち上がった。カードキーを札入れのスリットに仕舞うとエレベーターでロビー階に降りる。コンシェルジュ・デスクで、夏場のサンタクロースみたいな初老の男性から最寄のレンタカー会社のリーフレットを数冊受け取り、サングラスを掛けてクヒオ通りに歩を進めた。


 エアコンの効いた建物から一歩外に出ると一際暑さが身にこたえる。それにしても暑い。東京を出る時にはハワイでは初夏の陽気ではないかと予想していたがそれ以上だ。海外から日本に着た旅行客の多くは日本の暑さは湿気を伴う所謂「蒸し暑さ」で、普通の暑さとは異なる気温の点では高くないのに身体にこたえると口にするが、この時期のハワイの暑さも余り変わりないようにも感じる。とっくに30℃は超えているだろう。


日本から普通のメガネの上に着脱できるサングラスを購入して来ておいて大正解、やたら眩しい。眼が日焼けして目の奥から頭痛を起こしそうだ。クヒオ通りは遅く目覚めた日曜の朝をノロノロと歩き出してブランチに出掛ける地元の人たちや、ゴールデンウィークを過ぎたというのに我が物顔でノシ歩く日本人観光客、それに早い夏休みを謳歌する欧米人たちで少しずつ賑わい始めていた。日陰に入れば心地よい風が頬を撫でて日本の夏の蒸し暑さとの違いを感じさせるなどと言うけれど、そもそも日が高い時間帯にはビルの日陰すら見つけることが困難で容赦なく日本人の弱い皮膚を焦がす。いつも立ち寄るスーパーマーケットまでの約10分間、周囲の店やクイジーンの変化を楽しみながらブラつく。小さなワゴンで小物を売るアジア系移民の発散するパワーは相変わらず凄まじい。純一も近い将来にここで暮らすようになるならば彼らの強かさを見習わなければと思う。


 ミネラルウォーターとプラスティック製使い捨てコップ、カットフルーツと紅茶のティーバッグそれに洗濯石鹸と洗濯バサミ等をスーパーの籠に入れながら、乳製品のコーナーで立ち止まった純一は伸ばしかけた手を止め、頭の中で日本円に換算してみた。どう考えてもパックの牛乳やヨーグルトが高価だ。とりあえず乳製品に関しては明日から仕事探しを手伝ってくれる事になっている、日系人のヤギサワ氏に相談してから買う事にした。レジで支払いを済ませると、入ってきた方とは反対側の出口付近に新聞スタンドが新設されているのが目に入って気になり、そちらに向かった。日本語版で無料配布の新聞の中から見出しが日本のスポーツ新聞風のモノを一部手にして、入ってきた道から90度曲がった小道に出て見た。既に来島の度に何度も通ったマーケットなのに初めて出た道は全く異なる景観を醸し出していて純一の旅心を擽った。その時2軒奥の建物正面の歩道から気になる視線を感じた純一は、着脱式のサングラスを取り外して目を凝らして相手を確かめた。


《柔らかい風》

 純一には見覚えのない顔だったが何か親しげな雰囲気の視線をこちらに投げかけているのは、ベトナムのアオザイ風の衣装に身を包んだ東洋系の面立ちをしたスリムな女性だった。年の頃は30才前後だろうか。今までにこんな経験をした事が全く無かった訳ではない。それがいつの事だったか正確には思い出せないが、恐らくは生まれ故郷で生活していた高校時代までの頃か、更にその後に地方の大学に進学した後だったかもしれない。もしかしたら単なるデジャブーというヤツかもしれない。余り凝視しても失礼かと思い直し、最初にスーパーマーケットに入って来た通りの方に戻りつつ、小道とクヒオ通りが交わる角で振り返ってみたら、その女性が佇んでいた建物にはどこかで見た事のある看板が付いている。手許にあったコンシェルジュでミスター・サンタクロースから受け取ったリーフレットを捲ると、その一つに掲載されていたレンタカー会社のロゴだった。いずれは島内での移動の足周りを確保するために訪れる事になるかもしれないとは感じたが、その時は大して深く相手のことをそれ以上は考えてみもせず、早く部屋に戻って今手にしたばかりの現地の日本語版新聞を読んでみたいという気持ちの方が勝っているほどだった。スーパーで買い込んだ日用品を抱えて純一は一旦宿泊先に戻る事にした。ロビーで従業員たちがお揃いのお仕着せのアロハシャツを身に付けて、雑談している横を通り抜けてエレベーターで自分の部屋まで上がると既に12時を回っていた。時差の影響からか睡眠不足のせいなのか余り空腹感は無い。日本では月曜日の朝6時過ぎ、丁度今頃は殆どの人達が通勤や通学に備えてごそごそ起き出して支度を始めている時間だ。多分我が家ではまだ誰も起きていないだろう。妻の加奈子が自分の出勤時間に起き出さなくなって何年になるだろうか?そんな生活に慣らされていく自分が情けなくも感じ始めている純一だった。


 身体を時差に慣らすには一泳ぎしてある程度肉体的に疲労感を覚えて最初の夜に熟睡すると早く旅先の時間帯に体が馴染む、と以前ヨーロッパにプライベートで旅行した時に出会った元日本代表の水球選手に聞いた事がある。純一は水着を取り出して着替えるとコンドミニアムの屋上階にあるプールに向かう事にした。プールは小さいながらも一応泳ぐ冷水の槽と身体を暖める温水の層の2つが設けられている。相変わらず空は飽く迄青い。実は純一にとってはこの青空をボンヤリと見上げられるだけでも心が安らぐのである。白人の老夫婦、褐色の親子4人、それに日本人のヤンキー風カップルが、それぞれ水の中ではしゃいだり、ビーチチェアで身体を焼いたり思い思いに過ごしていた。純一はジャグジー風の温水プールに身体を浸して大きく伸びをすると、日本での事に思いを馳せた。


 特に気がかりな仕事や心配事を残してきたわけではない。今回のハワイ旅行前にはゴールデンウィークで殆どの社員が休んでいる閑散としたオフィスに出勤して一応の仕事は片付けてきた。純一の部署は「システム資料室」、今年53歳になる片山純一の肩書きは一応そこの室長である。だが取り立てて会社が必要としている重要部門でもない。


 純一は地方の国立大学を卒業後、今の外資系食品メーカに就職し最初の三年間を工場や倉庫の管理部門に勤務して、システム部門が大型汎用機での処理対象としない細々とした日常業務を現場の技術用ミニコンで処理するために、自ら英語のマニュアルと格闘しながらプログラミングしたり、当時としては画期的なほど他社に先駆けていち早く採用したパソコンに手作業で行っていた処理を移行したりした功績が評価されて、四年目に本社にあるシステム部門に異動となった。当時はシステム部門が手がけるコンピュータそのものが今のように安価なパソコンが主流ではなく、超高価な大型汎用機が中心で、そこでプログラムを設計・開発する社員も特殊技能を持った専門家と見なされて花形扱いされたものだ。 


 毎日が残業それも殆ど徹夜状態が数週間も続く中で、世の中右を見ても左を見ても石を投げればSEに当たると言われた時代もあったが、社内で使う基幹系システムを自社内で設計・開発すると言うブームもあっという間に過ぎ去り、10年もシステム開発部門を歩いた後にはダウンサイジングの波が押し寄せてきた。会社のトップはこの波に乗れない者は別の部門に移れとばかりに、大型汎用機のシステムなど忘れ去ったかのように幾つものネットワークや通信関係の技術などの新しいシステムに関する資格取得を求め始めた。


 しかし、その度にもがき苦しみながらも経営層の予想を良い意味で裏切り続け、難関をクリアしきた純一は文系学部の出身者でありながら、いつしかシステム技術課長の地位に就いていた。今にして思えばそれが自分の絶頂期だったかなとも思えるが、逆にトップの思惑を裏切って法学士の分際で理系的な要素が強く求められると想定されたハードルを越えてしまったことで、却って会社の中でヤッカイ者になってしまった気もする。


