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第3話

名前は、ただそこにあった


朝の商店は、相変わらず静かだった。


扉が開いて鈴が鳴り、

必要なものを買いに来た人が、必要な分だけ店にいる。

長居をする理由はないし、急ぐ必要もない。


ミアは棚の前で商品を整えながら、いつも通り声をかける。


「おはようございます」


返事は短い。

それで十分だった。


常連の一人が、パンを選びながら言った。


「最近、子どもがよく歌ってるな」


「歌、ですか?」


「ほら、英雄のやつ」


ミアは通りの方を一度だけ見た。


子どもたちの声が、遠くで聞こえる。

調子外れで、歌詞も曖昧だ。


「名前だけは覚えたんだけどな」

「ノクス、だったか」


「そうなんですね」


ミアはそれ以上、何も言わなかった。

理由を考える必要もなかった。


昼前、鈴が鳴った。


少し遅れて、男が店に入ってくる。

背負い袋は軽く、服装は地味だ。


「こんにちは」


「こんにちは」


ミアは顔を上げる。

声の調子が、ほんのわずかに変わった。


本人は気づいていない。


「今日は何にします?」


「水と、パン一つ」


「はい」


ミアが棚に向かうと、近くにいた客が男の方を見た。


「そういえば、名前、聞いてなかったな」


男は一瞬だけ黙る。

考え込むほどではない、短い間。


「……カイル」


小さく答えた。


「カイルか」


客はそれを繰り返し、特に意味もなく頷いた。


「覚えやすいな」


それで話は終わった。


名前は、それ以上の意味を持たなかった。


ミアは包みを差し出しながら、そのやり取りを聞いていた。

聞いてはいたが、心に引っかかることはなかった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


それだけだ。


店の外で、また声がする。


「昨日の歌、続き知ってるか」

「知らない」

「英雄ノクスがどうとか、そんなやつだろ」


「まあ、流行りだな」


ミアは聞き流した。

カウンターを拭き、次の客を迎える準備をする。


夕方、店じまいの時間になると、通りは少し静かになる。


戸を閉めようとしたとき、通りの端に男の姿があった。


「もう閉めるんですか?」


「はい」


「手、貸そうか」


「大丈夫です」


ミアはそう言って、少しだけ動きを早めた。

理由は分からない。


鍵をかけ、戸を閉める。


「また明日」


「はい」


カイルは歩き出す。


背中は、特別なものには見えなかった。

大きくもなく、頼もしそうでもない。


それでも、ミアは一瞬だけ、その背を目で追った。


夜。


酒場の方から、笑い声が漏れてくる。

何を話しているのかは、分からない。


知ろうとも思わなかった。


街の外れを、一人の男が歩く。


「あー……」


小さく息を吐く。


「暇だぁ」


日常は変わらない。

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