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金曜日に贈る和歌  作者: 朝凪


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今年生ひの

1月、とびきり寒い頃

太陽は柔らかく輝いているのに、外の風は凍えるほど冷たい


エアコンの効いた部屋の中、深雪は丸くせり出したお腹をさすりつつ、ソファにもたれかかっていた

妊娠後期で動くたびに腰が重く、靴下を履くだけで一苦労だ。深雪自身は産休に入っているが、夫は仕事。家は静かすぎるほど静かだった


「……暇、だなあ」


呟きながら、何度目かも分からないSNSの画面を指でなぞる。友人たちの何気ない日常や、知らない誰かの料理写真を流し見していると、ふと目に留まる投稿があった


ーー金曜日に贈る和歌


簡素な文字と、雪の積もった富士山の画像

説明文にはこうあった


“ーーあなたの近況に寄り添う、先人の和歌を金曜日にお届けします”


「和歌……?」


和歌なんて、高校の授業で習ったきりだ

難しそう、でも、なんだか優しそう

指先が自然とリンクを開いていた


フォームには、短い依頼文を入力する欄がある

深雪は少し考え、ゆっくりと文字を打った


“出産を控えています。おめでたい和歌をお願いします”


「……まぁ、退屈しのぎだよね」


そう言って笑ったが、胸の奥がほんの少し温かくなった気がした



出産は、木曜日の早朝だった


長くて、短い時間

叫んで、泣いて、息を整え、そしてーー


「おめでとうございます!可愛い女の子ですよ」


助産師の声とともに、か細い泣き声が聞こえる

清隆は何度も「ありがとう」を繰り返し、深雪は汗と涙でぐしゃぐしゃのまま、震える腕で小さな命を抱いた。


「……ちっちゃいね」

「でも、ちゃんと生きてるんだな」


2人で笑って、泣いた



翌日の金曜日

病室のカーテン越しに、冬の日差しが淡く差し込んでいる。


「来たよ」


病室に入ってきた清隆の手に、白い封筒が握られていた


「なに、それ?」

「この前頼んだやつじゃないか?」


深雪は一瞬きょとんとしてから、はっとする


「あ……和歌!」


白い封筒の中に、若々しい松が描かれた一筆箋

字は美しい緑色のインクで書かれていた



今年生ひの松は七日になりにけり

残りの程を思ひこそやれ



深雪は、声に出してゆっくりと読む


「意味、調べてみるね」


スマホを操作し、表示された現代語訳を見た瞬間、喉が詰まった


「……今年生えた松は、ようやく7日になりました。松は千年生きるから、その先の長い命を思いやるのです……」


清隆はしばらく黙っていたが、深雪の腕の中で眠る赤ん坊に目を落とし、ぽつりと言った


「7日目の命に、千年の願いを込める、か」


2人の間に、静かな時間が流れる


「……ねえ」

「ん?」

「この子の名前」


深雪は娘の小さな手を指で包みながら、微笑んだ


「千歳ってどうかな」


清隆は一瞬驚いた顔をして、それからゆっくり頷いた


「いい名前だ。長く健やかに生きるように……ってね」


金曜日に届いた1首の和歌は、ひとつの命の名となったのだった



その日の午後、清隆は一度家に帰り、深雪は千歳と2人きりになった

眠っている娘の小さな胸が、かすかに上下する

その様子を眺めながら、深雪は先ほどの和歌のことが頭から離れなかった


「えっと……」


スマホでさらに調べてみる

和歌が詠まれた時代、出産について書かれた解説記事が目に入った


ーー昔の出産は命懸け

――母親は5人に1人が亡くなり、子供も丈夫に生まれるとは限らなかった

――「母子ともに健康」は、当たり前ではなく、奇跡に近い出来事だった


画面を見つめたまま、深雪はしばらく固まった


「……そんな……」


自分は、つらかったとはいえ無事に産んだ

痛みも恐怖もあったけれど、医師も助産師もいて、清隆もそばにいた


もし、自分がこの和歌が詠まれた時代に生きていたらーー

もし千歳が7日を迎える前に、何かがあったら


想像しただけで、胸がきゅっと痛くなる


「7日、って……」


和歌の中の「七日」は、ただの日数じゃない

“ここまで生きることができた”という、切実な祈りだったのだ


深雪は、そっと千歳の頬に触れた

温かくて、ちゃんと生きている


「……ありがとう」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない

医学の進歩かもしれない。名も知らぬ医師たちかもしれない。あるいは、過去に命を繋いできた無数の母親たちかもしれない


そしてーー

千年生きる松に子どもの命を重ねた、あの歌を詠んだ人


「千歳」


名前を呼ぶと、娘は小さく口を動かした


「あなたはね、奇跡なんだよ」


7日を越え、1年を超え、年を重ねていくこと

それは、当たり前なんかじゃない

だからこそ、この名前を選んだ


ーー千歳が生きる1日1日を、

ーーこの時代に生まれた幸運を

ーー何より、この小さな命そのものを

大切に、大切に、愛していこう


深雪は胸いっぱいに、静かな誓いを抱いたのだった




・和歌

今年生ひの松は七日になりにけり

残りの程を思ひこそやれ

(平兼盛 拾遺和歌集)

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