 大型汎用機からオープン系のシステムへの切り換えと言う、普通の人間なら頭が痛くなり逃げ出したくなるような一大プロジェクトを何とか純一たちの昼夜を分かたぬ情熱を傾けた働きで切り抜け、ダウンサイジング化が当たり前の時代になったら途端に会社側からは管理職として新しいシステム文化に馴染まない社員のクビきりを求められ、それに抵抗して一緒にシステムの切り換えに頑張ってくれた仲間を裏切れないと断ったら、日陰の資料室送りになったのである。しかも会社側曰くシステム刷新と言う大事業に尽力してくれた純一の会社に対する貢献に敬意を表して「システム資料室室長」というポジションを設けてやった、と逆に恩を着せる始末だった。それでも当時は幼い子供達を抱えて無謀に退職と言う道を選ぶ事も出来ず、資料室勤務を甘んじて受け入れることしか出来なかった。


 根がマジメと言うか子供の頃から何にでも余計な人間関係など計算せずに、直向に一生懸命取り組むことを当たり前とする性格だから、会社が要求する難問にはいつも真剣に挑戦してきた。だがもっと早く白旗を揚げて通常の文系学部出身者が進む製造管理部門や販売促進部門などに希望して異動していたら、まだまだこの年になっても陽の当たる仕事を続けられたかも知れない。しかしながらそういう経営者に対する背信行為とも取れる逃げ行為を許さないチャレンジングな純一の性格だから、彼としてはハナからそういう選択肢を選べなかった。と言うよりも正直なところ思いつきもしなかった。情けない事に、今回のハワイ旅行に際しては会社を辞めるつもりなどとはおくびにも出さずに2週間の休暇申請を提出したが、上司も部下も取り立てて何の反応も示さなかった。


 家族にしてもそうだ。息子の涼太は去年高校を卒業するとそれより上の学校に進学して学問を究めようなどという高邁な姿勢は全く示さず、子供の頃から学校の勉強も抛っぽり出してTVゲーム三昧だったこともあり、ただ単に自分が楽しみたいと言う安直な理由でゲームソフトを作るためのアニメとコンピュータの専門学校に入ったが、最近では学校の話などは殆ど家で聞かなくなりカラオケ屋でのアルバイト三昧のようで、学校にまじめに通っているのかいつ勉強しているのか判りはしない。そもそもコンピュータシステムを長年飯の種にしてきた純一の立場から言っても、ゲームソフトのストーリー草案作りからキャラクター作りを経て実際の設計・開発に至るプロセスなど、学校に通って勉強したからといって身に付くものでもなく、まずはセンスがモノをいうのであり逆にセンスさえあれば学校など行かなくても世に出るチャンスは幾らでもある代わりに、ネタが尽きてしまったらそれでお終い、後はそれ以外の道へは全く潰しの効かない世界なのだ。


 余程純一たちが歩んできたビジネス向けのシステム設計や開発の方が経験や勉強の積み重ねが活かせる固い仕事なのに、何を好んでそんなにリスクの高い世界に息子を導いたのか、息子の将来を考える時に純一は普段から子供達の教育に口煩い妻の加奈子の感覚には首をかしげる事が多々ある。時折、加奈子から涼太の就職については先輩としてアドバイスしてやってくれ、みたいなことを純一は持ち掛けられるが、大抵の場合

「そんな遊び半分の学校に通わせるのなら、アルバイト三昧の生活を改めて、せめて英語とかをマジメにやっておいた方が、よっぽど就職の役には立つと思うけどね。」と

皮肉っぽく言うのだが、どうも彼らには真意が伝っていないようで、今日に至るまで改心したようには見えない。


 幼い頃から学校の勉強が嫌いでTVゲームが好きだったから、それの作り手側を目指すというのは怠け者の子供に勉強をしなくて済む都合の良い口実を親が見つけてやって、親自身も子供に受験勉強をさせる面倒くささを避け、進路問題で頭を悩ませなずに済ませる体の良い逃げ道に過ぎないし、余りに安直な選択肢にしか思えなかった。第一子供がTVゲームが好きで夢中になっていて得意だからといって、その子がIT分野に秀でているのではないかと言う風に判断してしまう論理が無謀で純一には考えられない感覚だった。


 それは下の娘のひなのについても同様の事が言えて、小学生時代に本人が嫌がるのに無理矢理中学受験勉強のために塾通いをさせたせいで、本当にすっかり勉強嫌いになってしまい、どうにか中高一貫校に入学したものの今年中3になるというのに高校受験の必要が無いこともあって、きちんと勉強をする習慣が全く身についていない。また学校が自宅からバスで40分という遠距離なので同級生が近所に住んでいないせいもあって、最近では何をするにしても母親の加奈子とばかりツルんでばかりいるからか所謂耳年増になり、いつも若年寄のようなマセた口の聞きかたをして精気のない顔つきをしている。


 一応は英語教育に力を入れている女子校という触れ込みだが、海外の本社と英語を使った仕事を何年も続けている純一の目から見る限り、極めていい加減な会話調の英語ばかり取り入れているだけで、本来中学校で英語の初期教育としてキチンと抑えるべき、大切な文法は疎かにしているので実践に役立ちそうもなく思える。最近では妻の加奈子にも教育に関する事だけでなく子供達との接し方を見ていると底の浅さが見え隠れする。何でこんなに大人としての自分の考え方を確立できていない未熟な女と結婚してしまったのかと情けなくなる最近の純一だった。子供達二人を含めた家族は純一が普段何を考え何に悩んでいるかなど誰も気にも留めてはいない。今回の旅行計画を家族にほのめかした時の反応にしても皆一様に

「お父さん、またハワイ?」

といった程度でそれ以上のことは何もない。


 つまりは会社でも家でも余り存在意義がないのである。別に自分が50歳過ぎて新しい人生をこのハワイでリスタートさせても誰にも文句は言われまい。それに今回のように家族と一緒で無く単独でハワイを訪れる経験も既に数回重ねており、純一はその都度観光地を避けて極力生活者の視点でハワイ暮らしを観察すべく、コミュニティーセンターに足を運んでは就業状況や家賃を含めた生活費の問題、さらにはボランティア活動を含めた余暇の過ごし方についても話しを聞き、仲間探しもして現地に溶け込む努力をしてきた。


 そんな考え事をしている間についつい日光を浴び過ぎてしまったようだ。プールサイドのチェアーからバスタオルを取り、冷たいものでも飲もうと急いで部屋に戻ってみると、もう午後2時近くになっていた。大急ぎでシャワーを浴びてベージュの短パンとアロハシャツに着替えると近所のハンバーガーショップに遅い昼食を摂りに出掛けることにした。


 部屋を出てエレベーターでフロントを通ると丁度通常のチェックイン時間に入ってくる白人のグループがたむろしていて、通りは一層太陽が高く上って暑い昼下がりのまったりとした雰囲気が漂っていた。1ブロック先の行きつけのバーガー店が見える角を曲がった時に純一は、午前中にスーパーマーケットを出た時に感じたあの親しげな視線に気付いた。レンタカーの店の前で見かけた女性が食事をしていたのだ!普段日本にいる時ならばこういう状況で女性に話しかけることを躊躇してしまう純一だが、旅先の開放感からかハワイの持つ穏やかさからか或いは英語の持つ明るさ(日本語のように妙な嫌らしさを感じさせずに済むせいか)不思議と何の衒いも無く相席を申し出る事が出来た。


