第9話
朝、店の扉が開く音がした。
いつもなら聞き流す音なのに、今日は耳に引っかかった。音が硬い。木が鳴るというより、何かが決まる前の音みたいに聞こえた。
「音に意味をつけ始めたら終わりだよな」
自分に言い聞かせて、起きる。
水を飲む。今日も水は裏切らない。
裏切らないものを一個ずつ数えているうちは、たぶん大丈夫だ。
外に出ると、空気は昨日と同じようで、昨日より少しだけ張っていた。人の視線が増えたわけじゃない。視線の“刺さり方”が変わっている。
「確認モード、継続中か」
市場の前を通ると、話している声が途切れた。途切れる回数が増えた。無関係なふりをするのは簡単だ。簡単なほど、面倒が後から来る。
商店の前に着くと、ミアが店の中にいた。今日は外に出ていない。店先の棚も、まだそのまま。扉の内側に立っている。
「おはよー」
カイルが声をかけると、ミアは一瞬だけ目を上げ、すぐに視線を戻した。
「おはようございます」
声は落ち着いている。
でも、視線が落ち着いていない。
「今日は中なんだ」
「……はい」
「眠い?」
冗談のつもりで言ったが、ミアは笑わなかった。笑わないこと自体が、答えだ。
「少し、話してもいいですか」
ミアが言った。
“話してもいい”と言う時点で、話はもう始まっている。
「うん」
カイルは軽く返す。
「暇だし」
ミアは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……そういう言い方しないでください」
「え、だめ?」
「だめです」
珍しく強い。
カイルは一瞬だけ黙ってから、肩をすくめた。
「じゃあ、ちゃんと聞く」
ミアは小さく息を吐いて、カウンターの内側から出てきた。いつもより半歩近い。近いのに、距離が遠い。
「昨日から……変なんです」
ミアが言う。
「何が?」
カイルは分かっていないふりをした。分かっているふりをしたくなかった。
「お客さんの目が」
ミアの言葉は、曖昧だけど正確だった。
「見方が、違う」
カイルは頷くだけにした。否定できない。
「私、何もしてないのに」
「うん」
「でも、何かしたみたいに」
ミアは言い切らずに止めた。止め方が、いつもより綺麗だった。言葉の選び方が丁寧すぎる。丁寧すぎるのは、怖いときだ。
「……街道の話、知ってますよね」
ミアが言う。
「うん。噂は」
「噂だけで、こんなになるんですね」
カイルは笑ってみせる。
「噂って便利だからね」
ミアは笑わない。
「便利だから、怖いです」
「そう」
そこで初めて、カイルは真正面からミアを見る。
ミアは目を逸らさなかった。逸らしたら、崩れると思ったのかもしれない。
「それで、話って?」
カイルが促すと、ミアは一瞬だけ唇を噛んだ。
「……お願いが、あります」
“お願い”の言い方が、店員の言い方じゃなかった。
「うん」
「街道まで、付いてきてほしいんです」
ミアが言った。
カイルは、一拍遅れて瞬きをした。
「街道?」
「はい」
「……なんで?」
カイルが聞くと、ミアは視線を落とした。落とした瞬間、背が小さく見えた。
「仕入れに行かないといけなくて」
「いつも誰かと行ってたっけ」
「……今日は、ちょっと」
“ちょっと”の中に、全部入っている。
「怖い?」
カイルが言うと、ミアは首を横に振る。
「怖くないって言ったら、嘘です」
正直だ。
「でも、それだけじゃなくて」
ミアは言い淀んだ。言うべきか迷っている顔。
カイルは急かさなかった。急かしたら、契約になる。
ミアは、意を決めたみたいに言った。
「今日、なるべく一人で外に出ないほうがいいって」
「誰かに?」
「常連さんに」
「常連さん、優しいね」
「優しいというか……」
ミアは言葉を探して、結局諦めた。
「……言い方が、怖かったです」
カイルは、軽く笑う。
「それは嫌だな」
ミアは頷いた。
「だから、お願いしたいんです」
「護衛?」
カイルが言うと、ミアは小さく首を振った。
「そんな大げさじゃなくて」
「でも、付いてきて、ってことは護衛だよ」
ミアは、少しだけ恥ずかしそうに視線をずらした。
「……そう、なります」
「うん」
カイルは短く返した。
短く返すほど、重くなる。重くなるのが嫌で、カイルは口調を軽くする。
「いいよ」
ミアが顔を上げた。
「え」
「付いてく」
カイルは、いつもの調子で言う。
「暇だし」
ミアがまた眉を寄せる。
「だから、その言い方」
「じゃあ、別の言い方する」
カイルは少し考えてから言った。
「ミアが困ってるなら、行く」
ミアは、何か言いかけて止めた。言いかけた言葉は、たぶん嬉しいとか安心とか、そういうのだ。言ってしまったら変わるから、飲み込んだ。
「……お金、払います」
ミアが言った。
そこだけ、声が小さくなる。
「護衛だもんね」
カイルは冗談っぽく返す。
ミアは首を横に振った。
「冗談じゃなくて」
「うん」
「でも、あんまり出せません」
ミアは言い切る前に、手をぎゅっと握った。
「今、余裕がなくて」
