梅の刺繍
水仙が美しく咲き誇る頃
桜は家の小さな作業机に向かい、刺繍に精を出していた。窓の外はまだ冬の気配が濃く、空気は冷たい
けれど部屋の中だけは、手元の灯りと布の白さで、どこかやわらかい温度を保っている
今日刺しているのは、梅の枝に雪が降り積もる景色だ。糸は淡い紅と渋い茶、それに雪を表す白。桜は針に糸を通し、布を指先で張り、ひと針ひと針を丁寧に進めていく。刺繍は急げば急ぐほど乱れる。だからこそ、急がない。呼吸を整え、針の先が布を抜ける感触を確かめながら、静かに縫い目を重ねた
ちくちく、ちくちく
そのリズムに合わせるように、桜はふいに和歌を口ずさんだ
「花の色は雪にまじりて見えずとも香をだに匂へ人の知るべく……」
和歌が、刺繍の時間とよく似合った
桜にとって刺繍は、暮らしの中の瞑想のようなものだった。焦りや雑念が針先でほどけていき、かわりに静かな満足が胸に溜まっていく
完成形を急ぐのではなく、“今この一針”に心を置く。そうしているうちに、いつの間にか時間が流れていく
……ふと時計を見ると、思ったより針を進めていた
最後に雪を表す白糸をふわりと乗せ、梅の枝の影を整え、糸を裏で結ぶ
「……よし!」
桜は小さく声を上げ、布巾を持ち上げた。梅の花が控えめに咲き、その上に薄い雪が舞っている。派手さはないのに、眺めていると心がすっと落ち着く。指先で刺繍の凹凸をなぞると、針を進めた時間そのものが手触りとして残っていた
顔を上げると、外はもう夕暮れだった。窓の向こうの空は紫がかり、遠くの電線が細い線になっている
「日が長くなったなぁ……」
ついこの前まで、午後4時には暗くなっていた気がする。寒さはまだ残っているのに、光だけは確実に増えてきている。冬至を越えた日々が、こんなところにも姿を現すのだと思うと、なんだか嬉しい
「春は……近づいてるんだよね」
梅に雪、という図案は、まさにその境目を映している。冬の中に春が潜んでいること。雪にまじって色が見えなくても、香りはちゃんと世界へ届くこと。桜は完成した刺繍をしばらく眺め、ふっと微笑んだ
「次は……桜の刺繍でもしようかな」
春を待つだけではなく、迎えにいくみたいに
次の図案を思い浮かべながら、桜は裁縫箱を静かに片付ける。糸を整え、針山に針を戻し、布を畳む。部屋に残ったのは、夕暮れの淡い光と、布巾の端に咲いた小さな梅
見えないところでも、季節は動いている
針を重ねた時間のように、春もまた、少しずつ確実に近づいている
桜は湯を沸かしながら、次に刺す桜の色を心の中で選び始めていた
・和歌
花の色は雪にまじりて見えずとも
香をだに匂へ人の知るべく
(小野篁 古今和歌集)