 お昼前にスーパーマーケットを出た所で二件先にあるレンタカー会社の店の前に居るのを見かけたことを純一が最初に伝えると、彼女も充分にその時から純一のことを意識していたようでイッキにお互いが近づいていく感じがした。純一にとって願わくは自分の思い込みが強すぎていないことだけだった。彼女の何が純一の心を惹き付けたのだろうか。けっして女性の視線や自分に対する感情に対して反応が鈍い方ではない純一だったが、後になって感じた事かスーパーマーケットの出口で最初に感じた事だかは確かではないが、彼女の浅黒くもハリのある頬と一重瞼ながら意思の強さを思わせる瞳と、アジア人特有のしかし昨今の日本人女性が失いかけている、たおやかな身のこなし方は純一の疲れきった心を安らがせ気持ちを惹き付けるには充分だった。それは純一にはとても魅力的なことだったが依然として気になるのは純一の何が彼女に興味を持たせたかだった。


 二人はお互いに名乗り合い、純一は今回の旅行は観光目的では無く仕事を探して移住するつもりでいる事などを話した。彼女の名前はクリスと言い、台湾出身でアメリカ国籍を持つハワイ在住者で普段はレンタカー会社で受付の仕事をしているとの事だった。彼女にとっては彼女が中学時代に初めて思いを寄せた言わば初恋の相手とも言える、当事の新任の体育教師に純一が似ているので気になって仕方なかったとのこと。

「なーんだ、昔の先生か。それじゃ今はかなり年配だよね。」

「そんな事はないわ、大学を出たばっかりだったのよ。」と

テンポの良い会話の展開でお互いに興味を引き付けつつ、ハワイの求人状況や住宅事情など軽い会話をして、純一の方から宿泊先だけ知らせて、その時は別れた。


《自分探しの日》

 クリスと別れた後純一は、ハンバーガーショップを出てすぐのカラカウア通り沿いに置かれたブックスタンドから地元のフリーペーパーを数種類手にして一旦部屋に引き上げた。フロントを通り過ぎる時にKeikoに声をかけるとヤギサワ氏からのメッセージが残されていた。明日は事前に受け取ったレジュメを元に知り合いの会社数社に声をかけたら、好感触のところが何社かあったので、純一に紹介するために同行して仕事探しの手伝いをしたいので予定通り9時半にこちらに迎えに来る、との由。日本を出発する前に予め送った今回の旅行の趣旨を知らせるメールと純一のレジュメと就職の条件や内容は伝わっていて、一応彼なりに忙しい時間をやり繰りして準備は進めてくれているようでほっとした。


 マグカップを手に取り昼前から飲みかけのコーヒーをすすりながら、午前中スーパーのスタンドから取ってきた日本語版新聞を開き、求人情報や不動産の広告に眼を通してみた。総じて給与水準は高くなさそうだ。今は円高ドル安の時期だから円換算すると相当に割安感が否めず、物価高のハワイで生活していくのに大丈夫だろうか不安にもなる。


 英語と日本語が出来るバイリンガルでプラスαでどういう業務知識や経験があり、技術的にどこまでの範囲をカバーできるか、どういうサービスを提供できるかが、ポイントになりそうだ。給与が少ない分を幾つかの仕事を掛け持ちで生活費をカバーするのなら、主となる仕事の勤務時間が問題となりそうだ。不動産は観光客向けの広告なのか目の玉が飛び出そうに、バカ高の高級物件ばかりで真剣に移住して生活する事を検討している外国人には参考にならない。東京の住宅の価格が高いなどという比ではないと痛感する。


 部屋を片づけたりTVのニュース番組に耳を傾けたり、フリーの情報誌でレストランやショッピングの紹介記事を読んだりしながら、明日からの仕事探しに思いを馳せ作戦を練っている内に、ラナイからわずかに見えるワイキキの水平線が急に真っ赤な夕焼けに染まってきた。こうして今回のハワイ滞在初日は暮れて行こうとしていた。


 慌ててややカジュアルなジャケットを羽織って純一は夕食に繰り出すことにした。正装ではないが一応キチンとした服装に着替えると、身長が180cmを越し元来が色黒でガッチリとした体型の純一は、ハワイ在住のアジア系住民から見れば同胞の匂いが漂っても不思議ではない。またジャケットを着て食事に行くのは来島する度にお世話になっている、これから行くレストランの店主にも、一応就職や移住の問題について相談を持ち掛けたい、と言う気持ちがあったからだ。クヒオ通りを西方面に3ブロック歩いた通りの向かい側にある行きつけのシーフードクイジーンの中国人店主のペイ氏は、飛びっきりの笑顔でまだ時差ぼけが抜けきれていない寝ぼけ眼の純一を迎えてくれた。小さなワゴンで土産物を売っているアジア系の移民と同様にエネルギッシュに自ら調理場で腕を奮いつつ、若いウェイターや下働きに次から次に指示を出し続ける。その合間にも純一への対応は怠らない。 


 「今回は一人旅かい?家族は元気か?」

「仕事探しにね、日本の国内の景気はどうなの?」

「もしかしてジュン、リストラか?」と

畳み掛けてくる。

「ペイさん、相変わらずきついね。でもリストラに近いかな。自主的リストラとでも言ってよ!」

そんな軽口を交わしながら、純一の好みを知っているペイ氏はメニューにも載っていない賄い飯を含めて、もういいよとお腹を摩り始めるまで、どんどん作っては純一の目の前に並べ続けてくれる。


 ペイさんは純一のハワイ移住に関する就職や住宅と言った肝心の話題には曖昧な笑顔しか返してこないが、気持ちの篭った美味しいお持て成しで堪えてくれたので少し元気が出てきた。一つにはペイさんには純一の仕事の内容や適した会社に関する知識が無いのと、ペイさん自身の住まいがお店の方の家賃が高くて相当に貧しい地区にある事が関係して、純一が欲しがっている問題についての適切な答を持ち合わせていないからかも知れない。


 元気が出てきた純一はペイさんにチェックを求めたが、過去14回のハワイオアフ島来島の2回目か3回目から毎回1~2回は食事に訪れて、家族全員が気に入って通いつめている純一にペイ氏は申し訳ない程僅かな金額しか求めて来なかった。仕方無しに純一は少し多めのチップを押しつけて、こちらでの仕事や住宅について何か良い情報があったら連絡をくれ、とほろ酔い機嫌で念を押してコンドミニアムの電話番号を教えて店を出た。


 途中のペストリーで明朝の朝食用にフルーツが入ったマフィンを2個買ってコンドミニアムに戻ると、フロントにヤギサワ氏から再び明日の予定を確認したいとメッセージが残っていた。部屋に戻ると慌てて氏の自宅兼事務所にコールバックしてみたら今度は本人が不在で、代りにシンガポール訛の強い英語を喋る夫人が出たので、明日の予定はヤギサワ氏が留守電に残してくれた内容でOKなので、明日は一日就職探しに宜しくお付合いお願いしますとの伝言を頼んだ。ヤギサワ氏も自営の運送業以外に幾つかのパートタイムジョブをこなしているようだ。ハワイでの生活も楽ではない様子が伝わってきた。


 初日の時差調整のために、前の晩一睡も出来ずに飛行機で日本から飛んできたのに、無理して一日中起きていたせいか、純一はベッドに横たわると考え事をする間もなく熟睡してしまった。モーニングコールをセットしていなければ昼過ぎまで寝ていたかも知れない。 


 前日の夕食から戻る途中に近所のストアーで買ったマフィンとヨーグルトとカットフルーツに紅茶で朝食を済ませて洗顔をしていると、突然部屋の電話が鳴った。慌てて受話器を耳に押し当てるとフロントからでヤギサワ氏が到着との事。目覚まし時計を見たらまだ9時15分、凄い気合の入り方だ。それとも氏も多忙な中で時間を割いて駆けつけてくれているので、少しでも早くこっちの用件を片付けて本来の仕事に戻りたいのかもしれない。


