熟田津に
5月の終わり。教室の窓から入る風は少し湿り気を帯びていて、季節がゆっくりと夏へ傾いているのが分かる頃だった
女子高生の真鶴は、ひとりだけ置いていかれたような気分で机に突っ伏していた。不機嫌の理由は単純で、そして少しだけ情けない
「……茜音ばっかり」
少し前まで、自分と同じくらい古典が苦手だった友人・茜音。けれど最近、その茜音がやたら楽しそうなのだ。授業中も妙に目が輝いていて、テストの点数まで上がっている
(なんで急に……)
真鶴は視線の先で楽しそうに友人と話す茜音を見ながら、小さくため息をついた。自分だけ取り残されたような気がして、胸の奥がもやもやする
放課後、とうとう耐えきれなくなって声をかけた
「ね、ねぇ……茜音。なんで急に古典好きになったの?」
茜音はきょとんとした顔をしたあと、あっさり答える
「あー、それね。“金曜日に贈る和歌”っていうサービスなんだけどさ」
「金曜日に……なにそれ」
「それでね、送ったら和歌が届いたんだけど、それがもう昼ドラでさ」
「昼ドラ?」
茜音は身を乗り出す
「額田王と大海人皇子のやつ!兄弟とか政治とか恋愛とか全部混ざっててやばいの!」
真鶴は思わず目を瞬いた
「ぬかたの……なに?」
その瞬間、真鶴の中で何かが引っかかったが、そのまま話は流れていった
ーーーーー
その日の夕方。真鶴は家に帰るなり、スマホを開いた
(……私もやってみようかな)
妙な対抗心と、少しの興味が混ざっていた。気づけばフォームに文字を打っている
『額田王の和歌をお願いします』
送信ボタンを押したあと、ほんの少しだけ胸が高鳴った
そして金曜日。ポストに届いたのは、波の模様が描かれた美しい封筒だった。
「わ、綺麗……」
部屋に駆け込み、丁寧に封を開ける。中から出てきたのは、月が描かれた一筆箋。そこに、黒い筆文字が静かに並んでいた
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
真鶴はしばらく黙ってから、スマホで意味を調べる
「……船出の歌?」
船出をしようと月の出を待っていると、潮もちょうど満ちて来た。さあ漕ぎ出そう――そんな意味だった
「え、かっこよ……」
そして自然に、茜音の言葉を思い出す
(昼ドラって言ってたけど……どういうこと?)
気になった真鶴は、そのまま額田王について調べ始めた
「え……この人、天皇の妃で、しかも兄弟に愛されたってこと?」
「白村江の戦いの時代!?え、歴史の中心人物じゃん……」
「ていうか、歌で政治動かしてない……?」
調べれば調べるほど、情報は濃くなる。恋愛、権力、戦争、宮廷。ひとりの女性を中心に、時代そのものが動いている
「なにこれ……やば……」
真鶴は気づけばスマホを握りしめたまま、完全に没頭していた
「額田王って……ただの歌人じゃなくない?絶対ただの才女じゃない……」
興奮が止まらない。知れば知るほど、和歌が“教科書の文字”ではなく“生きた感情”として立ち上がってくる
そのとき、真鶴はふと呟いた
「……和歌って、面白いかも」
ーーーーー
それから真鶴も、古典の授業に少しずつ前のめりになっていく
ただ暗記するものではなく、そこにある人間の物語を追うようになった
そしてある日。授業で「熟田津に船乗りせむと月待てば」が取り上げられた瞬間、真鶴の中で何かがはっきりと繋がった。
「あ、これ……あの時のやつだ」
小さくつぶやくと、横から茜音が振り向く
「え、それ知ってるの?」
「うん。私も“金曜日に贈る和歌”やったから」
その一言で、二人は顔を見合わせた
そして自然に笑い合う
かつて同じように古典を嫌っていた2人は、いま同じ言葉の面白さの中にいた
気づけば、少し離れていた友情も、また静かに戻り始めていた
・和歌
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(万葉集 額田王)




