春の酒
2月の中旬。冬の冷たさと、春の気配が同居する夜だった
窓の外はまだ息が白くなるほど寒いのに、どこか風の角が取れて丸くなっている。金曜日の仕事を終えた桜は、部屋の灯りを落として晩酌の支度をしていた
桜は、お酒が大好きだ
冷蔵庫からワインを取り出し、お気に入りのグラスに注ぐ。とぷん、と赤い液体が揺れ、灯りを受けて深い色がきらめく。小さな皿には、チーズとナッツ、それから塩気のあるおつまみ。気取らないけれど、こういう“自分のための夜”が桜には何よりのご褒美だった
「……はぁ、しあわせ」
ひと口飲むと、舌の上でアルコールの香りが広がり、喉を通って胸の奥がほどける。つまみをかじり、またひと口。体の芯にじんわりと熱が灯り、心まで柔らかくなる。ほろ酔いの波が優しく寄せてくるのが分かった
そして桜は、つい浮かれてしまう。ワインを揺らしながら、ふっと口が勝手に言葉を紡いだ
「“言はむすべ為むすべ知らず極まりて貴きものは酒にしあるらし”……かな」
万葉集に収められた、酒を讃える歌
なんとも言いようがなく、どうしようもなく最高に貴いもの――それは酒であるらしい。桜は自分で詠んでおきながら、くすっと笑う
「……わかる。わかりすぎて困る」
昔の人も、きっと同じ顔で杯を傾けていたのだろう。嬉しい日も、疲れた日も、言葉にできない夜も。酒はそれらをそっと包んで、少しだけ世界を優しく見せてくれる。時代が違っても、人の心の形は案外変わらないのかもしれない
グラスの底が少し軽くなるころ、桜は窓の外を眺めた。まだ冬の闇は濃い。でも、遠いどこかで春が支度をしている気配がする。桜は小さく息を吐き、もう1度だけグラスを掲げた
「……金曜日、おつかれさま」
静かな乾杯
お酒を楽しむのは、昔も今も変わらない。そう思うと、万葉の歌が急に身近になって、桜の夜はほんの少しだけ豊かに輝いた
・和歌
言はむすべ為むすべ知らず極まりて
貴きものは酒にしあるらし
(大伴旅人 万葉集)