 一応就職活動なので白系統のワイシャツにネクタイを締めて、今日は少しフォーマルな濃い目の色のジャケットを手にロビー階に降りて来た純一を、小柄で浅黒いヤギサワ氏は淡いパステルカラーの幅広ストライプのシャツに薄グレー系のジャケットをセンス良くコーディネイトして、いつもの様にエネルギッシュな笑顔を湛えて近づき出迎えた。


 「ジュン、1年ぶりかな。元気だったか?」

「まぁ何とか生き延びてるよ。」

「仕事探しって本気なのかい?」

「いい仕事さえ見つかれば、ずっと前から話しているとおり、いつだってこっちに移ってくるつもりだったけど、今度は本気で移住を考えているよ。」


 再会の挨拶から切り出したヤギサワ氏は純一のホンキ度を探るような目付きで少しの沈黙の後、玄関前に止めてあるSUVに純一を招じ入れた。二人して高い座席によじ登るとヤギサワ氏は求人情報の資料を挟んだクリアファイルを純一に手渡しながら話し始めた。


 「こっちだって就職は難しいよ。こっちの人間だって生活が大変で幾つも仕事を・・・。」

「掛け持ちしてるって言いたいんだろう。」

「そうそう少し日本語を忘れてしまったな。」

ヤギサワ氏は所謂二世であり子供の頃から英語で生活しているのだから無理も無い。


 二人して狭い車内のシートに並んで腰を下ろすとルックス的には殆ど日本人にしか見えないヤギサワ氏だが、半分ハワイ人の血が入っているのと配送の仕事で普段から身体を使っているだけに、ジャケットに包まれた肩幅の広さは日本人ばなれしていて、真横に腰を下ろした純一はその肩を押し返されるような一種の圧迫感を感じるのだった。


 ヤギサワ氏と純一の出会いは実に偶然なもので、純一が休暇を取って家族と何回目かのハワイに旅行で来た時に、長男の涼太が宿泊したホテルの部屋のエアコンが効きすぎていたために寝冷えで風邪をひいてしまい、日本語が通じるクリニックに行った時に偶々薬剤を配達するためにヤギサワ氏がそのクリニックに立ち寄っていて、涼太と同じように病気で来院した日本人と勘違いした純一が日本語で話しかけたことがキッカケだった。


 後からお祖母さんに教わったと聞かされた日本語を結構流暢に操るヤギサワ氏のことを暫く日本人と思い込み話し続けた純一は、すっかり意気投合してしまい、それ以来ハワイを訪れるたびに連絡を取り、ハワイでの仕事や住宅や余暇の過ごし方など、何でも話し合う間柄になったのだった。普段からメールの交換を重ねる内にヤギサワ氏が意外とITの分野にも明るい事を知った事も今回大いに役立った。本当に得がたい人材だ。


 「日本の会社はもう辞めたのか?」

「いやぎりぎりまで辞めないつもり。」

「そりゃ正解だよ。こっちで仕事が見つかるって保証は無いからね。」

「それにお子さん達だって、まだ学校だろう。」

「あぁでもそれを気にしてこっちが人生の選択肢としてハワイ移住と言う方向性を潰す事は考えられないね。」

「それに二人ともダメだね。全然勉強に打ち込むタイプじゃないからね。」

「親がしっかり勉強させないからダメなんじゃないのかい?」

「それはないね。本人達にヤル気がなけりゃ、幾ら親がケツひっぱたいてもダメだよ。」

「そんなものかねぇ。ところで会社の方は肩叩きされてるの?」

「露骨には言われないけど、今居るセクションとポジションは無くなったとしても会社には全く影響がないからね。」


 もう何年も家族ぐるみで付き合いがあり互いの生活観などを遠慮なく言い合える仲だけに、ヤギサワ氏も純一や家族についてポンポンと忌憚のない意見をぶつけてくるが、それに対して全くお互いに悪い感情を持たずに接していく事が出来る貴重な存在だ。暫くは英文で書かれた幾つかの企業からの求人票を睨みつけている純一を眺めていたヤギサワ氏が背中を押すようにキッカケを作った。

「OK、ところで資料の中に気に入った仕事は有ったかい?」

「まぁ今手渡されたばかりで判断も付かないだろうから、ジュンがこっちで仕事をするのに必要な手続きまで協力してくれて社会保険もサポートしてくれる、今回のジュンのようなケースに適した会社を優先して一応勝手にスケジュールを作らせてもらったよ。」 


 「日系の食品会社の工場と、監査法人系のコンサルファームと、顧客向けのシステムサポートをするSI企業に面接の段取りを付けておいたから行ってみようよ。」

「でも、あんまり過剰な期待はしないでよ。どれもジュンのキャリアにぴったりとマッチしているとは限らないから。」

「それはジョージがコンピュータ関係の仕事の経験がないからじゃないの?」

「でもIT関係の知識も豊富なジョージのメガネに適っているんだから余り心配していないよ。それに僕が直接先方の担当者に会って話をすれば道は開けるって。」


 ヤギサワ氏がさりげなくウィンクして、純一が今日の面接に対して前向きという事を確認すると、手際良く携帯で3社に今日の面接に関するアポイントを再確認する連絡を済ませて携帯を折りたたみ、

「よし、僕が動けるのは今日一日だから手順良く回るよ!」と

言い終わるより早く、純一と同年代に似合わぬ思い切りの良いアクセリングで、ワンボックスカーを勢い良くクヒオ通りに飛び出させて行った。今日も日差しが強い。暑くなりそう!


 午前中の頭が冴えている時間に一番厄介そうな所を攻めよう、と言うことでヤギサワ氏はSUVをダウンタウンの一角にある近代的なオフィスビルの地下駐車場に滑り込ませ、二人は地元では割とメジャーなコンサルティングファームの扉をノックした。ここでは人事担当者に純一を紹介してくれたヤギサワ氏を受付の簡易応接ソファーに残して、純一は応接室に移されて、一人一人のコンサルタントが社員であり個人経営者みたいな存在と言うことで、会計監査・品質監査・システム監査の各リーダー格から交代で面接を受けた。


 これをパスしたらリジョナル・マネージャーとの面談と言うステップに進むということで、純一の方からこれまで職務経歴と技術や業務知識と今後のキャリアプランや自己PRを含めたプレゼンを行い、各面接官から同社における各業務に関する説明を受け純一が適した担当職務を検討する材料とするケーステストを口頭で行い、同社でのITコンサルティングやキャリア面についてお互いに質疑応答を行った。先方からの質問は主に純一がこれまでは企業内の情報システム管理や企画を中心に築いてきたキャリアから、今後は言葉も異なる国で不特定多数の顧客向けにITに関するコンサルティングをしていく事になるが、主体的に動くことが可能か資質とヤル気を探るような内容が中心だった。


 もちろん堅い仕事だから仕方ない面もあるが、最初の挨拶以外愛想笑いもしない連中との面談で純一も付き添ったヤギサワ氏も肩が凝りまくり喉がカラカラになった。さらに面接の後にはコンピュータ・システムや通信ネットワーク等に関する基本的な知識をチェックするペーパー・テストまであり、たっぷり2時間脳味噌にも身体にも汗をかきまくった。


 結果は一週間以内にメールで連絡するとの言葉を受けてコンサルティングファームの事務所を後にした二人は、ヤギサワ氏の行き付けのベトナム風料理店で昼食を摂る事にして再び車中の人となった。チャイナタウンにSUVを乗り入れたヤギサワ氏はようやく自分の庭に入り込んだような安堵の表情を浮かべた。アジアンテーストの店構えからは香ばしいごま油の香りが漂ってきていた。彼がお勧めのビーフン風の麺料理とジュースのセットをオーダーし、先に出されたジュースを一口飲んで一息つくと、流れ出る汗を拭いながら顔を見合わせて

