未完成
『明日やればいい』
この言葉が、僕は昔から嫌いだった。
今日できなかったことを、明日の自分に押しつけているだけに聞こえるからだ。
それでも僕は、何度も明日に逃げた。
君に「好き」と言うことも。
君ともっと近づくことも。
全部、明日でいいと思っていた。
高校三年の夏。
放課後の教室には、僕と君しかいなかった。
窓の外から聞こえる蝉の声と、廊下を走る誰かの足音。
君は机の上に置かれた紙コップを二つ持ち上げた。
「これ、何に使うと思う?」
「知らない」
「糸電話」
君はそう言って笑った。
紙コップの底には、小さな穴が開いていて、そこから一本の糸が伸びていた。
文化祭の準備で余った材料を使って彼女が作ったらしい。
「やってみようよ」
「高校生にもなって?」
「いいじゃん。暇なんだし」
君はへにゃりとした笑みをこぼした。
君が教室の端まで歩いていく。
僕も反対側へ歩く。
糸がピンと張る。
たった数メートル。
それだけなのに、彼女が急に遠くなった気がした。
彼女が紙コップを口元に当てる。
「もしもし」
少し遅れて、僕の手元の紙コップから声が聞こえた。
「……聞こえる」
「ほんと?」
「うん」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、僕は思った。
この糸一本で声が届くのに。
どうして僕の「好き」は届かないんだろう。
僕たちは、それから何度も糸電話で話した。
好きな音楽。
先生の愚痴。
進路のこと。
昨日見たテレビの話。
本当にくだらないことばかりだった。
でも、僕にとっては全部特別だった。
ある日の帰り道。
君が突然言った。
「私、卒業したら県外行くんだ」
「……そっか」
知っていた。
前から聞いていた。
それでも、本人の口から聞くと胸の奥が少し痛んだ。
「寂しくなるね」
君は笑った。
「うん。でも、まだ先のことだからね。」
その言葉を放った時の君の顔を思い出すと今になっても心が締め付けられる、後悔する。
僕は何も言えなかった。
夏が終わる。
秋が来る。
冬が来る。
時間は僕の気持ちなんて待ってくれなかった。
君との距離は、僕が何もしない間にも、加速度的に離れていった。
卒業式の日。
教室には、もうほとんど誰もいなかった。
机の中を整理していると、君が声をかけてきた。
「これ、覚えてる?」
君の手には、あの糸電話があった。
紙コップは少し潰れていて、糸も何度も結び直した跡がある。
「懐かしいね」
「うん」
君が片方を僕に渡した。
最後だから、と言うように。
僕たちは少し離れて立った。
糸を張る。
君が紙コップを耳に当てる。
「もしもし」
今度は、僕から声を返す。
「……もしもし」
たったそれだけだった。
本当は、言いたいことがあった。
ずっと好きだった。
卒業しても会いたい。
君がいなくなるのが嫌だ。
もっと一緒にいたい。
全部伝えたかった。
なのに。
口から出てきたのは、
「元気でね」
それだけだった。
彼女は少し笑って、
「そっちもね」
と言った。
教室を出る直前、彼女が振り返った。
「じゃあ、またね」
「うん。またね」
扉が閉まる。
僕は一人になった。
机の上には、糸電話だけが残っていた。
数年後。
僕は久しぶりに部屋の掃除をしていた。
棚の奥から、古い紙袋が出てきた。
中には、あの日の糸電話が入っていた。
紙コップは潰れていて、糸は途中で切れていた。
僕はそれを手に取って、少しだけ笑った。
あの日。
僕は最後まで言えなかった。
だから、僕たちの恋は始まらなかった。
でも、終わることもなかった。
始まらなかったから。
終わらせることもできなかった。
窓の外を見る。
あの頃と同じように、夕方の空が赤く染まっていた。
僕は切れた糸を指でなぞる。
もし、あの日に戻れたなら。
今度こそ、ちゃんと言えるだろうか。
「好きだった」
口を当ててそう呟いてみる。
当然、返事はない。
糸電話の向こう側には、もう誰もいない。
それでも僕は、あの日の事を忘れられない。
僕たちの間にあった一本の糸は、最後まで僕らをつなぎ続けた。
そして同時に、
僕らが最後まで一歩を踏み出せなかったことを、
ずっと証明している。
僕たちの恋は、
最後まで――
未完成だった。