カイルは、そこで初めて全部が繋がった気がした。
ああ、そうか。
ミアは怖いから頼んでいるんじゃない。
怖いのに、生活が止められないから頼んでいる。
「……いくら?」
カイルが聞くと、ミアは小さく紙を差し出した。数字が書いてある。控えめすぎる数字。
カイルはそれを見て、思わず笑った。
「いや、安いな」
ミアが焦って言う。
「すみません。ほんとに、今——」
「違う違う」
カイルは手を振る。
「安いっていうか、
それで生活回るの?」
ミアは黙った。
黙った答えは、だいたい“回ってない”。
「あー……」
カイルは空を仰いだ。
「困ったな」
困っているのはミアだ。
カイルが困る権利はない。
「じゃあ、こうしよ」
カイルは紙をミアに返した。
「今日の分はそれでいい」
ミアが目を見開く。
「でも」
カイルは続ける。
「次からは、ちゃんと相談して」
「……え」
「金の話、隠して決めるの、よくない」
ミアは戸惑っている。戸惑っているのに、少しだけ頷きそうになっている。
「今の話」
カイルは声を落とす。
「街には言わないでいいよ」
ミアが固まった。
「え」
「二人だけで」
カイルは笑う。
「余計な人が入ると、
余計な話が増える」
ミアは数秒、黙った。
黙っている間に、店の外の音が少しだけ大きくなる。通りを歩く足音。誰かの笑い声。いつも通りの街が、いつも通りに聞こえない。
「……はい」
ミアが言った。
「二人だけの話で」
それを聞いた瞬間、カイルの中で何かが締まった。
契約は、言葉より先に成立する。
こういうのは、たぶん。
「じゃあ、決まり」
カイルは明るく言ってみせる。
「いつ出る?」
ミアは、少し迷ってから言う。
「昼前に」
「了解」
カイルは頷いた。
「昼前まで、俺は何してればいい?」
ミアは一瞬だけ困った顔をした。
「……いつも通りで、いいです」
「いつも通りかあ」
カイルは大げさにため息をつく。
「難易度高いな」
ミアが、初めて小さく笑った。
笑った瞬間だけ、店の空気が戻る。
戻る瞬間があるうちは、まだ大丈夫だと思えた。
昼前。
店の前で待っていると、ミアが小さな袋を持って出てきた。いつもより控えめな服。動きが硬い。
「準備できた?」
カイルが聞くと、ミアは頷いた。
「はい」
「行こっか」
カイルが歩き出すと、ミアが半歩遅れてついてくる。その半歩が、昨日までと違う。
「……カイルさん」
ミアが呼ぶ。
「ん?」
「本当に、すみません」
「謝ること?」
「迷惑、ですよね」
カイルは笑った。
「迷惑なら、受けない」
そう言って、前を見た。
「俺は、暇だから受けたんじゃない」
ミアが小さく息を止めるのが分かった。
カイルは続ける。
「……まあ、暇でもあるけど」
「もう」
ミアが呆れたみたいに言う。
その声が、少しだけ軽くなった。
街道へ向かう道の途中、視線が増える。
誰も声をかけない。
ただ、見る。
「見物かな」
カイルは軽く言ってみせる。
ミアは言わなかった。
見物じゃない。確認だ。
それをミアも分かっている顔をしていた。
街を出る門が見える。
外の空気が変わる。
「ねえ」
カイルが言う。
「怖かったら、戻っていいよ」
ミアは首を横に振った。
「戻れないので」
短い。硬い。
カイルはそれ以上言わない。
言わない代わりに、歩く速度を少し落とした。ミアが遅れないように。
門をくぐる。
街の音が遠ざかる。
「さて」
カイルは、いつもの口癖を出す。
「あー、暇だぁ」
言った瞬間、ミアが少しだけ笑った。
でもその笑いは、
外の空気に吸われて消えた。
街道は、静かだった。
静かすぎる。
鳥の声が少ない。草の揺れが少ない。
風がないわけじゃないのに、音が薄い。
「……」
カイルは、何も言わない。
言ってしまうと、意味が付く。
意味が付いたら、もう戻れない。
ミアが小さく息を吐く。
「やっぱり、変です」
ミアが言った。
「何が?」
カイルが聞くと、ミアは目を細めた。
「静かすぎます」
「そうだね」
カイルは、軽く言う。
「暇そう」
ミアが横目で見る。
「その言い方、やめてください」
「はは」
笑ってみせる。
笑いが乾いているのが、自分でも分かった。
道の先に、何かがある。
まだ形は見えない。
でも、空気の密度が違う。
「……ミア」
カイルが言う。
「はい」
「俺の後ろに」
ミアは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに頷いた。
「分かりました」
二人だけの契約が、ここで初めて形になる。
カイルは、前に出る。
足音を立てないように。
立てても意味がないが、癖だ。
草むらが揺れた。
次の瞬間。
道の先の影が、こちらを見た。
大きさが違う。
気配が違う。
普通の魔物の“雑さ”がない。
「……あ」
カイルは、喉の奥でだけ声を出した。
「本命だ」
ミアが息を呑む音がした。
そこで、カイルは笑った。
笑うしかなかった。
「あー……」
いつもの言葉を出す。
「暇じゃなくなった」




