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金曜日に贈る和歌  作者: 朝凪


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13/13

桜の花

3月も下旬が近づく頃の話

まだ朝夕には少し冷たさが残るものの、風の匂いはすっかり春めいていた。庭に立つと、土の湿り気や草の青さが、確かに季節の移ろいを告げている

桜は軍手をはめ、小さな庭の手入れをしていた。枯れた葉を集め、土をならし、伸びすぎた枝先を少しだけ整える。冬のあいだ静かに眠っていた庭が、少しずつ目を覚ましていくのを見るのは、何度経験しても嬉しい

庭の隅には、小さな桜の木がある。桜がまだ幼い頃に植えられたもので、大木には程遠いけれど、毎年ちゃんと春になると花を咲かせる。今年も枝先にはふくらんだ蕾がつき、ところどころ綻び始めていた。淡い色を内側に抱えたその姿は、まだ咲き切っていないからこそ、いっそう愛おしい

桜は手を止めて、その枝を見上げた。青い空を背景に、小さな蕾が光を受けている。すると、自然にひとつの歌が口をついて出た


「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし……」


在原業平の有名な1首

もしこの世に桜という花がなかったなら、散るのを惜しむこともなく、春の心はもっと穏やかでいられるだろうにーーそんな意味の歌だ

桜は小さく笑う


「ほんとにね……」


咲く前から待ち遠しくて、咲けば嬉しくて、満開になれば息を呑むほど美しくて、でも同時に“いつ散ってしまうんだろう”と少しだけ寂しくなる。桜という花は、春に喜びだけではなく、名残惜しさまで連れてくる

だからこそ、昔の人がこの花に心を乱されたのも分かる気がした。美しいものほど、永遠ではない。そのことを、桜は毎年同じように教えてくる

けれど桜は、自分の名前と同じ花を見上げて呟く


「でも桜があるから、春は美しいんだよね……」


散るからこそ愛しい

短いからこそ、心に残る

のどかではいられなくても、その落ち着かない心さえ春の1部なのだ

桜は柔らかく笑い、蕾の膨らんだ枝先にそっと目を細めた。自分の名前にもなった花は、昔から変わらず人の心を揺らし続けている。そして今年もまた、同じように誰かを喜ばせ、誰かを少しだけ切なくさせるのだろう

風がふわりと吹き、桜の枝先がかすかに揺れた

桜は土のついた手袋を外し、春の光の中でしばらくその木を眺めていた。咲くのはもうすぐだ。待ち遠しさと名残惜しさを、まだ蕾のうちから胸に抱きながら




・和歌

世の中に絶えて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし

(在原業平 古今和歌集)

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