雛人形
ひな祭りが近づく金曜日、桜は押し入れから大きな箱を慎重に運び出した。畳に敷いた布の上に箱を置き、ふうっと息を吐く
蓋を開けると、柔らかな紙に包まれた雛人形たち。桜が生まれた時、祖父が買ってくれた親王飾りだ
小ぶりで可愛らしいのに、衣の重なりや顔立ちはキリリとしている。桜は指先でそっと包み紙をほどき、男雛、女雛を順番に座らせた
最後に立てかけるのは、金の屏風
そこには見事な桃の花が描かれている。金地に淡い桃色が浮かび、枝の線はキリッと美しい。屏風を立てた瞬間、部屋の空気がぱあっと明るくなった
桜はその桃を見つめ、ふいに懐かしい声を思い出す。祖父が、この季節になると決まって教えてくれた歌。意味まで含めて、胸の奥にしまってあった言葉が自然と唇からこぼれた
「あかざらば千代までかざせ桃の花花も変わらじ春も絶えねば……」
桃の花よ、いつまでも咲いていておくれ
花も変わらず、春が終わることもないのだから
「おじいちゃん、今年も飾ったよ」
小さく呟いて、桜は雛人形の向きを整える。2体の間にほんの少し余白を作り、屏風の桃がいちばん美しく見える角度にする
人形を飾り終えた桜は、しんみりしすぎる前に現実へ戻る。台所の方をちらりと見て、明るい声で言う
「さて、ひな祭りの日は……ちらし寿司と、蛤のお吸い物でも作ろうかな」
色気より食い気。そこが桜の良い所だ
桃の花の屏風に春をもらい、雛人形に守られて、今年もきっと元気に過ごす。桜はそんな風に気持ちを整えながら、次は何を買い足そうかと献立のことを考え始めるのだった
・和歌
あかざらば千代までかざせ桃の花
花も変わらじ春も絶えねば
(清原元輔 後拾遺和歌集)