「思ったより就職は大変だなぁ。」と、

思わず大きなタメ息をついた。


《曇りのち晴れ》

 焼きビーフン風のランチを平らげて、氷の入ったプラスチック製コップに注がれたウーロン茶をイッキに飲み干すと、午後の段取りをお互いに確認し合って食堂のクーラーに後ろ髪を引かれる思いをしながらも気力を振り絞ってヤギサワ氏のSUVに戻った二人は、日系の食料品メーカーの工場からSI系システムサポート会社の順で回ることにした。


 午後一番で訪問した食料品メーカーでは日本人工場長で60歳前後の人当たりの良さそうな上村氏と、システム担当者でメキシコ系アメリカ人の相手を探るような目つきをしたロペスという若い男性が面接担当で、着席するや挨拶もそこそこに工場での製造商品やターゲットとなる顧客層、情報システム部門が担当する具体的な業務の話から始まった。今回は紹介者であるヤギサワ氏も同席して純一が判りにくい英語は通訳して手助けしてくれた。純一が食品メーカーに30年近く勤務している事を事前にヤギサワ氏が紹介してくれていたので、トッツキは悪くなかったが就職となると別問題という印象だった。


 この工場ではスーパーマーケットやコンビニエンスストア向けに製造している「おにぎり弁当」が、数年前から現地の「スパム・ムスビ」に押されて出荷が低迷している模様。スパム・ムスビについてはご飯を押し寿司のような箱型に固めて、その上に油ギトギトのスパムソーセージを炒めたモノを載せて細い海苔をグルっと巻いたもので、外観は握り寿司風にも見えるが、ソーセージの表面のテカリは普通の日本人にはとても手が出そうにない食べ物なのにハワイの人には日本風の軽食として受けているようで、「困ったものだ」と言う上村氏の表情に純一も思わず共感して頷いたりしたが、結局は余り業績も好調とは言えず積極的にシステムの経験者を採用する時期にない、という布石だったのかもしれない。


 具体的な仕事の内容としては日本のシステム本部との日常のシステム運用に関する連絡や、システムのバージョンアップや入れ替え等に関するスケジュール調整や、電話での打ち合わせと工場でのPCやネットワーク等を管理する事が中心で、その点では純一の能力は申し分ないし是非助けが欲しい位だが、人が極端に不足している訳では無いので、せいぜい一日6時間で週に2~3日も働いてくれれば充分という程度との説明を受けた。


 相手としてはフルタイムで働いても給料を出せるほど賃金が安くて済む若手ならば就労ビザ取得にも協力もするが、純一のような年齢で或る程度以上の給与を払わなければならないシニアには、どこか他所の時間的に沢山就労できる会社で必要となる書類を取得してパートタイムで就労して欲しい、という基本的な方針を聞かされた。このアポ取り当初からの態度の急変には流石のヤギサワ氏もカチンと来た様子で、「話が違うじゃないか」とばかりに上村氏に慌てて目配せを繰り返すのだが、どうやらレジュメの年齢等を丁寧に読まずに面接承諾の返事をしたようで、全く相手にしてくれない模様だった。


 工場を出てSUVを停めた駐車場に戻る道すがら

「就業の条件が事前に調査した内容と違っていて申し訳なかった。」と、

しきりに詫びるヤギサワ氏に、純一は

「実際に工場を訪問してみたら有名企業の名前を掲げる現地法人に相応しいほどは大きくもないし、業績不振のせいか衛生管理も行き届いていない様子で、食品衛生上の問題もおきかねないし、それほど魅力は感じなかったから気にしなくてもいいよ。」と

逆に慰めの言葉を送り続けた。


 次のSI系システムサポート会社では足が少し不自由な中年男性の白人オーナーとの面談だった。一応今回も純一の英語を心配してヤギサワ氏が同席してくれたが、マークというオーナー社長の英語は丁寧で全然難解な点がなく純一もスムーズに受け答えができた。マークは米国西海岸から移住して15年余り、小さなインターネットカフェを営みながらハワイでの人脈を広げて行き地元の企業主に人脈を広げて緊密な関係を築き、それらの企業向けにPCの多言語設定からちょっとしたホームページ作成に至るまで、当初は細かな事まで何でも一通りは自分でこなして来て、今では数十人の企業に成長したようだ。


 純一のレジュメを一目見て多分自分より年長でコンピュータの経験も長い日本人に何をさせようかと、しばし思案している様子だった。暫くしてマークは

「ジュン、リリース前のシステムの試験や検査とかのQAは出来るか?」

「もちろん。」

「だったらオレの友達を紹介するよ。夜間のシステム監視とかもやってるし、多分ここよりジュンに適した仕事が多いと思うから。その会社の人事担当者への連絡先を確認して後でジュンが今宿泊しているホテルにFAXするよ。」

との事で、マークに純一が宿泊してるコンドミニアムのFAX番号を教えて、握手で笑顔で見送るマークと別れ二人は事務所を後にした。


 ヤギサワ氏にコンドミニアムまで送ってもらう車中で、純一が今日訪問できなかった求人票の企業への今後のアプローチ法などを確認している内に、SUVは今朝と同じ純一の宿泊先の車止めに滑り込んでいった。今日のお礼に日本を発つ前に東京の土産物店で買ってきた手毬と扇子のセットをヤギサワ氏に手渡し、クリアファイルを手に車を降りようとした時に純一は昨日のスーパーマーケットでの買い物を思い出してヤギサワ氏に乳製品の安い店を尋ねた。ヤギサワ氏は純一からクリアファイルを取り戻して手馴れた様子で求人票の裏側の白い面に手持ちのボールペンで略図を書き始めた。「そもそもこの近所のスーパーマーケットは、どこも観光客目当てに高めの値段設定をしているんだよ。」「ちょっと遠いけど住宅街にあるマーケットを教えるから、早くレンタカーでも借りて行ってみたら。」純一はマーケットの件でもヤギサワ氏にお礼を言いながら、何となく折角教えてもらったけどクリスと一緒に別のマーケットに行くことになるような気がしていた。


 ヤギサワ氏のSUVを見送りロビーに入ろうとした純一は女性の声に呼び止められた。クリスがすぐ隣のオープンカフェでお茶をしていた。ネクタイをしてジャケットを腕に抱えている純一を見て

「今日は仕事探しだったの?」

「うん友達の紹介で朝から3社も回ったよ。」

「で、どんな感じだった?」

「3つ違う業種の会社を訪問して大体共通した状況は掴めたけどね。一日に三社も面接をこなすのは疲れるよ。」

「どこかいい所は見つかった?」

「相手の返事次第だけどね。でも他に幾つか情報を貰ったし、紹介してくれる話も有るから明日からアポを取ったりすることになりそうだよ。」と

純一はクリアファイルを示した。


 それにしてもまだ明るい時間からカフェにクリスが来ているのに純一は驚いて

「今日は仕事は休みなの?明日あたりにでも車を借りに事務所に行こうと思っていたんだけど?」

「もう4時半過ぎだよ。今日は早番だったからジュンがどうしているか、と思って見に来ちゃった。」と、可愛い舌をちょっと出して軽い微笑を見せた。クリスの何とも愛嬌のある笑顔で純一も少し疲れが吹き飛ぶ気がした。今日のクリスは左胸の部分にワンポイントとしてハイビスカスの絵をあしらった可愛いムームーで、昨日よりもふんわりしたフェミニンな印象でこれもまたいい感じだ。クリスが純一を気になって見に来たという一言でお互いにイッキに打ち解けて、二人は今の生活ぶりやこれまでの身の上話まで語り合い始めた。


