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第11話

朝の準備は、いつもと同じだった。


棚を拭いて、布を直して、扉を開ける。

同じ順番。同じ動作。

体は何も間違えていないのに、感覚だけが少し遅れてついてくる。


音が、気になった。


街はちゃんと音を立てている。

荷車のきしみ、誰かの呼び声、遠くの笑い声。

それなのに、全部が一枚薄い布の向こう側にあるみたいだった。


「……」


ミアは、無意識に店の外を見る。


誰かを待っているわけじゃない。

来る約束もない。

それでも、通りの向こうを確認してしまう。


視線を戻して、深く息を吸う。


昨日のことを思い出さないように、と思うと、

余計に思い出す。


街道の静けさ。

音が消えた瞬間。

そして――


背中。


目の前にあった、カイルの背中。


大きくも、特別でもない。

でも、あのとき確かに、世界の中心にあった。


「……だめ」


小さく呟いて、首を振る。


今日は普通の日だ。

昨日は終わった。

仕入れも終わった。

契約も、ちゃんと果たされた。


なのに。


棚の前に立つと、手が止まる。

値札の位置を直そうとして、同じ場所を二度触る。


「ミアちゃん?」


常連の声に、はっとする。


「はい、いらっしゃいませ」


声はちゃんと出た。

笑顔も作れた。


「今日は静かだね」


「そうですね」


返事をしながら、また店の外を見てしまう。


来る理由なんて、ない。

それなのに、いないと落ち着かない。


この感覚に、名前をつけるのが怖かった。


感謝だと思おうとした。

助けてもらったから。

一緒にいてもらったから。


でも、感謝なら、

こんなふうに何度も思い出したりしない。


安心だとも思った。

隣にいると、呼吸が楽だったから。


でも、安心なら、

こんなふうに胸の奥がざわついたりしない。


「……」


ミアは、昨日の自分を思い出す。


足が震えて、声が出なくなって、

それでも歩けた理由。


強かったからじゃない。

優しかったからでもない。


前に立っていたからだ。


それだけ。


「何をされたか」じゃない。

「どこにいたか」。


それを思い出した瞬間、

胸の奥が、きゅっと縮む。


「ミアちゃん、これある?」


別の常連に声をかけられて、

ミアは慌てて振り向いた。


「あります、少しお待ちください」


体は動く。

仕事はできる。

でも、視線だけが、また外へ行く。


通りを歩く人影を見るたび、

一瞬だけ期待してしまう。


違う、と分かっているのに。


「……変だ」


自分に向かって、小さく言う。


昨日と今日で、

世界がそんなに変わるはずがない。


変わったのは、たぶん自分だ。


昼前、店が少し落ち着いたころ。


向かいの店の人が、顔を出した。


「ミアちゃん、昨日さ」


心臓が、ほんの少し跳ねる。


「はい」


「街道の帰り、あの人と一緒だったよね」


一瞬、言葉が出なかった。


「あ……はい」


否定が、浮かばない。


「仲いいんだね」


その一言に、

胸の奥が、また縮む。


「ち、違……」


言いかけて、止めた。


違う、と言う理由が見つからなかった。


仲がいい。

その言葉を、頭の中で転がす。


嫌じゃない。

むしろ、少しだけ――


「……お世話になってるだけです」


ようやく出た言葉は、

言い訳にもならないくらい弱かった。


相手は深く追及せず、笑って去っていく。


ミアは、その場に立ち尽くした。


言い訳が出なかった。

それが、答えだった。


午後。


扉の外で、足音が止まる。


その瞬間、

胸が反射的に高鳴った。


扉が開く。


「やっほ」


聞き慣れた、間の抜けた声。


「暇だぁ」


カイルだった。


「……」


言葉が、一瞬遅れる。


昨日と同じ人。

同じ服。

同じ声。


なのに。


「い、いらっしゃいませ」


声が、少しだけ高くなる。


カイルは気づいた様子もなく、店内を見回す。


「今日は静か?」


「え、ええ」


視線が、合う。


昨日と同じ距離なのに、

同じ距離じゃない。


胸の奥が、落ち着かない。


「昨日さ」


カイルが、軽く言う。


「無事だった?」


たったそれだけの言葉なのに、

一気に昨日の空気が戻ってくる。


「……はい」


ミアは、小さく頷く。


「カイルさんは」


「ん?」


「……その、普通でしたか」


変な聞き方だと思った。

でも、他に言いようがなかった。


カイルは少し考えてから、肩をすくめる。


「まあ、いつも通りかな」


いつも通り。


その言葉に、

なぜか安心する。


「そっか」


ミアは、少しだけ笑った。


その笑顔は、

昨日までとは違う。


カイルは気づいていない。

気づかなくていい。


「じゃあ、俺はこのへんで」


いつも通り、帰ろうとする。


その背中を見た瞬間、

ミアの口が、勝手に動いた。


「……あの」


カイルが振り返る。


「なに?」


「……今日は」


言葉が詰まる。


理由をつけようとすると、

全部嘘になる気がした。


だから、正直に言う。


「今日は、ここにいてくれませんか」


一瞬、沈黙。


カイルは驚いた顔をした。

でも、すぐにいつもの表情に戻る。


「いいよ」


即答だった。


理由も、条件もない。


「暇だし」


ミアは、思わず苦笑する。


「もう、その言い方」


「え、だめ?」


「……だめじゃないです」


カイルは店の隅に腰を下ろす。


そこにいるだけ。

何もしない。


それなのに、

胸のざわつきが、少しだけ静まる。


ミアは気づいた。


昨日、街道で感じた安心と、

今、この店で感じている安心は、

同じものだ。


場所が違っても、

同じ人が隣にいる。


それだけで。


「……」


ミアは、カイルを見る。


視線が、前より長く留まる。


怖かったからじゃない。

助けてもらったからでもない。


この人と一緒にいる時間が、

もう特別になってしまった。


その事実が、

はっきりと分かった。


でも、名前はまだつけない。


つけなくても、分かる。


この感情は、

もう戻らない。


ミアは、そっと息を吐いた。


店の中で、日常の音が鳴る。


その中に、

確かに、カイルがいる。


それで、十分だった。

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