世の中を
ひな祭りの華やかなムードが、街のあちこちに滲む頃だった
スーパーの入口には桃色の装飾、和菓子屋には菱餅の広告。けれど原田の部屋だけは、季節の明るさから切り離されたように薄暗かった
原田は余命宣告を受けていた。医師の口から告げられた言葉は、日付のない死刑宣告のように胸に残り、息をするたびに重くのしかかる。夜は特にきつい。眠りに落ちれば、そのまま目が覚めないのではないかーーそんな恐怖が、布団の中で膨らんでいく
「……怖い」
声に出すと、ますます現実になる気がして、原田はいつも黙って耐えた
だが、沈黙は怖さを消さない。ただ濃くするだけだ
そこへ、孫の桃がやってきた。通学カバンを置くなり、いつもより静かな顔で祖父を見つめる
「お爺ちゃん、また…眠れてないでしょ」
「……そんなことはない」
嘘だった
もちろん桃にはお見通しらしい。桃は小さく息を吸い、スマホを差し出した
「これ、知ってる? 『金曜日に贈る和歌』っていうの。友達が教えてくれたの」
「和歌ぁ?」
原田は眉をひそめた。今さら歌なんぞ、何の役に立つというのだ。慰めの言葉ならもう散々聞いた。大丈夫、きっと楽になる、頑張りましょうーーどれも、耳に残るだけで心には届かなかった
「嫌だよ、そんなもん…」
桃は引かなかった。祖父の手を取って、体温を確かめるようにぎゅっと握る
「お爺ちゃん、怖いって言っていいよ。でも、怖いまま一人でいるのは、だめ」
原田は何も言い返せなかった。可愛い孫を残して死ぬ、その恐怖を、誰にも触れさせまいとしてきたのに、桃はまっすぐそこを見てくる
「……書くだけ、書いてみるか」
原田は渋々スマホを受け取り、ゆっくり文字を打った
“余命宣告を受けました。孫を残して死ぬのが怖いです”
送信ボタンを押した途端、胸が少しだけ痛んだ。怖いと文字にした瞬間、怖さが形を持った気がしたのだ
「…桃、これでいいのか」
「うん。お爺ちゃん、えらい」
「えらいって歳でもないだろ」
そう言いながら、原田はほんの少しだけ、息がしやすくなった気がした
――そして金曜日
薄桃色の封筒が届いた。桃は駆け寄り、原田の隣にちょこんと座る
「一緒に開けよう」
封筒は、ひな祭りの飾りみたいにやさしい色をしていた。原田は指先が震えるのを隠しながら封を切る。中から出てきたのは白い便箋。そこに濃いピンクのインクで、しっかりとした文字が並んでいた
世の中を思へばなべて散る花の
我が身をさてもいづちかもせむ
原田は声に出して読んだ。読み終える前に、喉がきゅっと縮む。無常、散る花、儚い、どこへ持っていけばいいのか……言葉が、原田の胸の底を正確に撫でてくる
最初に声を上げたのは、和歌の意味を調べていた桃だった
「そっか……私も、いつか死ぬのか……」
「お前がそんなことを言うんじゃない……!」
原田は思わず声を荒げた。桃が“死”を口にすることが怖かった。未来が縮む気がした。
桃は驚いた顔をしたが、すぐに目を伏せて、便箋を見つめた
「お爺ちゃん。この和歌の言う通りだよ。死は誰にでも来るんだから」
原田は言葉を失った
孫が、こんなに落ち着いた声でそんなことを言うなんて
桃は祖父の手の甲を、ぽん、と軽く叩いた
「だからさ。お爺ちゃんは天国で、ちゃんと待っててね」
「……ん?何をだ」
「私が、お土産話をたくさん持って、いつか天国に行くからさ」
原田はぽかんとした。頭の中に、勝手に桃が天国へ行ってしまう想像が浮かんで、慌てて振り払う
「すぐに来るんじゃないぞ。……300年後くらいに来なさい」
桃は目を丸くして、それから笑った
「300年って、妖怪じゃん〜!!」
桃は声を上げて笑い、原田もつられて笑ってしまった。笑うと胸が痛むのに、笑いが止まらない。便箋の濃いピンクが、妙に明るく見えた
原田は、和歌の最後の一行をもう一度、心の中でなぞった
――さてそれでは、この我が身をいったいどこへもっていったら良いのでしょう?
答えは書かれていない。けれど、桃の笑い声が答えの一部になった気がした。どこへ持っていくか分からなくても、今ここで、手を握って笑えるならーーそれだけで少し、怖さが薄まる
原田は桃の頭をそっと撫でた
「……お前な。長生きしろよ」
「うん。お爺ちゃんもね」
原田は頷き、窓の外の淡い光を見た。桃の節句の飾りのように、季節は変わっていく。散る花があるなら、咲く花もある。散るのが怖いなら、せめて咲いているうちに、もう少し見ていたい
(……もう少し、頑張ってみるか)
可愛い孫のために
そして、怖いと認めた自分のために
原田は便箋を丁寧に折り、胸の近くにしまった。薄桃色の封筒は、死の恐怖を消してはくれない。けれど、その恐怖の中に、小さな笑いの灯を点してくれたのだった
・和歌
世の中を思へばなべて散る花の
我が身をさてもいづちかもせむ
(新古今和歌集 西行)