 クリスは台湾人の母親と中国系アメリカ人の父の間にハワイで生まれ育ったが、父親は軍関係の仕事をしていて事故で亡くなったため、寡婦となった母親はやがて祖国の台湾に戻ったが、彼女の方は当時既にハワイ駐留のアメリカ人の白人海軍兵士と交際していて、後に彼との間に男児をもうけ結婚することになったが、数年後に夫が兵役期間を満了すると彼の米本土帰還を契機に一緒に戻ろうとしたが、本土に以前から決められていた許婚が待って居ることが判明し、クリスの方が逆に離婚を迫られることになり、今住んでいるコンドミニアムを慰謝料代わりに受け取り泣く泣く離婚に応じて、今は子供を台湾の母親の元に預けてこちらで働きながら台湾の母親に男児の養育費を仕送りをしているとの事。


 こんな生活は今6歳の子供が大きくならないうちに止めなければならないとは思うが、保守的で噂話ばかりが渦巻く台湾に、米兵との混血児を出産した挙句に棄てられシングルマザーとして小さな子供を育てるために外で働くクリスのような中年女性が戻る事は、ゴシップに飢えた現地の人達に格好の話題を提供して、世間の晒し者にされた上に、ノイローゼになって死ぬために戻るようなもので考えられないことだし、台湾で差し当たっての生活費を稼ぐにしても最早中国語を殆ど話せないクリスにできるは仕事の当ては全くなく、小さな子供を抱えていては良い仕事にも就けないので、今はハワイで遠く台湾のおばあちゃんと生活する子供の事を気にしながらも仕事を続けているとの事だった。


 純一の方は4歳下の妻と結婚して今年25年目で20歳で専門学校生の息子と、15歳になる中学生の娘と東京郊外のマンションに住んで外資系食品メーカーの電算部門に勤務していて、住宅ローンが後5年位で完済するが60歳の定年前のここ1~2年で退職すると早期退職優遇制度で退職金に割増金を加算して受け取れ、一気に返済が可能な事から、人間関係が複雑でそれでいて不可解な事件が続発して、かつての安全神話が崩壊した日本を離れてこちらに仕事を探して移って来ようか、と考えている事などを語った。


 「問題は、まだ中学生の娘の事と彼女と最近異常に仲の良い妻が反対しそうな事だね。」

「まだ話していないの。」

「うん、こっちの仕事が決まって日本の会社を辞める事になってからでも遅くないかな、と思ってね。」「それに全く父親の考え方になんて無関心な家族だから自分が方向性を決めてから伝えたって構わないと思ってね。」

「最悪の場合はクリスのケースと似ているかもしれないけど、日本でローンを組んで購入したマンションは向こうにくれてやってハワイに移住してもいいかな、なんて考えているんだよ。」

「でもハワイの就職状況も厳しくて、そんなに高いサラリーは期待しない方がいんじゃない?」

「全く、そこが一番気になるところだね。だから幾つかの仕事を掛け持ちするしかないのかな。」


 その後二人は黙り込んでお互いの共通点と相違点を見極めるように暫く互いの目を見つめ合った。その時純一はふと何の脈絡もなく15年前に他界した郷里の父親の事を思い出した。戦前の教育を受け第二次世界大戦に参戦した最終学歴高卒の父だったが、学生時代から英語の勉強には熱心で殆どネイティブのように自由自在に英語を使いこなし、それでいて町内会活動などに熱心で非行防止のためか子供達に積極的に声をかけたり、地元でのスポーツイベントの幹事役を買って出たりもしていた。そんな光景も今の日本ではスッカリ影を潜め、近所付き合いなど極力しない方が忙しい仕事に毎日追われている様で格好良い様にも思われている節すら見受けられる。それに反して日本人から羨望の眼差しで見られる事もあるアメリカでは、今でも平日に就業後の時間を地元でのボランティア活動に使うビジネスマンも多く、そうした点にも純一は日本よりも寧ろアメリカでの生活に人間性が感じられ、移住への気持ちを一層駆り立てられるのだった。


 純一が心の底から自分も早くこの地に馴染んでいきたいと考えていたら、

「今夜はどこかでお食事をする予定でもあるの?」と、

出し抜けにクリスが純一の反応を楽しむかのように尋ねた。

「行きつけのお店が幾つか有るけど、どうしても今夜行かなければならないわけじゃないから特に予定はないけど、どうして?」

「良かったらウチで一緒に食事しない?」

「取って置きの手料理を振舞ってあげるから!」

「それは楽しみだね、それじゃご馳走になろうかな?」

クリスがテーブルの片隅に載せていた車のキーを手に取り席を立つと純一もそれに従って店を出て、クリスの勤めるレンタカー店横の駐車場までの1ブロックを、少し弱くなった夕方の日差しを避けながら、二人は付かず離れず時に並び歩を進めた。


 クリスの車は淡いクリーム色の日本製小型のバンタイプで、リアウインドウには元の持ち主が貼ったというサーフィンをする少年が描かれたステッカーが剥げ掛かっていた。ドアを開くといかにも女性ドライバーの車らしく中は小奇麗に飾られていた。純一は助手席のシートに腰掛けるや額をダッシュボードに付きそうになるほど座席が前に寄せられているのに驚き慌てて一番後ろまで一旦下げた。どうやらクリスは最近では助手席に大柄な男性を乗せていないようだ。ヤギサワ氏のどでかいSUVとは大きな違いだ。


 クリスは運転席に身を沈めイグニションにキーを挿しながらサングラスを掛けて、助手席に座った純一に笑顔を振り向けて、やにわに

「純一はブディストだよね?」と

尋ねた。

「なんで?」

「これからメインディッシュに使うお肉をマーケットに買いに行くけど、食べ物に宗教的な制約がないかと思って。」

「なーんだそういうことか、それなら問題はないよ。」

「ところでクリスはクリスチャンなの?」

「そうだけど、どうして?」

「ディナーの時の飲み物を買おうと思うけどアルコールは宗教的に問題ないよね?」

「なんだ、そんなことね。何でもOKだよ!」

咄嗟に思いついた純一の切り換えしだったが、同じような事を考えていたのに少し驚きながら、二人は見つめあいしばし身体をよじって笑った。


 慣れた手つきでフロントコンソールパネルのスイッチをクリスが押すと、明るく穏やかなハワイアンミュージックのサウンドが流れてきて窓外を流れる風景とマッチして、二人にエアコンの風とは異なる柔らかな風を送り込んでくるようだった。クリスは夕方の渋滞が始まったクヒオ通りをノロノロと西に15分ほど走らせて、右折し北へ10分ほど走ったところにあるスーパーマーケットの駐車場に小型のバンを停めた。


 そこはアメリカにあるスーパーマーケットとしては比較的こじんまりとした方だが、地域に密着した品揃えをしているようで、凡そ日常必要になるものは備わっている感じだった。これまで純一が買い物をしていた観光客の多い地域にある店と最も異なる点は、大学に近くて学生が多いせいか客の服装がリゾート風ではなく普通の生活観溢れる普段着と言う点だ。また食材にしても家庭料理用のものが並んでいるし、ちょっとした電化製品や掃除用具から日曜大工品、それに軽食ができる洒落たレストランまであり、近くのアパート群に居住する近隣住民が殆どここだけで生活必需品を揃えられることを意識している。勿論牛乳やヨーグルト等の乳製品も各段にクヒオ通りの店よりも安くお手ごろ値段だ


《曲がり角の先には》

 クリスはターキーの肉の一塊と付け合せの野菜を数品とハーブを数種類備え付けのカゴに入れ、純一はスパークリングワインを1本と缶ビールを2本と500mlの牛乳、プレーンヨーグルトのパック入りとマフィン二つを手にしてレジへと続いた。レジでは酒類購買の際に恒例の身分証を確認されることもなく支払いを済ませ、駐車場に戻ろうとスーパーマーケットを一歩出たら急に細かい雨が降り出した。二人して買い物をした荷物を抱え車まで駆け寄って乗り込んだが、その頃には濡れた衣服も殆ど乾く程度の霧雨だった。


