第4話
朝は、いつも通りに始まった。
ミアは店の前を掃き、看板を出し、扉を開ける。鈴が鳴るのを確かめて、棚の角を指でなぞって、ずれた品を直す。誰に見せるためでもない。やり終えていると落ち着くから、やる。
「おはようございます」
最初の客は、返事をしながら入ってきた。小麦粉と塩。次に来たのは、乾いた薬草。幼い子を連れた母親は、目当ての飴を指さして、子どもに小さく頷く。ミアはそれを受け取って、袋を渡す。よくある、いつもの流れ。
話題も、いつもと同じだ。
天気。税。隣町の値段。
それから、どうでもいい噂。
「最近、また歌ってるな」
常連の男が、パンを選びながら言った。
「歌、ですか?」
「ほら、外の子ども。英雄の歌」
ミアは通りの方を一度だけ見た。遠くで声が重なる。旋律は崩れていて、歌詞も曖昧だ。そこに意味を探すほど、ミアは暇ではない。
「名前だけは覚えたけどな」
「何の名前ですか?」
「ノクス。だったか」
「そうなんですね」
ミアはそれ以上、続けなかった。歌は歌で、今日の買い物とは関係がない。棚を整えて、袋を重ね、次の客に目を向ける。
昼前。店の中の光が少し強くなった頃、街の入口の方が騒がしくなった。
大騒ぎというほどではない。叫び声もない。ただ、人の声が増え、足音が重なり、立ち止まる背中が増える。視線の向きが揃うと、空気が少しだけ濃くなる。ミアの店にも、その濃さが流れてきた。
「外で、って」
「もう片づいたらしい」
「早すぎないか?」
言葉の断片だけが、扉の隙間から入ってくる。何が起きたのかを言い切る者はいない。言い切れるほど見た者がいないのだろう。
ミアは手を止めずに、耳だけをそちらに向けた。仕事をしながら聞く程度でいい。そういう種類の騒ぎだと、体が判断している。
それでも、客の数が妙に減った。入ってきても、すぐに出ていく。買うものを決める前に、外の方を気にしている。平和な街でも、人は外の出来事に引き寄せられる。見に行かなくても、聞きたい。
「何かあったんですか?」
ミアが問うと、入ってきた男は、返事の前に一度だけ口を閉じた。
「……街道の先で魔物だって」
「魔物」
「うん。出たらしい。けど……」
けど、の後が続かなかった。言えるほど知らないのだろう。知らないことを無理に言う人間は、この街には少ない。そういう意味では住みやすい。
「討伐依頼が出る前に終わったって」
「終わったんですか?」
「らしい」
終わったのなら、危険は遠ざかっている。そう考えると、店の空気も少し軽くなる。だが、軽くなりきらない部分が残る。早すぎる。誰が。どうやって。そこだけが空白になる。
ミアはその空白を埋めようとしなかった。埋めても、自分の生活は変わらない。知らなくても、今日のパンは焼ける。
鈴が鳴った。
少し遅れて、男が店に入ってきた。背負い袋は軽く、服装は地味だ。旅人に見えるが、旅人ほど疲れていない。疲れがないというより、焦りがない。街の入口が騒がしくても、店の中で立ち止まる場所はいつもと同じだ。
「こんにちは」
ミアは顔を上げる。
「こんにちは」
声が、ほんのわずかに柔らかくなる。自分では気づいていない。気づかない程度の差だが、店にいる常連は気づく。口にしないだけで。
「今日は何にします?」
「水。あと、パン」
「はい」
ミアは棚に向かう。歩く距離は短い。取る品も決まっている。なのに、いつもより手が少し早い。外が気になるからだろう、とミアは思わなかった。そういう言い訳を自分にする癖がない。
包む手つきは静かで、紙が鳴る音も抑えられている。ミアはそういう動作を自然にやる。誰かが見ていると思っているわけではない。そうした方が、店の中が落ち着くからだ。
「外、なんかあった?」
ミアが包みを差し出しながら、聞いた。
男は受け取り、軽く頷く。
「さっき、少しだけ」
「魔物って言ってました」
「らしいね」
答えは短い。深掘りする気配がない。ミアも続けて問わなかった。店の中で会話を伸ばしすぎると、客が減る。必要なことだけを交換して、終える。そういう生活が、ここでは普通だ。
それでも、ミアは外を一度だけ見た。扉の向こうで、人の影が動いている。騒ぎは続いている。終わったはずなのに、人が集まっている。それが少し不思議だった。
男はパンの包みを持ったまま、店の隅の棚を眺めた。買うものを増やすわけでもない。ただ見ている。視線の落とし方が、店の中を乱さない。何かを探しているのではなく、そこにあるものを確認しているような見方だ。
常連の男が、横から声をかけた。
「おい、カイル」
呼ばれた男は、振り向く。驚きも、気負いもない。
