第5話
朝。
目が覚めた瞬間、思った。
今日も特に用事がない。
これは悪いことじゃない。用事がない日は、失敗もしない。失敗しない日は、説明もしなくていい。説明しなくていい人生は、かなり楽だ。
天井を見たまま、少しだけ考える。
「……もう一回寝ても、誰にも怒られない気がする」
怒られない気がするだけで、寝ない。寝たら夜に響く。夜に響くと、また暇になる。もう十分暇だ。
起きる。靴に足を突っ込む。紐は結ばない。結ぶほど遠くへ行かない。
水を飲む。
「水ってさ、
裏切らないから好きなんだよな」
独り言に意味はない。意味がないから、ちょうどいい。
残っていたパンをかじる。昨日より固い。昨日も固かった。つまり平常運転。
外に出る。
空は曇り。晴れでも雨でもない。こういう日は、人の顔もどっちつかずになる。笑うほどでもないし、沈むほどでもない。ちょうどいい。
歩き出すと、街の空気に昨日の話がまだ残っているのが分かる。
街道の先。
魔物。
結果が変。
血が少ない。
誰も見てない。
「見てないのに、
みんな詳しいよなあ」
誰に言うでもなく、言う。
「見てないって言葉、
便利すぎない?」
市場の脇は声が大きい。怖い怖いと言いながら、声がでかい。怖いなら、もうちょっと小声でいいと思う。
路地に入ると静かになる。静かだと、逆に自分の独り言が目立つ気がする。
「静かすぎると、
俺が一番うるさい説あるな」
誰もいない。問題なし。
少し開けた場所で立ち止まり、地面を見る。石と土。昨日と同じ。
「今日も異常なし。
異常がないのが異常だったら、
それはそれで面倒だな」
考えても意味がない。戻る。
商店の前に着くと、ちょうど扉が開くところだった。鈴が鳴る。
「おはようございます」
中から声。
「おはよー」
間延びした返事。朝はこれでいい。
店に入った瞬間、少しだけ空気が変わった。
音が消えたわけじゃない。静かになったわけでもない。ただ、視線の向きが揃う。
棚を見るふりをして、実際にはカウンターの方を見ている客がいる。目が合わない位置を、やけに正確に選んでいる。
ああ、なるほど。
視線を集める側の人間だ。
ミアは、カウンターの内側に立っていた。
黒髪は肩の少し下までで、艶がある。
きちんと整えているというより、触られても平気そうな柔らかさで、
光が当たると細く反射する。
目ははっきり大きい。
丸すぎないのに、形が素直で、
黒目がちだからか、正面から見ると少し幼く見える。
視線が合うと、無意識に目を逸らしたくなるタイプだ。
鼻筋はすっとしていて、
口元は常に柔らかく、笑うと一気に印象が変わる。
作った笑顔じゃない。
たぶん、考える前に表情が出る人間だ。
背は低い。
カウンター越しだと余計に小さく見えて、
動くたびに視線が少し下に引っ張られる。
体つきは細くて、無駄がない。
店員用の簡素な服を着ているのに、
不思議と“制服に着られている感じ”がしない。
全部、自分の輪郭に収まっている。
……正直に言うと。
かわいい。
理屈抜きで、かわいい部類の人間だ。
でも本人は、それをまるで分かっていない。
視線を向けられている自覚がなくて、
近づかれる距離感も、少しだけ近い。
商品を取るために身を伸ばしたとき、
袖が少しずれて、手首が見えた。
細くて白くて、動きがやけに丁寧だ。
ああ、これ。
放っておいたら、勝手に好かれるやつだ。
自覚した瞬間に、
今の全部が壊れるタイプの。
だから、気づいてないままでいるんだろう。
商品を取るために少し身を伸ばしたとき、指先まで動きが丁寧で、雑音が一つも混じらない。
……ああ。
これ、自覚した瞬間に全部壊れるやつだ。
だから、たぶん気づいてないんだろう。
「今日は何にします?」
そう聞かれて、少しだけ返事が遅れた。
理由は単純で、今話しかけられたのが自分だったからだ。
「水と、パン」
「はい」
声はいつも通りだ。変な色気も、気取った感じもない。その普通さが、逆に落ち着かない。
「今日は早いですね」
「暇すぎて、
時間が余った」
「時間って余るんですか」
「余るよ。
使い道決めてないと」
「それ、ただの先延ばしじゃないですか」
「先延ばしは未来の俺への丸投げだからね。
信頼してる証拠」
「迷惑です」
「未来の俺もそう言ってた」
包みを受け取り、会計を済ませる。
外から声が入ってくる。
「昨日のやつ、結果だけだったらしい」
「血が少ないって」
「誰も見てないって」
「見てない人、
全員専門家になるやつだな」
小さく言う。
「何か言いました?」
「独り言。
外に漏れただけ」
「危ないですね」
「危なそうな独り言ほど、
中身ないから大丈夫」
外に出ると、今日は少し視線が多い。理由は分かる。昨日の話が残っているからだ。
「俺、そんなに面白い顔してるかな」
していない。普通だ。だから見られる。
冒険者っぽい二人組とすれ違う。
「早すぎる」
「誰がやったんだ」
「分からないのが一番厄介だ」
「厄介って言葉、
便利すぎない?」
肩を引いて、ぶつからないようにする。ぶつからなければ、話は始まらない。
木陰でパンを食べる。
「今日も固いな。
俺の人生みたいだ」
別に困ってない。噛めるし、飲み込める。
夕方、また商店の前を通る。忙しそうだ。手伝わない。手伝ったら、期待される。期待は、面倒だ。
帰り道、足を止める。
「あー……」
言ってみる。
「暇だぁ」
ここまで暇だと、逆に何か起きそうで怖いけど、起きない。起きない方がいい。
部屋に戻り、水を飲む。少し多めに。
「今日も、
何もなかったな」
何もなかった、という事実を確認する。
外で何が起きていても、今日の自分はこれで終わりだ。
「まあ、
明日も似たようなもんでしょ」
目を閉じる。
静かな夜は、考えなくていい。
考えなくていいから、眠れる。
カイルは、そのまま眠りに落ちた。




