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金曜日に贈る和歌  作者: 朝凪


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9/13

春の酒

2月の中旬。冬の冷たさと、春の気配が同居する夜だった

窓の外はまだ息が白くなるほど寒いのに、どこか風の角が取れて丸くなっている。金曜日の仕事を終えた桜は、部屋の灯りを落として晩酌の支度をしていた

桜は、お酒が大好きだ

冷蔵庫からワインを取り出し、お気に入りのグラスに注ぐ。とぷん、と赤い液体が揺れ、灯りを受けて深い色がきらめく。小さな皿には、チーズとナッツ、それから塩気のあるおつまみ。気取らないけれど、こういう“自分のための夜”が桜には何よりのご褒美だった


「……はぁ、しあわせ」


ひと口飲むと、舌の上でアルコールの香りが広がり、喉を通って胸の奥がほどける。つまみをかじり、またひと口。体の芯にじんわりと熱が灯り、心まで柔らかくなる。ほろ酔いの波が優しく寄せてくるのが分かった

そして桜は、つい浮かれてしまう。ワインを揺らしながら、ふっと口が勝手に言葉を紡いだ


「“言はむすべ為むすべ知らず極まりて貴きものは酒にしあるらし”……かな」


万葉集に収められた、酒を讃える歌

なんとも言いようがなく、どうしようもなく最高に貴いもの――それは酒であるらしい。桜は自分で詠んでおきながら、くすっと笑う


「……わかる。わかりすぎて困る」


昔の人も、きっと同じ顔で杯を傾けていたのだろう。嬉しい日も、疲れた日も、言葉にできない夜も。酒はそれらをそっと包んで、少しだけ世界を優しく見せてくれる。時代が違っても、人の心の形は案外変わらないのかもしれない

グラスの底が少し軽くなるころ、桜は窓の外を眺めた。まだ冬の闇は濃い。でも、遠いどこかで春が支度をしている気配がする。桜は小さく息を吐き、もう1度だけグラスを掲げた


「……金曜日、おつかれさま」


静かな乾杯

お酒を楽しむのは、昔も今も変わらない。そう思うと、万葉の歌が急に身近になって、桜の夜はほんの少しだけ豊かに輝いた




・和歌

言はむすべ為むすべ知らず極まりて

貴きものは酒にしあるらし

(大伴旅人 万葉集)

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