「うん?」
「お前、外、見たか」
「見てない」
「そりゃそうだよな」
常連は笑った。笑うが、目は外の方を気にしている。
「早かったらしいぞ」
「何が?」
「魔物のやつ。討伐依頼出る前に終わったってさ」
「へえ」
返事はそれだけ。驚きが薄い。薄いというより、反応が過剰にならない。興味がないのか、興味を出さないのかは分からない。
ミアは、そのやり取りを聞きながら、会計を済ませる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
男は店を出ていく。背中は特別に大きくない。肩幅も、街の男と比べて少し広い程度だ。歩き方も普通。早足ではない。なのに、見送る視線が一つ、二つと生まれる。理由は言葉にならない。言葉にならないから、視線になる。
男が出ていった直後、別の客が入ってきた。息が少し上がっている。走ってきたのだろう。店の中に入ってからも、呼吸の熱が残っている。
「聞いた?」
「何をですか?」
ミアは落ち着いた声で返す。店の中では、熱を持ち込みすぎない方がいい。
「外だよ、外。魔物。街道の先。結果が変なんだ」
結果という言い方が、妙に具体的だった。話が盛られているのではなく、何か見た者がいる。そういう種類の言葉だった。
「変、ですか」
「うん。血が少ない」
ミアはそれを聞いて、一瞬だけ指を止めた。
「血が」
「魔物が死んでるのに、血が少ない。切られた感じも薄い。なのに、死んでる」
言葉が追いついていない。見た光景の説明が、口の中で散らばっている。
「誰がやったか分からないって」
「誰も見てないんですか?」
「見てない。近くにいた衛兵も、気づいた時にはもう……って」
ミアは頷いた。頷くしかない。自分がその場にいない以上、確かめようがない。
「怖いよな」
客はそれを怖いと言った。怖さの種類は、魔物の強さではない。分からないことの怖さだ。見えない手で片づけられた結果だけが残る。そこに、気味が悪いと感じる。
ミアは、気味悪さを言葉にしなかった。代わりに、袋に品を入れ、渡す。
「気をつけてくださいね」
そう言うと、客は一瞬だけ救われた顔をした。自分が何をすればいいかが分からないとき、人は「気をつけて」と言われると、やることが生まれる。気をつける。それだけでも、足場になる。
客が出ていくと、店はまた静かになった。静かになるが、外の騒ぎは続いている。終わったはずのことが、終わっていない。
ミアは、その違和感を胸の奥に置いたまま、手を動かし続けた。
昼を過ぎた頃、常連が戻ってきた。顔色が少し変わっている。興奮というより、胃の辺りが重いような顔だ。
「見てきた」
店に入ってきて、開口一番そう言った。
「どうでした?」
「……変だった」
同じ言葉が戻ってくる。変。説明が追いつかないとき、人はそれを変と呼ぶ。
「死んでた」
「魔物が?」
「うん。死んでた。けど……」
常連は口を閉じて、もう一度開く。何か言い直すように、言葉を選び直す。
「……倒したって感じじゃないんだよ」
「倒したって感じじゃない」
「折れたみたいな」
折れた。ミアの頭に浮かぶのは、乾いた枝だ。枝は折れると、ぱき、と音がする。血は出ない。魔物が折れるのは、イメージとしては合わない。だから、常連もそこで言葉が止まる。
「骨、みたいな音がしたって言うやつもいた」
ミアは頷いた。音。音なら、まだ分かる。見えないものでも、音は残る。だが、音だけでは誰がやったかは分からない。
「誰が?」
ミアが尋ねると、常連は首を横に振った。
「知らねえ。見てねえ」
「冒険者は?」
「向かう前に終わった」
「衛兵は?」
「間に合ってねえ」
終わった。間に合っていない。そういう言葉が積み重なる。結果だけが先にある。原因は遅れて、まだ到着しない。原因が到着しないまま、日常だけが続く。
ミアは、常連に水を渡した。常連はそれを一口飲んで、少し落ち着いた。
「怖いか?」
常連が聞いてきた。
ミアはすぐに答えなかった。怖いという言葉が、自分の中でどこに当たるかを確かめた。魔物は怖い。魔物のせいで人が死ぬのは怖い。それは分かる。
でも、今回の怖さは、別だ。
「……よく分からないのが、ちょっと」
ミアはそう答えた。言い切らない。言い切れるほどの確信はない。けれど、よく分からないという感覚は、本当だ。
「そうだよな」
常連はそれで納得したように頷いた。
「まあ、終わったならいいんだけどよ」
終わったならいい。そう言いながら、外を一度だけ見た。いいと言い切れない顔だ。いいと言い切れないものが残っている。