 スーパーマーケットを出た車は僅か1ブロックほど北上したアパート群に吸い込まれ、その一つのパーキングに滑り込んだ。車を降りた二人はスーパーマーケットでの買い物の紙袋を抱えクリスの部屋に運び込んだ。ワイパーを使う間もないうちに雨はやんでしまったようだが、昼間の暑さを蓄積したアスファルトを少しだけ冷ましてくれたようだ。


 クリスの部屋のあるコンドは外装から見る限りはかなり年季が入っている感じで、現在改修が続けられているワイキキ地区のホテル群の建設工事が片付き次第、この地域のアパート群の手直しに着手するとの情報が入っているようだが、そこはハワイ時間でのノンビリとした仕事振りで何年先になるか判らないそうだ。部屋に一歩入ると清潔感溢れる明るい内装が施され整頓されていたが、所謂日本で言う女性の一人暮らし風の派手さはない。仕事以外は寝るために帰ってくるだけなのか、家族と同居していないせいか余り生活感を感じさせない点に何か足を踏み入れる事に躊躇う不思議さを純一は覚えた。


 クリスがコンドに入る時に毎日の習慣となった動作で本能的に玄関脇の郵便受けに近づき配達された数通の手紙を取る時に、ボックスに書かれた名前から彼女の本名がクリスティーナ・チェンだという事を知り、手早く引き抜いた手紙の中にDMや請求書の類でない合衆国本土からと思しき手紙が混じっている事を目ざとく純一はみとめた。恐らくそれはクリスが離婚したと言っている元夫からのものだろうが、それについて純一は当分は尋ねる気持ちはなかった。それよりはこのふんわりとした暖かさと柔らかさに包まれた二人の関係を大切にしていたい気持ちが部屋に入ると少しずつ高まってくるのだった。


 純一がクリスの部屋に入る時に感じた不思議な感覚の一つは、初めて訪れる部屋なのに何か戻ってくるべきところに帰ってきた感じだった。自分の東京のマンションに海外旅行から久し振りに戻る感覚ともまた異なる、自分が生まれた時代と同じ面影を残した生まれ故郷に戻ったような錯覚を覚えるのだった。間取りはベッドルーム2つにキッチンとリビング・ダイニングと浴室といった構成で、日本なら充分家族4人位で生活できる広さだ。


 部屋に招じ入れられた純一はまるでそこが勝手知ったる我が家であるかのように、飲み物の包みを持ってリビングに入りテーブルに置くとソファーに身を投げた。何気なく部屋の中を見渡したがTVドラマに出てくるような離れ離れになった家族の写真がサイドテーブルの写真立てに飾られていたりと言う感傷的な場面は一切ない。恐らく純一を招く前にクリスが彼女一流の気配りとして今日のために片付けたのであろう。クリスの性格からして普段から全く部屋の中にその類のものを飾っていないとは考えにくいからである。


 そんな考え事をしている純一の所に、いつの間に準備したのかクリスが簡単なオードブルを載せた大皿とビアグラスを二つ持って寄り添ってきた。まだ夕食の準備を始めるところなので乾杯だけにしておこうと言う事で、純一が買ってきた缶ビールを開けて二人分のグラスに注ぎグラスのふちをチンと重ねて二人してゴクリと音を立てて一口飲んだ。暑いハワイでの就職活動で一日動き回った純一には喉を流れる苦味が疲れを癒し、ソファに肩を並べて腰を下ろしたクリスとの会話が滑らかになるように感じられた。


 グラスを片手に場所をキッチンに移して純一はクリスの邪魔にならないように、食器を運んだりの手伝いをして彼女と一緒の一時を楽しんだ。やがて料理の準備も整いテーブルが整えられ今度はスパークリングワインの栓を抜きワイングラスに注いで二人の新しい出会いに乾杯して、二人はしばし黙々とクリスの手料理に舌鼓を打った。クリスのターキー料理は中華風の味付けでハードな企業訪問の一日を終えた純一に胃袋から活力を送り込むようだった。そこに一味つけ加えるのがクリスとのテンポの良い会話だった。

純一はすっかり海外旅行中という緊張感をほどきリラックスした一時をクリスの部屋で過ごすことが出来た。楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、デザートのコーヒーを口にする頃には既に時計の針は9時半を回っていた。二人とも飲酒しているし純一が投宿しているクヒオ通りのコンドミニアムまではザ・バスかタクシーで戻るしかないが、丁度スーパーマーケットからクリスのコンドまで来る途中に、純一が何度か訪れた事がある「日本文化センター(JCCH)」の建物を目にしていたのでバス便で戻れる自信はあった。


 そこで純一はクリスの部屋からバス停までの道順だけを確認し、食事のお礼と明日のお昼頃にはレンタカーの予約に店の方に足を運ぶ旨を伝えて、クリスのコンドミニアムの玄関口で

「おやすみなさい。」と別れた。その時、純一は少し躊躇った後に握手の手に力を込め、クリスの腕を引き寄せて彼女の左の頬に軽く口づけをした。けっしてアルコールの勢いではない事を示すように最後に少し瞳を見つめ「またね!」と耳元に囁いた。


 純一が宿泊先のコンドミニアムに帰りつくと、フロントを通り過ぎる時に係から呼び止められ一枚のFAXを手渡された。昼間に面接をしたSI系システムサポート会社のオーナー社長のマークからで、律儀に約束どおり金融系のシステム開発と運用・保守をする会社からプログラムのリリース前検査や品質管理、それに夜間の運用保守に関する求人票が送られてきていた。内容が要求を満たすかどうか気になるところではあったが、ハワイ二日目の今日もクリスの部屋に招かれて夕食と言う嬉しい事も含めて色んなことが有り過ぎて心地よい疲労を憶えた純一は、ちょっと遅いシャワーを浴びて今夜は休むことに決めた。


 翌日も気持ちの良い好天に恵まれた。純一は当初から三日目は掃除・洗濯の日と決めていた。ラナイに通じる大きなサッシの扉を開けて大きく伸びをしてサーファー達が作る白波を遠くから眺めていると、ここに来るたびにまるで自分の生まれ育った土地のように馴染んでいく自分を感じる事があり、そんな内面の変化に驚かされることがしばしばあった。素足にビーチサンダルで部屋の中だけでなく、そのまま外に買い物や食事に出かけると子供の頃に裸足で野山を駆け巡った頃を思い出す田舎育ちの純一だった。


 一日目より昨日、そして昨日よりも今日の方が少しずつだが原点に回帰していく自分を感じて、本来の自分を取り戻せそうなハワイ移住への決意をますます強めていくのだった。朝食を摂りながら昨夜受け取っていたFAXの内容を目で追ってみた。CISと言う名のSI系システムサポート会社からは求人票と一緒に、紹介できる職種が複数有り、それによって勤務体系や処遇も異なるので一度会って話をしたいと言う事と、その面接の日時を決めたい旨のメッセージが人事担当役員名で記され、週末の金曜日のランチ前に済ませて面接後に食事をするか、午後3時前後でどうか返事が欲しい旨が書かれていた。


 初日にスーパーマーケットで買ってきた紅茶のティーバッグをハワイの大きなマグカップに抛ると、沸きたてのお湯をたっぷり注いでそれにミルクを少し入れて喉を潤しながら今日の大まかなスケジュールを頭の中で英語で組み立ててみる。こんな所から頭の中で英文を反芻することで少しずつこちらの生活に馴染んでいくような気がするのだった。取りあえず午前中に部屋の掃除や衣服の洗濯をしながらCIS社に連絡を取ることにした。


 手早く朝食で使った食器類を洗って片付けると純一は洗濯物を纏めたビニール袋を、「どっこいしょ」と抱え上げて、25セントコインを数枚とスーパーマーケットで初日に購入した洗濯用洗剤を一袋手に、コインランドリーのあるフロアに向かった。途中の廊下で褐色の肌をしたリンダという掃除婦が

