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第10話

街を出た瞬間、音が薄くなった。


遠くで荷車が軋むはずの場所はもう見えない。人の声も、看板を叩く風も、全部が背中に置いていかれる。街道はいつだってそうだ。境目があるわけじゃないのに、越えると世界が別の顔をする。


カイルは歩きながら、呼吸の深さをいつも通りに整えた。深く吸って落ち着くとか、浅くして気配を探るとか、そういう大げさなことはしない。大げさなことをすると、ミアの不安がそこに乗る。乗ったら、倍になる。


後ろで、ミアの足音が少し遅れた。


カイルは振り返らずに歩幅を落とす。半歩だけ。ミアが「追いつかなきゃ」と思わないくらいの差にする。追いつかなきゃ、と思うと呼吸が乱れる。呼吸が乱れると、怖さに名前がつく。


「……やっぱり」


ミアの声が落ちた。


「変ですよね」


「そう?」


カイルは軽く返した。


「ただの道に見えるけど」


嘘ではなかった。道は道だ。土と草と、たまに石。それだけのはずだ。なのに今日は、道が“何かを隠している顔”をしている。隠すのは人間だけじゃない。世界も隠す。


ミアは、それ以上言わなかった。言い切ったら戻れない気がしたんだろう。戻れないのは当たり前だ。生活ってやつは、いつもそうだ。


しばらく歩く。


風はある。でも葉の音が薄い。鳥の声もない。静かというより、音が“発生していない”みたいだ。


「……カイルさん」


ミアが言った。


「前、歩いてもらっていいですか」


お願いの形はしていたけど、半分は命令に近い。命令の方がいい。ミアが自分で距離を決める。頼まれて前に出る。それで、ミアの怖さが少しだけ整理される。


「了解」


カイルは前に出た。背中がミアの視界に入る位置。手を伸ばせば届く距離より、ほんの少し遠い距離。近すぎると逆に怖い。遠すぎると意味がない。


ミアの足音が整う。


“隣にいる安心”ってやつは、たぶんこういうことだ。抱きしめるとか、励ますとかじゃない。配置だ。距離だ。音だ。安心は言葉より先に身体で決まる。


また少し歩く。


草が揺れた。


カイルは足を止めない。止めたら、ミアが止まる。ミアが止まったら、世界が止まる。止まった世界は、だいたい良くない。


草が、もう一度揺れた。


揺れ方が、風じゃない。


「……一人だったら」


ミアがぽつりと言った。


「たぶん、戻ってました」


カイルは少しだけ笑った。


「正解だと思う」


ミアが驚いた顔をした。自分が弱いと言ったのに、褒められたみたいな顔。


「え」


「戻る判断できる人は長生きする」


それ以上は言わない。言えば、怖さの輪郭が太くなる。太くなった輪郭は、後でずっと残る。


空気が、ずれた。


音が消えたわけじゃない。視界が暗くなったわけでもない。ただ、次の瞬間、位置が違っていた。歩いていたのに、歩いた記憶が一拍抜け落ちた感じ。


ミアの足音が止まる。


カイルも、止めた。


止めたのは初めてだった。止めた方がいいと身体が判断した。身体の判断が先に来たときは、正しいことが多い。


道の先に、それがいた。


最初は、距離感が狂った。

近いのか、遠いのか分からない。


視界に収まっているのに、

全体を把握できない。


大きい。


人間二人分、なんて比較は意味を持たない。

高さだけで言えば、街道脇の低い木と同じくらい。

横幅は、荷車を二台並べても足りない。


それなのに、無駄がない。


脂肪はなく、筋肉だけで形を保っている。

皮膚は硬そうではないのに、柔らかくも見えない。

生き物というより、用途のために組まれた構造物みたいだった。


脚は四本。

だが配置が歪んでいる。


前脚は地面を掴むための形。

後脚は跳ぶための形。

それぞれが、別の生き物の脚を無理やり繋いだみたいに役割だけを主張している。


首は、異様に短い。

頭が胴体に埋まっているように見える。


そのせいで、顔の位置が分からない。


――見られているのかどうか、判断できない。


それが一番、怖かった。


牙のようなものが口元から覗いているが、

咀嚼のためというより、

噛み砕くことしか想定していない形をしている。


爪は長い。

だが鋭さより、重さを感じさせる。


一撃で斬るためじゃない。

捕まえて、逃がさないための爪だ。


それは、構えていた。


跳ぶ直前の姿勢。

筋肉が張り、重心が完全に前にある。


次の瞬間に来るはずの暴力が、

すでに確定している姿勢。


なのに――


動いていない。


息をしていない。

胸も、腹も、上下していない。


唸り声も、鼻息もない。