夕方になって、騒ぎはようやく薄れた。人の背中が散り始める。話題が別のものに移る。移るが、完全に消えるわけではない。消える前の、薄い膜のようなものが街に残る。
ミアは店じまいの準備をする。帳簿をつけ、棚を拭き、床を掃く。いつもと同じ動作を、いつもより丁寧にやった。理由は分からない。分からないが、そうした方が落ち着いた。
扉を閉める直前、鈴が鳴った。
少し遅れて、男が入ってくる。
「まだ開いてる?」
「もう閉めますけど」
ミアはそう言いながらも、扉を少しだけ開けてやる。閉めてしまってもいい時間だ。けれど、そうしなかった。
男は店に入って、軽く息を吐いた。
「外、落ち着いた?」
「さっきよりは」
「そっか」
それだけ。さっきよりは、という曖昧な言い方に、男は何も突っ込まない。ミアもそれ以上説明しない。説明しようとしても、説明できるほど見ていない。
「水、ある?」
「あります」
ミアは水を取る。男に渡す。男は一口飲んで、瓶を戻した。
「……変な一日でしたね」
ミアが言うと、男は少し考えてから頷いた。
「まあ」
「魔物が死んでたって」
「らしいね」
「見に行ったんですか?」
「行ってない」
言い方は淡い。嘘をつく必要もない。行っていないなら、行っていない。ミアはそれを受け取った。
「みんな、怖いって言ってました」
「怖い、ね」
男はその言葉を繰り返すだけで、評価しなかった。怖いと言う人間がいることを、ただ確認する。そういう態度だった。
ミアは、男の横顔を見た。横顔は穏やかだ。穏やかな顔でいることに努力している気配もない。穏やかだから穏やかに見える。それだけだ。
「……こういうの、時々あるんですか?」
ミアは聞いた。自分でも、なぜ聞いたのか分からない。聞いた瞬間に、質問の形が少しだけ遠回りだと気づく。ミアが知りたいのは、こういうことが起きる世界なのか、ということではない。こういうことが起きるとき、自分はどうすればいいのかだ。
男は答えを急がなかった。すぐ答える方が嘘になる問いもある。そういう問いだと、ミアも分かっている。
「……あるんじゃない」
男はそう言った。断言しない。否定もしない。ただ、あるかもしれないという範囲に置く。
「じゃあ、慣れるしかないですか」
ミアが言うと、男は少しだけ口の端を上げた。笑うほどではない。微かな変化。
「慣れるっていうか」
言いかけて、止める。止めることで、余計な言葉を捨てる。ミアはそれを見て、何も言わなかった。言いかけて止めた言葉を、無理に引き出すのは違う。
「また明日」
男はそう言って、店を出ていった。
「はい」
ミアは扉を閉め、鍵をかける。鍵をかける音が小さく響く。夜の始まりは、音がはっきり聞こえる。
帰り道、ミアは少し遠回りをした。街道の入口の方まで行くわけではない。近づきすぎない。ただ、外の空気を一度だけ吸って、戻る。
街は平和だった。街灯が灯り、犬が歩き、子どもが母親に手を引かれて帰っている。そこに魔物の死体はない。さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、今は静かだ。
それでも、ミアの耳には昼の言葉が残っている。
血が少ない。
折れたみたい。
誰も見ていない。
見ていない、というのが一番引っかかる。見ていないのに、結果だけがある。結果があるのに、原因が見えない。そういう世界は、少しだけ息がしづらい。
夜、ミアは布団に入っても、すぐ眠れなかった。明日の仕込みを思い出して、頭の中で手順を確認する。小麦粉。塩。水。火。いつものもの。いつもの順番。いつもの味。
それを繰り返していると、心が少し落ち着く。
いつの間にか、眠りの縁に近づいている。そこに、昼の声がもう一度よぎる。英雄の歌。ノクス。名前だけが残る。名前だけ。結果だけ。
ミアは目を閉じて、そこから先を考えないようにした。考えても、答えは出ない。出ない答えを追いかけるのは、明日の仕事の邪魔になる。
街外れの道を、一人の男が歩いていた。
夜風は冷たく、歩くたびに靴の裏が乾いた音を立てる。誰もいない。誰もいない道は、余計な話題を持ち込まないから好きだ。
男は小さく息を吐いた。
「あー……」
それから、いつもの言葉を落とす。
「暇だぁ」
言葉は夜に溶ける。
今日、街道で何があったのか。
誰が何をしたのか。
それを語る者はいない。
語らない者もいる。
語る必要がない者もいる。
街は、明日も同じように始まるだろう。
扉が開き、鈴が鳴り、必要なものが売れていく。
外で起きたことは、外に置かれる。
そうやって日常は保たれる。
ミアは、まだそれを知らない。