「グッド・モーニング!」と

快活に声をかけてきて

「ハーイ!」と

応えた。コインランドリーに洗濯物を放り込んで45分コースのスイッチを押すと手持ち無沙汰になったので一度部屋に戻ってCIS社に電話を掛けることにした。CIS社のブランチマネージャーのブライアント氏とは金曜日のランチタイム前のアポイントが割合容易に取れ、この就職は順調に進みそうな予感がした。


 部屋に備え付けの電話の受話器を元に戻すと、コーヒーメーカーの準備をしつつTVのスイッチを入れニュースをやっているチャンネルに合わせた。部屋のドアー下に早朝配られていた地元紙のヘッドラインを眺めながら、TVのニュースチャンネルから流れるニュースを聞いていると、丁度いい感じで純一の耳に英語でこちらの話題が入ってきて、こちらの人との会話に役立つのだった。主な記事は昨夜の格闘技イベントに出場した選手が試合後にクラブで一騒動起こした事件や、ワイキキのリノベーションを進める中で増え続けるホームレスによる街の汚染に対して清掃を勧めるキャンペーンといった内容だった。


 お昼をカラカウア通り沿いにあるオーガニックカフェに食べに行くついでに、少し遠回りになるがクリスの勤めているレンタカー会社の事務所に立ち寄る事にして、純一はクリスに会う前に頭の整理をしてみた。昨夜クリスの自宅に招待されて夕食のお持て成しを受けて、これからもう少し親しく付き合いたいという気持ちは揺ぎ無いこととして、次のステップとして取り敢えずのこちらでの活動の足掛かりとしてクリスの所でのルームシェアーを、どうやって切り出すかだ。余り展開を焦っても失敗しそうで怖い気もする。


 クヒオ通り沿いにあるスーパーマーケットの角を曲がって2軒目のレンタカー会社の事務所に入ると、クリスが別のお客の相手をしていた。入ってきた純一の姿を見つけてカウンターの奥から別の女性が駆け寄ってきたが、純一はクリスの方に目配せしながらもう一人の女性を手で制した。事務所のソファーに腰を下ろした純一が価格表に目をやっていると程なくクリスの先客も用を済ませて立ち去り、漸くクリスが振り向いてくれた。


 コンパクトカーでオートマチックタイプの明日から10日間ほど借りられる車の一覧を見せてもらい、価格と相談しながらトヨタのバンに決めて予約すると純一はクリスに

「今日の仕事上がりは何時なの?」と

尋ねた。もう信頼関係が出来上がり始めていることを思わせるように間髪いれずにクリスから

「昨日と同じで4時半。」と

返って来た。嬉しくてはしゃぎたくなる気持ちを抑えるように純一は慎重に言葉を選びながら、

「大事な話をしたいから仕事が終ったら、泊まっているコンドミニアムのフロントに来て部屋に連絡してくれないかな?」と

丁寧な口調で頼み、それにクリスは笑顔で

「OK!」と

応えてくれた。


 コンドミニアムの帰り道に行きつけのオーガニックカフェに立ち寄った純一は、ターキー&フレッシュベジタブルサンドイッチとハーブティーのセットを買って、部屋に持ち帰り少し早めの昼食を摂りながら、今日の夕方クリスにこれからの進め方を説明する段取りを考えながら、部屋の掃除を済ませ、軽く屋上プールでひと泳ぎすると早めにシャワーを浴びて、カジュアルな夏ジャケットと薄地のポロシャツとチノパンを揃えた。


 着替えを済ませてエアコンの効いた室内で朝の新聞を眺めているうちに、少し転寝してしまったらしい純一はフロントからの内線電話に起こされた時、クリスにしては少し早くないか?とベッドサイドの目覚まし時計に目をやったが、予想通りの時間だった。今日のクリスは淡い藤色の清楚なワンピースに身を包み、肩や腰周りの柔らかな曲線が一層フェミニンな装いを際立たせていた。


 オープンカフェのハス向かいに建つ、レジャーホテルの1階に入っているアメリカンテーストのクイジーンにクリスを誘うと、

「夕食のメニューは6時からになりますよ。」

というウェイターを片手で制して、純一はハーフパイントのビールを二つとつまみに二品ほどを手際よくオーダーした。二人が風通しの良い窓際のテーブルに腰を下ろすと間もなくウェイターがビールと乾きもののツマミを二人のテーブルに運んできた。


 二人揃ってビールのグラスを手に取り乾杯する事で、純一は重要な話の前の沈黙の時間を避けることに成功してホッとした。ツマミのナッツに手を伸ばすクリスを横目に純一は、

「今日クリスに話さなければならないしたいことなんだけど、実は一つはパートタイムの仕事が決まりそうなんだけど、この二週間以内に他の仕事が見つからなくても一度は日本に戻って退職や転居の手続きをすることになると思うんだよね。そうすると今度戻ってきた時に住む家の住宅費もまかなえないから、もしもクリスさえ良かったら、暫くクリスの部屋でルームシェアさせてくれないかな?勿論、急いで返事をくれなくてもいいんだよ。日本に戻って支度をするのにも最低で1ヶ月位はかかるから、その間にメールで連絡をくれても良いしね。家族の事は心配しなくても大丈夫。努力もしないでオヤジの退職金だけを期待している連中には、もう会社が多額の退職金を出せる余裕が無くて早期退職を勧奨していることを話せば、オヤジに対する価値なんてゼロに落ちてしまうんだから。」


 そこまでイッキに話すと純一はフーっと息を吐いて、クリスの表情から何か読み取ろうと瞳を覗き込みながら、またグイっと苦いビールを飲み込んだ。

「純一が仕事をするのに便利だったら家賃の事なんか気にしないで私の部屋を使ってくれてもいいのよ。あれは離婚の慰謝料代わりに私が前の亭主から貰ったようなものだから・・・。」

クリスは意識的にアッケラカンとした表情で純一の緊張感を和らげるように返してきた。


 その心遣いが嬉しかった純一は

「いやいや、そういうわけには行かないよ。一人分位の家賃は払うし生活費は折半しよう。それに、こちらでキチンと仕事をして永住すると言う態度を日本の家族に時間をかけて示せれば、向こうも完全に諦めて離婚に応じてくれるだろうし、そしたら台湾に居るお子さんを呼び戻して3人で穏やかに暮らしたいと思っているんだよ。」と、

純一は柔らかな表情でクリスに説得するように語りかけた。


 その言葉を受け止めてクリスの表情からも、緊張感が取れて純一に対する信頼感だけが増す表情に変っていった。そのまま二人はしばらくお互いの過去の傷や辛酸を確認し、そして未来に広がる幸せな一時を待ち焦がれるように瞳を見つめあった。そしてどちらからともなく立ち上がると並んで2ブロック先のワイキキ・ビーチに向かって歩き始めた。まるで予め定められたプロットを辿る役者のように。純一には時折触れるクリスの肩の柔らかさと暖かさが嬉しかった。そしてビーチではまさに太陽がかなたの水平線に沈もうとしているのを観光客達が集まって見つめていた。海が燃えていた、爆発するように。そしてゴーっという歓声が周りに沸き起こり、誰かが叫んだ。サンセットにグリーンのラインが見えた、と。幸運の象徴らしい。純一がクリスの肩を抱き寄せる腕に一際力を加えた。きっと二人の明日には何か良い事が待ち受けていると。フォーチュンキャンディを開く子供のような心でお互いの心の扉を開きかけていることをクリスは純一の腕力に感じた。


実際に自分の可能性について色々な理由をつけて制限を設けているのは結局は自分自身に過ぎないのではないでしょうか?読者の皆さんが、この小説を読まれて、これをキッカケに新たな一歩を踏み出すことを考えて頂ければ幸いです。

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