それでも、

「襲われる」という予感だけが、

空気に張り付いたまま消えていなかった。


ミアは、自分が呼吸を止めていることに気づかなかった。

気づいたのは、肺が限界まで苦しくなってからだ。


――生きている。

そう見える。


でも、生きている“気配”がない。


死体、という言葉が浮かばない。

倒れていないからだ。

崩れていないからだ。


それは、

生きている形のまま、命だけを抜き取られた像だった。


「もう、終わってる」


短く言った。


説明はしない。理由も言わない。言った瞬間、ミアが“考える”に入ってしまう。考えると崩れる。崩れると足が動かなくなる。


終わってる。

それだけでいい。


ミアは、もう一度魔物を見る。


近づいて初めて分かることがある。命が抜けたものには、独特の空白がある。そこにいたはずの“熱”がない。空気だけが残っている。


「……死んでる」


ミアが呟いた。


カイルは頷くだけにした。


「……どうして」


ミアは途中で言葉を止めた。どうして、と言いかけた瞬間に、問いが増える。問いが増えると、恐怖が増える。


足が震え始めた。今だ。遅れてくるやつが来た。


ミアは無意識に一歩後ろへ下がる。


その瞬間、カイルの背中がすぐ目の前にあった。


いつの間に、という距離。前に出たわけじゃない。戻ったわけでもない。ただ、最初からそこにいたみたいに。ミアが下がる場所を、先に埋めておいたみたいに。


「大丈夫」


カイルは低い声で言った。


「通れる」


ミアが喉を鳴らす音がした。怖さを飲み込む音。


「……本当に?」


「うん」


カイルは言い切る。


言い切ることは、責任を背負うことだ。街が関与しない契約を選んだ時点で、責任は最初から二人の間にしかない。だから、言い切る。


「ここ、見ない方がいい」


カイルは続けて言った。


「見てもいいけど、覚えなくていい」


ミアは一瞬だけカイルを見る。カイルの横顔は、いつも通りだった。店でくだらないことを言う顔と同じ。だから怖い。だから安心する。


「……分かりました」


ミアは頷いた。


カイルが歩き出す。


魔物の横を抜ける。近くを通っても、何もない。匂いも、気配も、ない。殺気も、ない。


ただ、死んでいる。


死んだ。それだけが結果だった。


道を抜けたところで、ミアの足が止まった。


カイルも止まる。今は止まっていい。止まる理由がある。止まっても、世界が崩れない場所まで来た。


ミアは両手を胸の前で握っていた。指が白い。震えが、まだ完全には止まっていない。


「……カイルさん」


「ん?」


「……ありがとうございました」


声が小さい。けれど、はっきりしている。言えたこと自体が、戻ってきた証拠だ。


「契約だからね」


カイルは軽く言う。


ミアが目を伏せた。


「それに……」


カイルは少しだけ間を置く。言葉を選ぶというより、余計な熱を乗せないための間。


「一緒にいただけだよ」


ミアの喉が動いた。


一緒にいただけ。

それだけで生きている。


ミアの中に、今までなかった感覚が生まれているのが分かった。理解ではなく、体感。言葉で説明しないまま、身体に残るもの。


怖い。分からない。でも、隣にいる。隣にいるから、足が動く。


それが安心だ。


「……仕入れ、続ける?」


カイルがいつもの調子で言うと、ミアは少しだけ笑った。笑ったけれど、すぐに消えた。消えてもいい。完全に戻る必要はない。戻りすぎると、嘘になる。


「はい」


ミアは言った。


「行きます」


その一言で、ミアは“生活”を取り戻した。怖いからやめる、じゃなくて、怖いまま続ける。そういう日がある。そういう日が、誰にでもある。


二人は先へ進む。


道の先で、小さな川が流れていた。水音がする。さっきまで薄かった音が、ここではちゃんと鳴る。世界は平気で顔を変える。だからこそ、人の隣が必要になる。


仕入れは、いつも通りではなかった。


ミアが品を選ぶ手が少し遅い。袋を持つ手が固い。周囲を見回す回数が増えている。


カイルはその横に立つ。立つだけだ。品物の値段を覗くでも、口を出すでもない。ミアの生活の領域に踏み込まない。踏み込むと、安心が崩れる。


カイルがいることの意味は、手を出すことではなく、手を出さなくてもいることだ。


「……これ」


ミアが小さな乾物を手に取った。


「いつもより高いですね」


「最近、色々高い」


カイルは適当に言った。適当さは、日常の道具だ。日常の道具が使えるなら、まだ大丈夫だ。


ミアが財布の中を覗く。


そして、ほんの少しだけ口元を引き結ぶ。


