瀬をはやみ
3月の終わり
桜が咲き、出会いと別れが一気に街へ押し寄せる季節だった
大学4年生の真帆は、駅前のカフェで恋人の蒼介と向かい合っていた。窓の外では、新しいスーツに身を包んだ人たちが行き交っている。春らしい光景のはずなのに、真帆の胸の中は少しも浮き立たなかった
「遠距離、か……」
ぽつりと漏らすと、蒼介はコーヒーカップを見つめたまま苦く笑った
「うん。……大丈夫って言いたいけど、簡単じゃないよな」
蒼介は地元・福岡の企業に就職が決まっていた
真帆は東京の出版社に勤めることになる
2人は大学で出会い、2年半付き合ってきた。何でもない日常を一緒に過ごし、将来の話だって少しずつしてきた。それなのに春は、そんな2人の手をあっさり引き離そうとしている
「私……ちょっと考えたんだよね」
「何を?」
「別れたほうがいいのかな、って」
言った瞬間、蒼介が顔を上げた
その目の揺れを見て、真帆の胸も痛んだ
「……俺も、少しだけ考えた」
嘘をつかない人だと思った
だからこそ、その正直さが苦しかった
沈黙が落ちる。店内には食器の触れ合う音と、小さな話し声だけが流れていた
「でも、別れたいわけじゃないんだよ」
真帆が絞り出すように言うと、蒼介は小さく頷いた
「俺もだよ。ただ、会えなくなることとか、新しい生活とか……考えると、不安で」
「うん」
「真帆に寂しい思いさせるのも嫌だし」
「私だって、蒼介に同じこと思うよ」
2人とも“好き”なのに、その先にある現実が重たかった
ーーーーーーー
その夜、真帆は1人暮らしの部屋でベッドに腰を下ろし、しばらく動けなかった
別れたほうが楽なのかもしれない。今のうちにきれいに終わらせれば、もっと傷つかずに済むかもしれない
でも、本当にそれを望んでいるのかと自分に問い直すと、答えは決まっていた
「……別れたくない」
声に出した瞬間、涙がこぼれた
泣きながらスマホを開く。何気なくSNSを流しているうちに、前に友人が話していたページを思い出した
“金曜日に贈る和歌”
藁にもすがるような気持ちでホームページを開き、真帆は送信フォームに言葉を打ち込む
『春から恋人と遠距離になります。好きなのに、不安で、別れたほうがいいのではと思ってしまいます。離れても繋がっていられる言葉がほしいです』
送信を終えると、少しだけ呼吸が楽になった
ーーーーーーー
その週の金曜日
帰宅した真帆のポストには、淡い水色の封筒が入っていた。まるで春の川面のような色だった
「……来た」
部屋に入り、ゆっくり封を切る
中には白い便箋が1枚。そこに、深い青のインクで1首の和歌が記されていた
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ
真帆は、便箋を胸に抱いた
離れることは、終わることじゃない
今は岩にせかれて流れが分かれても、それぞれが前へ進んでいれば、また合流できるかもしれない
「分かれてもまた会おう……か」
その言葉は、慰めというより約束に近かった
ーーーーーーー
真帆はすぐに蒼介へメッセージを送った
『今夜、少し話せる?』
ほどなくして、通話画面に蒼介の顔が映る
「どうした?」
真帆は便箋を膝の上に置き、息を整えた
「私、やっぱり別れたくない」
蒼介が黙って真帆を見る。真帆は続けた
「離れるの、すごく怖いよ。会えなくなるのも、新しい生活も不安。……でも、離れるから終わりにするんじゃなくて、離れてもまた会えるように頑張りたい」
蒼介の表情が揺れた
「今は別々の場所に行っても、ちゃんと前に進んで、また会おうって思いたいの。川みたいに、1回分かれても、またひとつになるみたいに」
「………それ、和歌?」
「うん」
「真帆らしいな」
「何それ」
「でも……好きだよ、そういうとこ」
真帆は泣き笑いみたいな顔になった。蒼介も、画面の向こうで少し照れたように目を伏せる
「俺も、別れたくない」
「……うん」
「簡単じゃなくても、やってみたい。遠距離でも、ちゃんと続けたい」
真帆は強く頷いた
「じゃあ……」
「うん。“分かれてもまた会おう”でやってみよう」
その言葉に、真帆の胸の中で何かが静かに定まった
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通話を終えたあと、真帆は便箋を机の上に飾った
岩で分かれても流れをやめない川のように、自分たちもそれぞれの場所で進んでいけばいい
春は、別れの季節でもある
けれど同時に、新しい約束を結び直す季節でもあるのだ
窓の外では、春の雨がしとしとと降っていた
まるでどこかの川の流れを、遠くから祝っているみたいに
・和歌
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ
(崇徳院 詞花和歌集)




