筑波嶺の
バレンタインデーが近づく頃
街のショーケースが赤やピンクや茶に染まり、電車の広告まで「想いを届けよう」と囁いてくる季節。けれどOLの陽奈は、ひとりだけ胃がきゅっと縮む思いをしていた
――好きな人がいる
それだけで世界は少し眩しくなるのに、同時に怖くもなる
相手は同じ会社の男性。話しかければきちんと笑ってくれるし、仕事も丁寧に教えてくれる。けれど陽奈は、そこから先の一歩が踏み出せなかった。もし気持ちを伝えて、気まずくなったら。もし迷惑だと思われたら。想像だけで指先が冷える
(……無理。直接告白なんて絶対無理)
月曜日の昼休み。陽奈はスマホを握りしめ、友人の桜にLINEを送った。
『桜、助けて。バレンタインどうしよう……好きな人がいるんだけど、渡す勇気がない』
すぐに返事が来る
『陽奈、可愛いことで悩んでるね。よし、作戦立てよう』
『作戦……?』
『義理チョコとして、会社の男性陣全員に配ったらどう? そうしたら、その人にも自然に渡せる』
『え、でも……それじゃ、私の気持ち、伝わらないじゃん……』
すると桜は、少し間を置いてから送ってきた
『伝わるよ。仕掛けを入れるから』
『仕掛け?』
『その人のチョコにだけ、和歌を添えるの』
『和歌……?』
スマホの画面の向こうで、桜が得意げに笑っているのが見える気がした
『そう。陽奈にぴったりの和歌を思いついた。直接じゃなくても、気持ちを伝える方法はちゃんとあるんだよ』
陽奈は思わず頬を押さえた。恥ずかしい。でも、少しだけ心が軽くなる
『……桜、それ、ずるい。嬉しい』
『ずるくていいの。恋は真面目なだけじゃ進まないから』
その夜、陽奈は桜の助言通り、チョコレートを買い込んだ
配る用は同じ銘柄で揃え、想い人に渡す分だけは、ほんの少しだけ上質なものを選ぶ。違いは控えめで、でも自分だけは分かる程度の差
そして桜が用意してくれたのが、金色の装飾が入った白いメッセージカードだった。主張しすぎないが地味でもない、絶妙なセンス
そこにピンクのインクで、柔らかい筆跡が踊っている
筑波嶺の峰より落つるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる
(雫が積もって淵になるみたいに、恋心も深くなった……)
陽奈はカードを見つめ、胸がじんと熱くなった
「……こんなの、反則だよ」
呟きながらも、カードを丁寧に封をする
言葉にするのが怖い気持ちを、古い歌が代わりに抱きしめてくれる気がした
ーーそして金曜日
バレンタインより1日早いけれど、会社の都合で配りやすい日だった。陽奈は紙袋を抱え、休憩スペースで男性陣に順番に渡していく
「いつもありがとうございます。よかったら……」
笑顔を作るのに、頬が少し引きつる。けれど「ありがとう」「気が利くね」と返ってくる声に、心臓が少しずつ落ち着いていった
最後に、想い人の席
(ここ……ここが山場……!)
「あの……これ、よかったら。いつもお世話になってるので」
手が震えそうになるのを、紙袋の持ち手を握りしめて抑える。相手は驚いた顔をして、それからフッと笑った
「ありがとう。嬉しい」
その一言だけで、陽奈の胸はいっぱいになった。カードの存在に気づかれるかどうかは分からない。気づかれなくてもいい。渡せた。それだけで十分だと思った
――けれど、数日後
昼休みの終わり際、想い人が陽奈の机の近くに来て、小さなメモをそっと差し出した
「これ……」
「え?」
受け取って開くと、短い文字が書かれている
『LINEを交換しませんか』
陽奈は一瞬、息を忘れた
「……え、あの、えっと……」
顔が熱い。耳まで赤くなるのが分かる
想い人は少し照れたように視線を逸らしながら、付け足す
「チョコ、嬉しかった。あと……あのカード、すごく良かった」
(読んでくれたんだ)
胸の奥で雫が積もっていくみたいに、喜びが静かに深くなる
陽奈はメモをぎゅっと握りしめ、やっと言えた
「……はい。ぜひ」
たったそれだけの返事なのに、世界が春へ向かって動き出した気がした
・和歌
筑波嶺の峰より落つるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる
(陽成院 後撰和歌集)




