セカイ系とか懐かしい言葉
先日『マルドゥック・スクランブル』の文庫完全版を読み終えた。作者は冲方丁さん。この作品は三冊で構成されているのだが、一巻を読んだ時には正直なところ聞いていた評判ほどではないなと思った。けれどもそれは間違いだったらしい。二巻を読み進めていくうちにその印象は木っ端微塵に砕け散り夢中になって読み進め、三巻はものすごい勢いで読了の運びとなった。
最近、ジャンルというものについてはあまり考えなくてもいいのかなとちょっと感じている。これについては特に考察していないので根拠を示すことができないのだが、ぼんやり思うところについてはおそらく、面白い物語は面白い物語でいいのではないかと自分の中でなんとなく思ったからだろう。それは映画でも音楽でも何でもいいのだけれども、ネットという道具を通じて名は売れていなくとも素晴らしい作品が沢山あるということを知ったから。というわけで、この作品をSFと捉えるのではなく、単にストーリーとしてだけ認識している。
実は『マルドゥック・スクランブル』の一巻を読む前に読んだ作品が有川浩さんの『塩の街』だった。だからというわけでもないかもしれないが、特に考えもなしに『マルドゥック・スクランブル』と『塩の街』を同じ文脈で読んだような気がする。作品世界の雰囲気は相当に違うけれど。女と男の物語として読んだのだと思う。『マルドゥック・スクランブル』のヒロインである少女娼婦ルーン・バロットと『塩の街』の小笠原真奈はちょっと似ている部分がある。同時に相手役であるウフコック・ペンティーノと秋庭高範も似ている面があるような気がする。個人的になんとなく『レオン』を思い出しただけなんだけど。でも同じ印象を持つ人はきっと他にもいると思う。
もっとも彼らは在り方は似ているが、その間には大きな傷口が一線を引いている。線の前にいるか後ろにいるかが真逆だ。『マルドゥック・スクランブル』は失っており、『塩の街』は失っていない。だから余計に対比させたのかもしれない。具体的に例を出すとバロットはレイプされており、小笠原真奈はレイプされそうになるところを助けられている。ウフコックは相棒を失っており、秋庭高範は相棒(のような好敵手のような存在)を失っていない。ただ『マルドゥック・スクランブル』はそれを乗り越える物語であり、『塩の街』は世界の危機と対峙する物語であるため、その一線はそのままストーリーに繋がっている。
不意にセカイ系という言葉を思い出した。改めてウィキペディアを参照すると、セカイ系は非常に広範な定義をされているらしいが、2010年の時点でほぼ消滅したらしい。そもそも自意識と世界の関わりを考えていくと結果、それは単に文学の基本テーマであることとなっているらしい。
確かに、僕がセカイ系を何らかの言葉で表現するとすれば、「僕と君と世界の終わりと」のような、まるで『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のような語感の言葉になる。あ、どうでもいいけど、このあたりの音の響きはちょっと『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にも似てると思う、うん。そんなことを言えば、恋愛小説なんて全て広義のセカイ系に当たるだろう。なぜなら、恋愛なんて結局のところ「僕と君が世界の全て」に行き着くと思うから。
とは言っても、現在純粋なセカイ系が消滅しているとすれば、世の流れは熱狂から抜け出し冷静になってきたというところだろうか。つまり、「僕と君の関係は、世界のこととは何ら関係がない」と。「僕と君との関係がどうなろうと、(僕の、私の)世界は変わらずに存在し続ける」のだろうか。頼むから、「(僕が、私がいなくとも)世界は変わらずに存在し続ける」という方向性が流行らないことを願う。スケールが大きければいいけれど、小さいと自己軽視にしか行き着かない。デフレの時代があり、物の価値がわからなくなり(シビアになり)、大企業が潰れ、神話が崩壊した。それでも「僕たち(=作者世代)」は生きているし、世界の危機とは関係なく生きていかなくてはいけない。それを冷静に考えれば世界の終わりなんて書く気分にはならないのかもしれない。世界の終わりについて妄想しているヒマなんてない。
思えばセカイ系の代表作品を『ヱヴァンゲリオン』や『ブギーポップシリーズ』だとすると、時代は世紀末であり、音楽ではヴィジュアル系がはやっていた。そこにあるのは内向的であったり、極度に強調された美意識だった。「自分らしさとは」みたいな考え方が流行った時代でもあるだろう。
さ、いいかげんまとまりがないので今回はこの辺りで終了。