カイルは見ないふりをする。見てしまうと、ミアは「見られた」と思う。思うと、胸が縮む。胸が縮むと、頼んだことを後悔する。


後悔させたくない。


代わりにカイルは言った。


「今日の契約、追加していい?」


ミアが顔を上げる。


「え」


「仕入れの帰り、荷物持ちもする。サービス」


ミアが目を丸くした。


「それは、契約じゃないです」


「じゃあ、暇つぶし」


「またその言い方」


ミアが呆れたみたいに言う。声が少しだけ柔らかい。柔らかくなったなら、それでいい。


仕入れが終わって、帰り道。


袋が少し重い。ミアの歩幅が、行きよりほんのわずかに整っている。


それでも、門が見えてくるまでは、ミアはたまに後ろを振り返った。振り返っても、何もない。何もないのに振り返る。それは、体が覚えてしまった反射だ。


カイルはその振り返りを止めない。止めさせない。反射は、無理に抑えると別の形で出る。出るなら自然に出したほうがいい。


門が見えた。


街の音が戻ってくる。遠くの声。荷車。子どもの笑い。


「……戻ってきた」


ミアが呟いた。


「うん」


カイルも短く返す。


門をくぐると、空気が少しだけ暖かく感じた。実際に暖かいわけじゃない。街の匂いがあるからだ。火の匂い、食べ物の匂い、人の匂い。


ミアはそこで初めて、肩から力を抜いた。


抜いた瞬間、足がふらついた。


カイルは何も言わずに半歩寄る。支えるほどじゃない。倒れない距離だけを作る。


ミアは倒れなかった。


「……すみません」


ミアが小さく言う。


「何が?」


「さっき、足が……」


「普通だよ」


カイルはあっさり言った。


「普通の反応」


ミアは少しだけ驚いた顔をする。普通、と言われることに救われたんだろう。特別な怖さじゃない。特別な弱さじゃない。ただの反応。それなら、持って帰れる。


商店までの道の途中。


誰かの視線が、前よりはっきり刺さった。


道端の男が、ミアを見る。次にカイルを見る。最後に、二人の距離を見る。


その視線の意味は分かる。探っている。確かめている。噂は、もう街に根を張っている。


ミアの歩幅がほんの少しだけ縮む。


カイルは、歩幅を合わせる。


合わせるだけでいい。合わせることが、答えになる。


商店に戻ると、ミアは扉の前で立ち止まった。


「……カイルさん」


「ん?」


ミアは少し迷ってから言った。


「今日、来てくれてよかったです」


言語化した。

今までなら、言わなかったやつだ。


カイルは一拍だけ間を置く。間を置くのは、照れたからじゃない。受け止めるためだ。受け止めるときにすぐ返すと、軽くなる。


「よかった」


カイルはそう言って、軽く笑う。


「俺も暇じゃなくなったし」


「……もう、その言い方」


ミアが小さく笑った。


笑ってから、少しだけ真剣な目になる。


「でも……」


「うん」


「次も、お願いしてもいいですか」


ミアが言った。


「二人だけの話で」


その言葉が出た瞬間、契約の形がまた一つ増えた。


街は関与しない。

誰も保証しない。

だからこそ、二人の言葉が重い。


カイルは、軽く返す。


軽く返して、重さを抱える。


「いいよ」


ミアの肩が、少しだけ落ちる。落ちるのは安心の合図だ。


「ただし」


カイルは続ける。


「無理はしない」


ミアが小さく頷く。


「はい」


「怖かったら、やめる」


「……やめられないこともあります」


ミアが言った。


正直すぎる言葉。生活の言葉。


カイルは笑わない。


「じゃあ、怖いって言う」


ミアが目を上げる。


「言ったら、面倒かけます」


「面倒は、契約に入ってる」


カイルはあっさり言った。


ミアが一瞬だけ固まって、それから小さく息を吐いた。息が吐けたなら、それでいい。


扉が閉まる。


店の中の音がする。棚の音。布の擦れる音。いつもの日常の音。


カイルは店の外に立ったまま、空を見上げた。


空はいつも通りだった。

街もいつも通りに動いている。

なのに、少しだけ世界の端が欠けたみたいに見える。


それでも。


隣にいることは、できる。


英雄がどうとか、勇者がどうとか、そういうのはどうでもいい。名前が伝説に残っていようと、顔が知られていなかろうと、今日のミアには関係ない。


今日のミアに必要だったのは、たぶん。


理解じゃなくて、隣だった。


カイルは口癖を出す。


「あー、暇だぁ」


声に出した瞬間、扉の向こうでミアが少しだけ笑った気配がした。


それが、今日の勝利だった。

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